FILE 118−4

【茶谷半次郎 栄三の憶ひ出】

(2015.11.26)
提供者:ね太郎
 
幕間
4(4) 1949.4栄三の憶ひ出 (その一) [栄三郎に訊く]
4(5) 1949.5栄三の憶ひ出 (その二) [栄三郎・玉市に訊く]
4(6) 1949.6栄三の憶ひ出 (その三) [玉市に訊く]
4(10) 1949.10続 栄三の憶ひ出 (その一) −− 光造に訊く−−
4(11) 1949.11続 栄三の憶ひ出 (その二)−− 光造に訊く−−
後 創元社「文樂」(1954.4)に収載
 
 
栄三の憶ひ出 (その一) 幕間 4巻4号 (1949.4.5) pp36-38
 
 と、いつても私は−−鰻谷の元の高島屋の真裏にあつた間口の狭い、昔風に表二階の屋根の低い、いつもひッそりしてゐたしもた屋の、出格子に「百草根」といふリュウマチの薬の、黒に金文字の細長い看板を掛け、柳本栄次郎と表札の出てた栄三さんの家は、通りすがりの久しい馴染だつたし、たまにはその附近の途上で、むッつりした表情の小柄な栄三さんが、文楽座へ出勤するらしい、羽織だけの着流しに無帽で、一人で歩るいてゐるのに出遇ふこともあつた。風采のあがらない、それに芸人らしいところの微塵もなかつた栄三さんは、堅気な、どこか佐野屋橋へんの中どこの古着屋の主とでもいつた風躰に見えた。ではあつたが−−
 栄三さんに個人的に遇つたのは僅かに二、三度で、それも少し長く差で咄合つたのは、たゞ一度きりである。舞台の馴染も時間的には長かつたが、それとて興行毎に外さないなどいつたほどに、あれもこれも観てゐるわけではない。
 栄三といふ人。その舞台。
 そのいづれを語るにも、私には持駒が充分でない。で、こゝでもやはり栄三さんに親炙してゐた人たちに憶ひ出を訊くことにする。それより手がないのである。
 
