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【安部豊武 芸能といけ花】

(2016.01.09)
提供者:ね太郎
 
 
 「芸」とはしかしなんであろう 芸能といけ花 5 日本美術工芸 400 pp114-115 1972
 
五行本院(まる)本
琴三味線の指南屋も琴三味線の指南屋も
お鶴さん嘸ぞ待遠ふにあろふなお鶴さん待遠ふにあろうな
イエイエ夫ではとんと声にしをがれないはいなイエイエしおがれない
あの面白さ見るときはおつとヲホホよしよしあの面白さ見る時はムよしよし
ヲヲけうはマアそこ迄そこ迄けうはマアそこまで
(「山城少掾聞書」)
 江戸堀小学校横の祖父の家におりました頃、隣り露路に文楽の三味線が居て、朝早くからデェンデェンと大きな音を立てて稽古をしているのを、子供心にも面白く、きき耳を立てていたことを思い出します。このあたりは、御霊神社の氏子でしたので、境内にある文楽は絵看板などを見て、その頃からよく馴染んでいました。母も芸ごとが好きで、私を背負い、参詣の帰りには文楽の立見をしたといいます。また時々、場内にお神楽や柏手の音も流れて来て、全く社前興行のようでした。
 その頃の文楽の開演は早く、朝の八時に三番叟があり、大序は二階の簾内で、大夫は姿を見せず、一本高い調子で二、三人が五行本一、二枚ずつを交代で語り終えます。段物の終わり頃の大夫になりますと、トヤぶれがあります。「何々大夫の場」と呼ぶ声が、大夫さまと聞きたがえるような、間のびした声ですが、前弾きの三味線に乗って始まりますと、こっちも身が引きしまるようで、何だか御魂うつしを聞くようにも感じられたものです。
 私が文楽に通いはじめたのは丁度、三代越路大夫が病気で倒れ、津の強、伊達の艶、古靱の実といわれた三人の大夫の鼎立の頃でした。他に多勢の大夫もありましたが、人気もあり芸も一段すぐれていましたので、私達もこの三人に深く傾倒していました。もう一人、堀江の弥大夫という方がおられましたが、皮肉な語り口で有名で、また世話物もよく、「妻八」や、博多小女郎の住居などは、噂通りしっとりとしたものでした。然し、簾内などと小馬鹿にしていますが、私の友人で、大序から掛合いの出語りになったばかりの人が、小唄の会で唄うのを聞いて驚きました。実に立派なものでした。いくら良いといっても小唄はやはり素人芸だと、つくづくと感じました。それはさておき、文楽の三味線は神さま扱いにされていた頃でしたので、三代越路を弾いた吉兵衛、また友治郎、道八など、或いは名庭絃阿弥となった広助さんなどは、その時の大夫より一つ上のように思われ、何れも立派なものでした。人形では玉蔵です。この人の玉手御前を見ましたが、おそらく当時の歌舞伎以上だったようです。栄三の女形や二枚目は艶のあるもので、治兵衛の後姿など、今も目に残っております。荒事使いの文三が早く亡くなったので栄三に廻り、残念ながら彼の繊細な芸を見ることも少なくなりましたが、古靱の心理的な芸にはなくてはならぬ人でした。盛綱の人形に、初代雁治郎と同じ衣裳をつけて評判になったこともあります。とにかくもこうした名人芸につかれて夜の八時に終わって出ますと、三味線の音がいつまでも耳の底に残って消えないのです。
