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【茶谷半次郎 文楽 あとがき】

(2016.01.09)
提供者:ね太郎
 
1954.4.25 創元社発行

文樂 目次

  文五郎プロフィール
  栄三の憶い出
  続・栄三の憶い出
  鶴沢叶聞書
  山城少掾聞書
【いずれも初出とは、仮名遣い、用字が異なる。】
 
 あとがき
 
 この本が、こうして写真家入江泰吉氏との共著の形で、氏の作品を併せて世に出る運びになつたことは、それが氏とのあいだでの久しい懸案であつただけに、私には大変悦ばしい。
 入江氏は現在は奈良に住んで、主として仏像を撮り、狙いすました清洌な作品に手法の冴えを示しつつあるが、十年余り前、文楽に傾倒していた相当に長い一時期があつた。モチーフとしての文楽に対する当時の氏の異常な熱情を、その無数といつてよい夥しい作品の量が語つている。文楽の幕内で氏を識らない者はなく、寡默で慇懃な氏の人柄は誰からも敬愛されていた。随つて文楽での場合には、幕内の人々の氏への親和が、心置のない仕事を氏にさせた。氏の作品には、衒いのない文楽という世界の空気が流れている。
 この本は標題を「文楽」としているが、人形のポーズや舞台の写真は、吉田文五郎、一世吉田栄三両師のものの内から選んで、現役の人形陣を取上げなかつたのは、我々に近しいこの生歿二名人の舞台の悌を伝えるのが、企画の意図だつたからである。現在も舞台を勤めつつあるとは云え、高齢の今の文五郎師に屢〃ポーズを强いることは望み難いであろうし、当時にあつても、入江氏が師と昵懇であつたことが、これだけ多くの作品を残したのである。栄三師の写真に至つては、この程度に纏つたものは、入江氏の作品を措いてはないのであつて、その意味でも珍重に価いするが、それらは故人の人形のかたちの、追随を断つ端嚴さを今更に偲ばせる。「かしら」の写真にしても、ここに収めたものの大方が戦災で焼失している。入江氏は、よい時に、よい仕事をして置いてくれたと云わねばならない。
 人形の舞台に多く頁を割いたので、太夫、三味線の写真は、櫓下である豊竹山城少掾、三味線紋下格の鶴沢清八の、それぞれの業の代表的地位にある両師にとどめざるを得なかつた。読者並に幕内の諒を乞うて置く。
 
 本文に就いて云うと「文五郎プロフィール」「栄三の憶い出」「続・栄三の憶い出」は、入江氏の写真集に備えて書いたのであるが、自由な形式のこれらの小篇に骨組を与えるものは、諸所に抜書きした畏友大西重孝氏の「人形の演出とその解説」からの抜書きであろう。執筆当時快くそれを許諾された氏の厚意を改めて謝すと共に、氏が文楽の人形の型の研究では、唯一の権威であることを云つて置きたい。また故栄三郎君の咄には、吉永孝雄氏のノートに負うものが多いのを氏に謝したい。執筆の年月はこの三篇が一番新しい。
 
 「鶴沢叶聞書」は、書いたのはこの内では一番古く、私はその頃叶であつた今の清八師に義太夫の稽古をして貰つていて、稽古の合間に師が語るところを、試みに書留めたものである。当時の私には、義太夫節というものの性格が充分にはまだ呑込めていなかつた。咄を受取る手心に不慥かなものがあつた。この聞書になお読者の興味を牽くものがあるとすれば、師が諄(くど)いほどに念を入れて咄をしてくれたことに功を帰せねばならない。稽古は暫くでやめ、私の義太夫はものにならずに終つたが、師との気安い往来は今も続いている。−−近頃に遇つた折の咄の中で、
 「あいさに師匠(三代清六)のレコードをかけて聽きまんが、やつぱり巧いこと弾きやはるなア……思いまんな」と師は述懷していた。名三味線と謳われたが清六師は五十五歳で世を去つている。清八師はことし慥か七十五歳になつた筈である。老匠の胸奥になお消えない、この謙虚な師匠への傾倒は、私の心を温めた。
 
 「山城少掾聞書」は終戦の年の秋から始めて、書上げるのに、断続しながらではあつたが三年余りを費した。山城師の宅へ通い始めた頃は、師は木屋町に仮寓していたが、疎開先から引揚げて来たばかりで、調度らしいものもない中で、師はいつも翳のない、明るい顔を見せていた。早くも傍らに院本や古番附の類を積み重ね、それが師の道楽と云える調べ物の筆を執り始めているらしい机辺の気配が、師の弛みのない生活意欲を感じさせた。
 私が師の宅へ通つているあいだに、蛸薬師の今の家への転居、芸術院入り、しげ子先夫人の逝去、掾位受領−−これだけのことがあり、師の身辺は相当に多事だつた。私は身近く師の喜悦と哀傷を見てきた。
 二年前病気で倒れた時は容態が気遣われたが、幸に早く恢復して、半年余り休演しただけで、その後は引続いて舞台を勤めている。
 私は師に斯道(このみち)の古匠の悌を偲ぶ。師の至芸に接することは、私には哀しきまでの愉しさであるだけに、師の舞台生活が長かれと念じないでいられない。この気持は蓋し私ひとりのものでないであろう。
 なお、ここに収めた「鶴沢叶聞書」と「山城少掾聞書」は芸談を主にした抜萃であることをお断わりする。
 この本が出るに就いて網野菊氏、創元社の柚登美枝氏の一方ならぬ御尽力に預つた。両氏の厚意を深く謝したい。
 
 文楽は、私の心を遊ばせて呉れる故旧の世界である。その芸に牽かれ、そこにいる人たちの芸に打込むその気構えに牽かれて、私はこのようなものを書き続けてきた。
 −−「芸」とは、しかしなんであろう。
 感覚に訴える瞬時に消えて行く官能のリズムに、感覚を超えたものの影を宿そうとする、意識しない演技の努力が、我々に「芸」と映るのではなかろうか。芸能にそれを迫る暗默の圧力が、演技の果しない修練を强いるのであつて、それが芸能に課せられた苛酷な宿命なのでなかろうか。私はそんなことを考えたりする。
 昭和二十九年四月  著者