 が、その一度だけ楽屋の部屋で遇つた時のことは、よく憶えてゐる。
 咄の取ッつきに−−恰度道八さんに団平の咄を聴いて書いてた時だつたので−−人形を遣ふはうに、名人の三味線はどんな手応えがあつたか、と訊いてみたのだが、
 −−そら、稲荷座で、おんなじ屋根のしたで働いてた月日は長(なご)ましたけど、悲しいことにはその自分[時分]にはまだ、団平はんの三味線がどやのこやのいへるやうな役がわたしにつきまへなんだ。
 素ッ気ないくらい飾らない返答に、しばらく二の句が継げなかつた。
 壁際に片寄せた長火鉢に鉄瓶を掛けてゐて、それを中に対坐したのだが、栄三さんは自分で茶を淹れて、長火鉢の縁へ出してくれるのだつた。黒い太い鼈甲の眼鏡の奥に、眼尻に小皺をよせた眼が笑つてゐて、舞台で見馴れた、口をへの字に結んだ、まるで憤つてゞもゐるやうなとは、凡そ似ても似つかぬ柔和な、好々爺らしい顔附の栄三さんだつた。まつたく、それは想像のほかだつた。
 私が−−つねづね太夫、三味線が床へ並ぶのを見ると、まづその人柄を気にしないではゐられない。演者に誠実な人間が感じられないと耳を寄せる気持になれない。情を語る、模様を弾く、といふ。人間[人形]のはうだと人形に心を入れる、などゝいふが、もちろん技巧がなければ芸は成立たないが、所詮は芸は演者の人間の問題だと思ふ−−今更らしく、月並なそんな感想をいふと、
 −−けつきよく……まあ……そこへ落ちましやろなア……
 笑ひながらではあるが、一語々々を刻むやうに、頗る要慎深い物のいひ方をする。あけすけで、まるで無防備な文五郎さんと対蹠的な、陰性の人を私は栄三さんに感し[じ]た。が、それでも、そんなとこから端緒がほぐれ、栄三さんは少し乗り出して、ポツリ、ポツリ咄をしてくれるのだつた。
 −−なにが辛いいふて、わたしに一番辛いのんは……それをいふと我身の恥をいはんなりまへんが……わたしは貧乏で育つて、小ッさい時には丁稚奉公もしてきました。けふまでに知つてるのんいふたら貧乏暮しの生活だけだす。……そのわたしが、稼業(しようばい)といひ条、舞台で「菅原」が出りや菅丞相、「二月堂」が出りや良弁僧上といふやうな、身分の高い、偉い人格者を遣はんなりまへん。まあ、世話もんのどないぞした役ぐらいやつたら恰度えゝのだすが、お公卿さんや偉い坊さんの生活がどんなもんや一ぺんも見たこともないのんに、下司で育つたもんが、なんとか形をつけてその人形を遣はんならん。これがなにより心苦しおます。なんにもせんと、たゞジッとしてるだけでも、これは躰にこたえます……
 −−あすが知れん躰だつさかい、無理にでも若いもんに、なんでもさすやうにしとります。これで命があつたとこで、さうさう舞台も勤まりまへんやろ思ひま。
 栄三さんはその時七十二歳だつた。
 −−誰方も、わたしがこない小ッちやいことは知りやはりまへんやろ。舞台では裃で肩が張つてるとこへ、高い下駄は履いてまつし……。それだけ蔭で、ひとさんに判らん苦労をしてます。目方はこれで十貫おまへん。二百目ほど切れまつしやろ……。
 文楽の人形遣ひが舞台で履く下駄は、普通に使はれてゐるのは高さが曲尺で一尺ぐらい。格別に小兵な栄三さんが大きい人形−−熊谷とか、松王丸とか、団七とかを遣ふ時に履くのは、その倍ぐらいあるさうで、人形の重味との均衡で歩るけるのだといふ。
 着附だけで、忙しさうに出たり這入つたりしてゐた栄三郎君が、立ち止まつて、
 −−二尺二寸おます……
 そう、傍らから口を挟む。
 反対の窓際のはうで、光造君が出の仕度をしてゐた。−−部屋にはもう灯が這入つてゐた。
 これも、いつも私の考えることなのだが、出遣ひの時の裃や着附の柄や色合が、人形の衣裳と紛はしいのは、見るはうの印象が錯雑して困る。これを、着附は黒と白。裃は小紋か、思ひきつて無地にして、色合も、人形の邪魔にならぬ程度に、渋いもの、派手なもの、その中間のものといつた風に、だいたい三とほりぐらいの一定のものに統一出来ないものか−−それをいつて−−師匠の在世中に、なんとか改革して置いて貰えないものか、といふと、
 −−わたしも、それを考えんことはおまへん。そら……そないしたらえゝ思ひまんねけど……。前にやかましいふて、黒衣の紐だけは黒にしましたんやが……
 言外に、ちよつとそれには手がつけ憎い意味を仄めかしたが、
 −−しかし、考えんなんことや思ひま。
 と、つけ足すのだつた。
 −−わたしも昔は阿呆なことをしたもんだす。団七を遣ふのんに、人形とおんなじ茶の格子の着附を着て出たことがおました。それ一ぺんきりでやめましたけどなア……
 栄三さんは眼尻の皺を深くする。
 なにといふことのない、あとの咄はもう憶えてゐないが、栄三郎君が、やはり立つたまゝ、ちよつと近づいて、小声で、
 −−お師匠はん、もう十分前(?)でつせ……
 と出の時間が近づいたことを知らすのだつたが、私に心を遣つてか、栄三さんは頷き返へしもせず、坐をずらしかける私を押えるやうに、
 −−まだ、よろしよおま。
 と、いつて、そのまゝにしてゐた。
 汐を計つて、私が座布団を辷ると、
 −−なにも、おみやげがおまへいで……
 と慇懃にいふのだつた。お茶菓子を出さなかつた、といふ意味だつたらしい。−−文五郎さんと二人が朝日文化賞を貰つた披露の公演が、大阪朝日会館にあつた直前だつたから、昭和十八年の五月のはじめだつたと憶えてゐる。
 黒衣の紐の件については「栄三自伝」に
 −−次の五月(事実は昭和五年の四月)に私が提案して黒衣の生地を全部木綿に、紐は全部黒、そして黒衣を著た時は黒バッチに紺足袋といふことに改めました。これまでは、黒衣の生地は銘々思ひ/\で、彦六座で才治さんなどは、紋縮緬を著てゐられ、先頃の玉蔵さんなどは、冬になると天鵞絨で、文五郎さんも繻子か何かのを著てゐられました。又紐も、銘々勝手な色で、若い者は派手な色を附けて居ましたのを、その時統一した訳です。−−
 と、出てゐる。
 その時の時事新報の劇評で、石割松太郎氏はそれに触れて、
 −−黒は舞台から人形遣ひの黒子の紐が黒色に変つた。これは尤も喜ぶべき一事象である。元来は緋、或ひは淡紅色金糸、萌黄を景容として用ひてゐたのを全部黒にしたのはよろしい。即ち黒は舞台上で「無」を意味する約束である。「無」の条件があるに拘はらず「無」を眼障りとするのは、看客側に曲がある。そして人形遣ひが舞台の一本の紐さへも黒色にした事を、この意味から私は喜びたい。−−
 と、書いてゐる。
 栄三さんの意向も、そこにあつたと思ふ。
 