 或る時、座の前まで来ますとその日は総稽古らしく、人の出入りもあるので、勝手知った枡へ入って見ておりましたが、場内は、意外に緊張した雰囲気です。平土間に赤毛氈を敷きつめ、座主らしい人を囲んで三、四人が座を占め、語り終えた大夫に何かと駄目を出しているようです。大夫三味線は黒絞付、人形は衣裳づけで黒衣なし、何となく重々しい気分です。暫くしますと座の人が来て初日は明日ですので改めてお出でを、と丁寧な挨拶、私も恐縮して帰りました。然し思いがけなくきびしい文楽の芸の修業に、直かにふれた気がいたしました。
 その後、御霊文楽座が焼けて弁天座に移り、そのあとにできた四ツ橋も戦災に会い、次第に大夫三味線も少なくなつたうえ組合さわぎなども出て、文楽の斜陽は続きます。然しとにもかくにも今日まで持ち続けて来られたのも、古靱の芸の力であったと私は思っています。戦前、弁天座の立見席で、大功記の皐月のくどき「主を殺して……」の突っこみがものたらないという、なげきを耳にしましたが、何といっても最近これ程の大夫はありますまい。私は古靱と先代清六の時は知りませんが、新左衛門と組んだ朝顔日記の浜松の頃から聞いております。戦前戦後を通じて最も印象深いものは、昭和二十一年の朝日会館での堀川です。永い戦争のあと、復興した文楽を聞く喜びとともに、古靱の堰を切った思いの出演、実に清らかな情緒ある堀川でした。曲が終わると廊下に飛び出し、集まった朝日新聞の人達と、互いに語り喜び合いました。これは一つには、文楽を通じて日本の芸能のなお生きている姿を見た喜びでもあったのです。同じ頃、京都でも古靱一門の研究会がありました。語り終わると大夫が客からいろいろ意見を聞く催しです。語る方も聞く客も皆な真剣でした。古靱は終わりに、私の全く知らない古曲を語りました。
 はじめにありますのは、堀川の現行の五行本と院本との違いを示しているものですが、これは私の旧友、茶谷半次郎さんの「山城少掾聞書」の中にあるもので、古靱が話だけではわからないだろうと、自身で筆をとり半紙に百行近く書いて渡されたものです。茶谷さんが文楽好きだった私に記念にと下さったものです。私は嬉しく頂戴して早速その一部を表具し、座右の宝にしております。ご覧頂けばおわかりと思いますが、古靱は五行本の中の入事(いれごと)を整理し、あくまでも院本に近づけようとしているのです。同時にいい足りない、また改めねばならぬものは充分に生かして語っておられたのでしょう、その行には○が打ってありました。
 何れにしましても「今だに舞台へ出る時は妙に気持が重くるしくなって仕方がありません」という古靱大夫の、いつわらぬ心境を語ることより始まるこの聞書は、中央公論に出た時から愛読していたものですが、茶谷さんがなくなって三年、この度はからずも共著の写真家入江泰吉先生から頂戴いたしましたので、古靱の語りを中心に、頂いた「文楽」を参考に、我々の生花にも通じる芸と写実について考えてみたいと思います。(この項続く)(小原流いけ花作家)
 