 栄三さんは、終戦の年の昭和二十年の十二月九日、疎開先の大和小泉の住野邸でなくなつた。行年七十四歳。法名清光院浄岳直道栄満居士。その年の六月の末には、罹災後別居を余儀なくされてゐた妻女うめさんを先立たせてゐる。
 最後の舞台は、同年九月十五日から五日間の、大阪朝日会館での復興公演第三回の時で、役は「新口村」の孫右衛門。栄三さんは同じ月のその前の京都南座の興行中に、脚に据えた灸の痕が化膿して歩行が困難になつてゐたので、うしろから黒衣に腰を支えさして、孫右衛門の出の「孫右衛門は老足」のから「仏に嘘が吐かれうかと、どうとひれ伏しもだえ泣き」まで勤め、あとを玉市さんに代役さしてゐたが、遂に押しきれず、千秋楽一日を残し、二十二日きりで休場した。この膿腫が、その年は罹災する前から病蓐に親しみ勝ちだつた老体の衰強[衰弱]を、一層早めたものゝやうに思はれる。
 
 栄三郎君には、暇を見て栄三さんの咄をゆつくり聴かして貰ふ約束がしてあつた。
 −−栄三郎君は、栄三さんの愛弟子で、はじめ門造さんの弟子だつたのを貰い請けたのだと聞いてゐる。子供のなかつた栄三さんは、栄三郎君を我子のやうに可愛がり、その芸が伸びて行くのを愉しんで眺めてゐる風に見えた。栄三郎君も芸熱心で、師匠思ひだつた。若手の人形遣ひの中で、彼の存在は際立つて光つてゐた。若い彼の芸が、師匠譲りに理詰な、内攻したものだつた。彼の真摯な舞台に私は終始親愛の眼を注いできた。栄三さんの芸脈の忠実な継承者として、彼の将来に期待をかけてきた。
 顔を合はすたびに、その内ゆつくり遇はう、といひ合ひながら、私の都合からそれが延び延びになつてゐか[ゐた]。
 その栄三郎君が嘘のやうに、昭和二十二年の十月二十四日に急逝した。まだ三十八歳の若さで、その三周忌も待たずに師匠のあとを追つたのである。−−九月の東劇の東京興行を一日まで持越したので、十月の文楽座の初日は十二日だつたが、慥か初日か二日目かに廊下で私は彼に出遇つて、立咄に東京[の咄]を聴いたりした、その時も常となんの変りもなかつた。その月の彼の役は「玉藻前、三段目」の萩の方と「鮓屋」の若葉内侍だつたが、十七日の昼の萩の方を勤めたきりで、躰の工合が悪いので休演した。私はそれも知らなかつた。新聞で彼の訃を知つた時、私は不意に足もとを掬はれたやうに感じた。信じかねる気持で、三、四行ほどの短い記事を、何度も読み返したのだつた。
 −−彼の坐つてゐるうしろの壁に、栄三さんの「冥途の飛脚」の羽織落しの忠兵衛の写真を釣つた、楽屋の部屋で、
 −−あいさに、なんでお師匠はん、そない早よ死にやりは[やはり]ましてんいふて、不足いひとなりまんねん……
 鬱憤でもいふやうに、師匠への思慕を洩らしてゐた彼の、寂し気な自ルの顔が今も眼に泛ぶ。
 −−晩には、たいて一緒に帰りましたけど、師匠は鰻谷をまつすぐ帰りやはるし、私は宗右衛門町にゐましたよつて、中橋筋の角で別れまんねやが、なんぞ咄のある時は、いつでも十合の横の暗いとこへくると、むこで立停つて、いふて聞かしやはりました。……こんどの役、どない思ふて遣てるねん?あれはかうやぜ、いふて教えてくりやはつたり、昼間お客さんに褒められて悦んでたりすると、けふのお客で、のぼつたらあかんぜ。腕にたるみがでけるぜ……?いふてきかしやはりました。のぼつたら、あかんは、しじゆういはれました。部屋でひとのゐるところでは、なんにもいやはれへん人だした。もう、いのか、と師匠のはうから誘やはる時は、たいて、なんぞ咄のある時だした。
 そんな咄をして、
 −−もう、いのか、いふてくりやはる人が、ゐやはれへんやうになりました。せめてもう五、六年生きてゝくりやはつたらなア思ひまんねん……
 と、いつて憮然としてゐた彼だつた
 が−−
 小柄で、優形で、おとなしさうに見えたに似ず、口を開いて咄が芸のことになると、彼はなかなか理窟屋だつた。見[自]ら恃むところが強く、一面に狷介といへる性格を、その柔かな外丰:が包んでゐるやうだつた。番附の位置もさう上ではなかつたし、さうした性格も累をしてか、楽屋の空気にも、なんとなく彼に白々しいものがあつたやうに窺はれた。それだけに、亡師を想う気持は切であつたのであらう。栄三郎君の話題は、いつも栄三さんを離れなかつた。
 彼の栄三さん追懐談断片−−
 栄三郎君は、昭和十三年七月に二十九歳で結婚した。その秋、文楽は上京して明治座へ出演した。「尼ケ崎」が出て、役割は光秀が栄三、操が文五郎、十次郎が四代目玉造、久吉が門造、皐月が小兵吉といふ顔触れで、初菊の役が彼に振当てられた。彼にも、その近年にない晴れの舞台だつた。
 その時のことだつた。
 彼は新妻を件[伴]つて上京してゐたが、芝居が始まつて間のないある日、役をすまして、夜自分の宿へ帰つて夕飯を食べてゐると、栄三さんから、飯がすんで一服してからでよいから宿まできてくれ、といふ言づけがきた。夫婦がきてくれといふことだつたので、ちよつと変に思ひながらも、二人で栄三さんの宿へ出かけて行くと、
 −−まア、そこへ坐り。
 と、いつて暫くして栄三さんは、
 −−お前、初菊遣てるが、あこ、どない思ふて遣てるねん?
 と、十次郎の「もう目が見えぬ父上母上初菊殿」の件りの初菊の振りのことを栄三郎君に訊くのだ。こゝは十次郎が操のはうへ探り寄り、それから初菊のはうへ寄つて行くところだが、初菊はたゞ泣き入つてゐる−−といふのが昔からの振りなので、師匠の意中を測りかねてゐると、栄三さんは、こんどは栄三郎君の細君に、
 −−あんたやつたら、あんな時にどないしやはる?夫が深手を負ふて戻つてきてるのんに、ほつたらかしといて、泣いてばつかりゐやはるか?
 と、訊いて、それから栄三郎君に、
 −−今生の別れやないか。十次郎の手を執つて抱き起して縋りつくぐらいの心になれへんか。お前のは、あれやつたら数だけや。十次郎が探り寄つてきたら、ぐッと抱き締めるんや。……これ一つやあらへんぜ。これから何を持たされても、相手の役のいふてることや、文章の意味もチャンと呑み込んで、その気になつて遣はな、たゞ人形動かしてたらあかん。……お前は、なにも家内の前でまで恥掻かさんかて思ふやろけど、そやない。わしは二人によう憶えてゝもろて、お前らもその気持でやつて行つてもらひたい思ふたんや。さきで、わしがゐえへんやうになつても、なんぞの折に思ひ出してもらを思ふて憎れ口きいたんや。そこ、よう聞き分けや。……ま、ご苦労やつた。
 さういつて、栄三さんは茶菓を奨めて二人を犒ふのだつた。−−懇ろにいつて聞かされたのだが、栄三郎君にすると、若気に、すこしは腕に自信もあつたゞけに、新婚の妻の前で誇りを傷けられたのにグーッときて、家内まで呼びやがつて……と、心中頗る平かでなかつた。
 栄三郎君はムシャクシャも手伝つて、すぐその咄を、訴訟まじりに十次郎を遣つてゐた玉蔵さんにすると、
 −−そりや一理あるな。そないやろやないか。
 と、アッサリいはれたので、すこし勝手が違つた気持でもあつたが、虫を押さえてさうやることに決めた。
(この項つゞく)
 