  「芸」とはしかしなんであろう(続) 芸能といけ花 6 日本美術工芸 401 pp106-107 1972
 
 白埴の瓶こそよけれ霧ながら
 朝はつめたき水くみにけれ
 洗い米かわきて白きさ筵に
 ひそかに椶櫚の花こぼれ居り
  長塚節
 宝生の野口兼資の「砧」を見て、すごい写実だと感激された方がございます。「深井」をつけた芦屋女を演じる難声の野口さんの能の中の、美しいとさえ見える女の凄婉そのものに深くうたれて、これを写実だと受けとられたのに違いありません。私はこの章を書きはじめる前に古い録音の摂津大掾と広助(名庭絃阿弥)の「十種香」と、三代目大隅大夫と三代目団平の「壷坂」のレコード、同じく摂津大掾に教えを受けた呂昇の「野崎村」を加えて聞いてみました。以前は珍しいものだと聞きながしたものばかりですが、今日改めて聞いてみますと、録音の悪いにかかわらず、すべての詞が明晰であるのに驚きました。呂昇はとにかく、両人のさわりも古靱の芸談にあるように、工夫と力倆ならではと思わせるものであり、当時の流行を生み出し人を惹きつける艶物の面白さを充分に示しているものです。また全体に、私達が聞きなれているこの頃のものよりは、さらりとしているのです。とくに沢市のせりふなど、思い入れも少なく、全く素に近いのです。これはその頃の風潮でもあった写実主義の現われがあるのかもしれません。同じく『鶴沢叶聞書』の中で大隅大夫が、大掾さんの妹背山四段目金輪五郎の鱶七がお三輪をさし殺す場で、「政大夫のはわき腹……ですぐに、ぐっとさし通せば……ですが、大掾さんは、ぐっとで間をとります」と云ったのを伝え聞いて大掾さんは、政大夫のはよく覚えていますが、これは不憫ながらお三輪を殺すところなので、わしは、わき腹と云うてから口のうちで南無阿弥仏と称えて、それからぐっとさし通せばと語っていると云ったそうです。大隅大夫もこれを聞いて、さすがと感心したとあります。然し、これは何れも芝居と云う虚構の中にあって、あくまでドラマツルギーの表現に忠実であることが写実である、としている二人でありながら、それぞれの芸風の違いが自ずとこうした形で現われたのであろうと思いますが、唯、大掾の中に、わずかながら人間性を見られるものが感じられるのが、他の大夫のまねられぬ魅力であったのでしょう。古靱大夫の近代性はこれを受け、理づめに深く掘り下げて行ったのだと思います。
 徳川時代の人は、ありのままの自然を見る目を失い、詩も書も絵もみな粉本があって、直接自然の生命に接し、それに触発されることも少なかったと云われています。然し、明治以来の文明開化の合理性の波は、文学芸術はもとより、美術工芸、また私どもの生花にも及んで来ております。その中でも私は斎藤茂吉はじめ、あららぎの人達の主張には強く打たれました。茂吉先生は、常々写生を強調されて、歌づくりの態度はただ念々写生にあるとされ、また長塚節も「余は天然を酷愛す、故に余が制作は常に天然と相離るること能はず」と云っております。生花の西川一草亭は「演劇が生きた人間を舞台にたてて、人間生活の美しい一片を描き出している様に、自然の花を使って、自然の様々な変化を、花瓶と云う舞台に描き出すのが日本の生花である」としながら「どんな枝ぶりを見ても、ただ、頭の中にある様な木振りのものに、すべてを生けようとする習慣がついていて、そこに無理が出来、不自然が出来ます。生花の一番の禁物は無理をすること、不自然になることです」などと、生花の自然主義(?)を主張しています。またその不自然と云われている格花でも、明治末年より世論に押されて、植物の中の自然の尊さに属目し、雅整体と称して、あくまで旧来の流儀の形を守りながら、無理を承知で、植物の自然の情趣を加味しようとしたり、或いは天然の植物の中に、その定められた旧型を何とか見出そうとする努力が試みられたりしております。これは当時の、より自然であり、写実であるとされている投入、盛花の流行に対する抵抗ですが、時代は既に型本位の生花を捨てて自由を求め、現代的な挿花へと移っています。更に戦後はこれを乗り越えて、前衛挿花に突入していくのです。
 すべて芸術・芸能は、人が創るが如くに見えて、実は社会に受け入れられることによって生まれ、育てられ、また変転して行くもののようです。例えば庭園などはその良い例です。天竜寺、苔寺の庭、また竜安寺の石庭も、恐らく原型のままではありますまい。これを今日の姿に変え、また維持して来たのもまた社会、大衆です。行く毎に変わっていると思わせられる大仙院など、如実にそれを証明しているように見えます。
 古靱太夫は先達の芸をあくまで踏襲し、院本や古書を調べて常にその義太夫の本質を突きつめようとしています。即ち、現代の否定が擬古になり、擬古がまた現代の文楽に古靱風を作ることになってきたのです。「聞書」にある「道明寺」の覚寿を楽しみ、「堀川」では、母親を主役としているなどの、彼の理づめの良さを受け入れ、これを私達は喝采し、愛好して来ているのです。ある時、私は彼の「合邦」を聞き、玉手御前の前半は年増女の情痴を描き、後半は貞女になると云うドンデン返しを試みているのではないかと思って、茶谷氏を通じて聞いて貰いましたが、古靱は、前も腹は貞女です、と答えたそうです。『聞書』最後の「岡崎」などでは、既に写実から象徴の道へと進んでいたようです。然し去年、文楽の事務所で大西重孝さんと語り合いました時に、この頃の文楽はすっかり山城さん風になってしまって、志度寺のお辻の断末魔の呂太夫さんのような大きな声はもう聞けませんな……と申しますと、大西さんはこれには答えられず、唯、苦笑しておられました。
 長塚節の和歌について、私の尊敬しております唐木順三さんは、晩年のものよりも比較的初期の歌を好むと云っておられます。然し、私ども生花にたずさわるものは、やはり植物の天然に観入すると申しましょうか、より象徴的なものを理想としております。その意味でも、始めにのせました二首の和歌は、私の最も愛詠するものであり、また、生花の造型に、古靱風と共に教えられる処多いものだと考えているのでございます。(小原流いけばな作家)