 栄三の憶ひ出 (その二)幕間 4巻5号 (1949.5.5) pp36-39
 
(承前)やつてみると、なるほど、そのはうがぐんと熱が這入る。−−いつか師匠に駄目を出された時の不満も忘れて舞台を勤めてゐると、都新聞の劇評で三宅周太郎氏が、初菊が大変いゝと褒めた。
 栄三郎君は嬉しさの余り、その新聞を持つて師匠の部屋へ飛んで行つて、
 −−お師匠はん、新聞でわての初菊褒めてまつせ。
 と、いふと、
 −−お前、それにのぼつたらあかんぜ。……しかし、結構やつたな。
 栄三さんもともども悦ぶのだつた。
 栄三郎君は、
 −−あとで、三宅さんに遇ふて、お礼いひましたら、僕の筆ぢやないよ、君の腕だよ、いふてくりやはるので愧かしなりました。これからこの腹でやらんなんな、思ひました。
 と、いつてゐた。
 「喧嘩場」の若狭助の役が、初役で彼についた時だつた。師直は玉幸、珍才は紋司だつた。−−紋司君は文五郎さんの弟子だが、彼とは同い齢。顔も同格である。
 栄三郎君が若狭助の這入るところで、刀の鐺で珍才に、のけ、のけ、といふ振りで這入るのを或る日見て、栄三さんは、
 −−けふ一緒にいの。
 と、栄三郎君を誘つた。それまで黙つて歩るいてゐた栄三さんは、いつもそこで別れる中橋筋までくると、立停つて、
 −−刀の鐺でゴテゴテやつてるやうやけど、あれでは、いかんぜ。若狭助は珍才を、あたまから見くだしてんなん役や。同格のもんが遣てゝも、相手が大名の役持つてたら、あたま下げんならんのやさかい、なんにも紋司に遠慮することあらへん。そばへ来たら、かめへん蹴ッ飛ばし。そないして、あと見ずにツ、ツ−−と這入らんと弱い。そやないと若狭助にならへん……
 と、いつて聞かすのだつた。
 
 栄三さんは以前はよく床へ註文をつけた。弁天座で実盛を遣つた時など、例の「腕」のところで、和泉太夫の「九郎助とやら、よつくきけ」のキッカケを、五六回もやり直ほさした。振りに合はぬと誰彼なしにカスを飛ばした。「冥途の飛脚」の羽織落しのキッカケなど、殊にやかましかつた。それが、近年は殆んどなにもいはなくなつた。偶にいつても、穏やかに相談的にいつてゐた。
 
 栄三さんは、どんなにひどく汗が出てゐても、舞台では、けつして汗を拭かなかつた。弟子たちにもそれを堅く戒めた。それをすると人形の魂が抜ける、といふのだつた。
 
 義理堅い人で、たとえば栄三郎君の贔屓先から、ご一緒に、といつて招かれても、行つてもえゝのんか、と一応念を押して、アヽ行つとくれやす、と栄三郎君がいふのを聞くまでは腰をあげなかつた。了解なしには礼状一つ出さなかつた。弟子の贔屓先はどこまでも弟子の贔屓先と、ケジメを立てゝゐた。さうしたことには栄三さんは非常に潔癖であつた。
 
 固苦しいタチで、部屋でゞも、お客のない時にも膝を崩したりしない人だつたし、ふだんは口数が少なく、むッつりして見えたが、しんは情愛の深い人だつた。部屋の者は皆それと知つてゐた。
 或る時も栄三郎君が風邪を引いて、中途で芝居を休んでゐると、栄三さんは芝居の帰りを、栄三郎君の宅へ見舞に立寄つて、
 −−どうや、工合は……。熱あるか?
 と訊き、臥てゐる栄三郎君の額に、やさしく掌をあてるのだつた。日ごろはなにもいはない人だけに、さうした栄三さんの愛情に触れると、栄三郎君も親にでも甘えるやうに甘えたい気持が急にこみ上げてきて、ボロボロ涙がこぼれるのだつた。
 
 栄三郎君の咄になるが
 栄三郎君が二十一歳で、それまで世話になつてゐた門造さんのところから、栄三さんのところへ移つた時には、蒲団を一枚も持つてゐなかつた。栄三さんとこでは、さつそく彼のために、更紗の蒲団を一と流れ拵へた。栄三郎君は栄三さんの家にゐるあいだ中、それを着てゐた。二十八歳で西島家へ入婿した時にもその蒲団を持つて行つた。もちろん西島では、小さくもあつたし、それは使はなかつたが、師恩を忘れぬ気持から、毎年一月二日にはそれを出して、一晩だけ着て臥ることにしてゐた。二十九歳から三十六歳まで、それを慣例にしてゐた。罹災するまで続けてゐたのだつた。使つたあとはまた長持に入れて、次の年まで蔵つて置いた。−−西島の家は割に広かつたので、そのために別段窮屈な思ひはしなかつたが、栄三郎君はいつも東か北を枕に、師匠の家の方角へ足を向けないやうにして臥た。
 ある時も女中が、長持の更紗蒲団を見て、着さしてほしいといふので、栄三郎君は右の蒲団の来歴を咄して聞かした。
 −−そしたら、えらい感心してくれて……
 と、照れくささうに微苦笑を泛べながらの彼の咄。
 
 これも栄三郎君の咄だが−−
 栄三さんの臨終には、光造君も栄三郎君も、二人の弟子が二人ながら枕頭に居合はさなかつた。不孝な弟子−−さういつて、当時或る劇評家が二人を非難したが、栄三郎君はそれをひどく気に病んでゐた。この咄には、いくらかその弁解が含まれてゐると思はれるので、故人の真情を代弁する気持からも書いて置きたい。
 −−栄三さんの歿くなつたのは十二月の九日。栄三郎君はその前々日の七日から、三晩立てつゞけに栄三さんの夢を見た。
 はじめの夢は−−パッと明るい、弁天座の大部屋のやうな広い部屋なのだが、なんでもそれが「忠臣蔵」の七つ目の茶屋場で、めんない千鳥のあいだになつてゐるのだ。その広い部屋のまん中に、栄三さんが由良之助を遣ふ時の茶繻子の裃を着て、デンと坐はつてゐる。−−時間に遅れたのだ。
 −−勝手しまして……
 と、詫びると、栄三さんは不機嫌な怖い顔で、
 −−連絡のつかんのは仕方ない。
 ぶつん、と一と言、吐き出すやうにいふ。
 −−へい……
 どうにも顔があげられないで、手をついたまゝでゐる。と眼が覚めたが、スッカリ寝汗を掻いてゐた。
 その翌る晩は−−なんの役ともそれは判らない。栄三さんの左を遣つてゐるだけは慥かなのだが、遣ひながらひどく叱られてゐる。滅多に叱つたことのない人が、夢ではボロクソなのだ。
 −−つね、気イつけて見てへんさかい間違うんや。
 と、叱るのだけれど、それが間違つてゐるとは思へないのだ、ふと、師匠も耄碌しやはつたんかな、と生意気なことを考える−−途端に眼を覚まして、ゾッとするほど愧かしくなる。
 三晩目の夢では、栄三さんは黙つてニコニコ笑つてゐる。なんにもいはないが、莫迦に機嫌がいゝ。茶を淹れて出すと、やはりニコニコしながら、悦んで飲むのだつた。
 −−夢ばかり見るのが気になり、翌十日は、すでに前日栄三さんが歿くなつたも知らず、見舞に行くつもりで、朝早い目に家を出た。栄三郎君は罹災後は京都深草に住んでゐた。その夜は、新大阪ホテルの進駐軍慰問の催しの「三番叟」と「千本桜道行」とに出演することになつてゐたし、翌十一日には尾張一ノ宮の興行に発つことになつてゐた。
 旅へ連れて行く弟子の外食券のことで、布施の弟子の家に寄り、それから天王寺駅へ廻はると、前のが出たばかりで、次は十一時まで汽車がない。それで行くと、ホテルの午後四時開幕に間に合ひさうもないのだ。さうなると一層師匠のことが気になり出すのだが、といつて、ホテルの出演をスッポラカスというふんぎりもつかない。ものゝ三十分も、切符を買はうか買ふまいかと迷つた揚句、隅ッこへ行つて、十銭銀貨を出して、ときどきやる表裏の占をやつてみた。投げた銀貨は、ホテルへ行けと裏が出た。気がすまぬながら栄三郎君は小泉行きを断念した。
 その翌朝の新聞で、彼は初めて栄三さんの訃を知つた。が、躰を縛られる芸人の哀しさには、すぐ駈けつけることもならず、細君を代理に出し、どうせ死に目には遇へないのだから、と自ら慰めて、そのまゝ一ノ宮へ発つた。
 −−筆無精で、見舞もあまり出しまへなんだし、師匠は憤つてはつたやろ思ひま。
 彼のこの自責に偽りはなかつた。
 
 その師も、弟子も、今は世にない。
 私には栄三郎−−西島留三郎君の早世が、なんとしても惜しまれてならない。歿くなつた時の役が不満で、翌十一月興行の役が「連獅子」の子獅子、「炬燵」の小春、「釣女」の太郎冠者と決まつてゐたのを大変楽しみにしていたとも聞く。彼のことが念頭に泛ぶと、私は今も胸を圧さえられるのである。
 
 玉市さんに遇ひに、文楽座へ行く。
 玉市さんは栄三さんの人形の左手を、その晩年まで十年間遣つてきた人。そのあいだを身近く栄三さんの舞台の呼吸(いき)に触れてきた人なのである。
 三代目吉田玉造の門人で、十七歳で近松座に初舞台。近松座解散後入隊し、現役を終へて大正七年一月御霊文楽座に入座したが、一と興行だけ出て退座。京都竹豊座に三年、その後桐竹門造の巡業に加はりなどしてゐて、大正十一年に復座した。玉次郎の歿後、その跡を襲ふて人形の頭取となり今日に至つてゐる。
 恰度、頭巾を手に提げて、舞台を退つてきた黒衣の玉市さんに、舞台裏の廊下でパッタリ出遇ひ、そこを右へ往つて取ッつきの頭取部屋へ案内される。
 部屋は手狭ではあるが、窓の下に小振りな長火鉢を据えた奥が玉市さんの居場所。ぐるりの壁の上部に、玉一郎、和男、玉男、紋太郎と、相部屋の名札は元のままに貼つてあるが、今月(昭和二十四年三月)出勤してゐるのは、この中では玉男君と和男君だけで、他は文楽労組の巡業のはうへ往つてゐて欠勤してゐる。その二人も舞台で、部屋には玉市さん一人。−−隅のはうに人形が三つ立てゝ置いてある。
 頭取は、もとは人形の役割から、頭、衣裳の選定、皆やつたものだつた。人形、太夫、双方からの註文も、一切頭取を通す仕来りになつてゐた。それが役目だつた。が、今は衣裳は大体衣裳部が受持ち、役も表から直接本人に持つて行つて、事後に頭取に通すといふ風に、古来の仕来りが、かなり崩れてきてゐる。
 −−こんなものを持つてきてますねん。
 玉市さんは、謄写版でオモ遣ひの役割を刷つた、人形の役割表を出して見せる。それからまた、うしろの壁に吊り下げてある「小割帳」と誌した帳面を外づして、展げて見せてくれる。それにはオモ遣ひの肩に左遣ひ、しもに下へさげて足遣ひの名前が書き入れてある。
 −−誰を誰の左にする、足にするいふ振当ては、こつちでやつてます。これは技能だけできめるわけにいきまへん。気分が合はんと、うまいこといきまへん。
 表から役を持つて行くといふ咄から、玉市さんは、
 −−右ヘトントン、左ヘトントン、それが出来るだけで、いつかど遣へる気になつてるとこへ、表から役持つていきまつしやろ。そやよつて、のぼつてしもて、今の若いもんが理窟ばつかりいふやうになりまんねん。
 と、慨嘆する。
 −−わたしら職人や思ふてます。どないぞ一人前になりたい、それ一心で修業してきました。外交いふやうなことは、かいもくゼロな人間ですのんで、も、職人気質でとほしてます。
 玉市さんは掟どほりの昔風な修業の道程を踏んできた人だけに、齢はまだ五十六と聞いたが、気ッぷはスッカリ昔気質である。−−心意気も忍ばれるやうで、「職人」という言葉は私の耳に嬉しい。
 さて、栄三さんの咄−−
 −−大正十五年に玉造はんが死にやはつてからは、玉次郎はんと栄三はんに指導してもろてました。玉次郎はんと栄三はんの足を、両方でかれこれ三年ほど遣ひましたやろかな……それからズウと栄三はんの左を遣てました。……恰度私が、いよいよこれで喰はうと腹をきめた時分から、そばに附いてましたよつて、栄三はんに教えてもろたこと、勉強さしてもろたことが、一番身に附いてます。……玉次郎はんのゐやはる時分から、仕事はおほかた私がやつてたんだつけど、玉次郎はんが死にやはつてから私が頭取になつたんも、栄三はんが、お前やれ、いやはつたからだす。……栄三はんは、なんによらず舞台のことは、いちいちこつちへ通ほしやはりました。しまひまでそうだした。
 −−玉次郎はんだつか?このお人も、地味な芸いつぱうのお人だした。二代目玉助はんの弟子だしたが、頭の振り方やとか、手の出し方が、玉次郎はんはキッチリ昔の型どほりだした。横向くのんでも、こない(首をまつすぐ横にする)やつたら誰でもやつてます。このお人は、こない(やや顎を引き気味に首を横にして見せる)振りやはりました。これはちよつとやれまへん。……振りは誰にでもでけまつけど、恰好はすぐには絵になりまへん。……さうだすなア……その時分やつたら玉次郎はんのはうが、栄三はんより、やつぱり一枚うわ手だしたやろなア……
 −−栄三はんはだいたいが女形遣ひだしたんやが、立役へ廻はつて研究しやはりましてん。ここ(現在の文楽座)の初開場の翌月の、昭和五年の二月興行に「勧進帳」が出まして、初めて弁慶を勤めはつた時あたりから、栄三はんの立役の芸に脂が乗り出して、スキのないものになつた思ひます。
 つまり立役としての芸が完成したんだすな。……それに、研究心の深いお人で、あれだけの人であつて、毎日舞台がようなりました。毎日工夫を替えはりました。……刀ひとつ持つても、けふはただ持つてるのが、翌日には肘を張つて持つといふ工合に、ちよつとづゝ替えていきやはりました。……団七走りや韋駄天走りのやうな極りの振りでも、先月あないやつたよつて、今月はこれでいこ、いやはつて、おんなじ振りが二た月つゞかんやうに、狂言毎に工夫を替えてはりました。(団七走り−−光秀、佐々木、樋口などの物見の件りで、ツケに合はして、両手を交互に前後に伸し、大きく駈け出す振り。うしろへ伸さず、両手を前と横へ交互に伸す、といふ風にもやる。)(章駄天走り−−右肘を折つて前に横へ、握り拳で、曲げた左手を振り、テーン、テーン、テーン……の絃に乗つて駈け出す振り。権太の「跡を慕ふて」、団七の「八丁目へとぞ」などの引込みの振りがそれである。)
 なほ団七走りは、おやま人形にも、お舟、お七などにある。(この項つゞく)
 
栄三の憶ひ出 (その三) 幕間 4巻6号 (1949.6.5) pp30-32
 
 (玉市さんの咄のつゞき)
 −−栄三はんは人形を、役にする前に、ともかく人間にしやはりました。人形にいつも血が通ふてました。精神を打込んで遣やはりましたが、無理なこと、不自然なことはしやはりまへなんだ。それに役の性格、これをいつも研究してはりました。……「堀川」(近頃河原達引)の与次郎なんぞも、ご存じのやうに、山城はんとおんなじに、莫迦でない、正直一途の人間いふ解釈で、チャリでなしに真面目に遣やはりましたが、チャリでフラフラ遣ふと下品になつていかん、いやはりました。飯を食ふとこでも、あんまり下品な、見ツともない食べ方すると、自分がいつでもそないしてる思はれるやないか、いやはりました。そうたい下品なことが嫌いで、それで、役によると上品過ぎて、すこし役柄に合はんもんも、中にはおましたな。
 −−良弁上人(良弁杉由来)は定評がおましたが、二枚目では忠兵衛(冥途の飛脚)がよろしよましたな。近年はあんまり遣やはりまへなんだが、女形は尾上(加賀見山旧錦絵)とか、政岡(伽羅先代萩)とか、重の井(恋女房染分手綱)とか、肩はづしものがよろしよました。だいいち品がおましたな。しつとりとしてゝ……。
 二月堂の良弁上人は品格で持たす、動きの少い、むつかしい役だすが、互に母子やいふことを覚る守り袋のとこで、渚の方が「そんなら、そなたが……」と両手を膝に突いて、まじまじと上人を見上げる。上人は「そもじが……」と、渚の方を見つめながら、腰を据えるやうな形で、にじり足で、ジリ、ジリ、近づいて、膝をついて抱きつきまんねやが、こゝは、左を遣ふとりましても、真に迫る気持がいたしました。栄三はんの打込んだ気持が、こつちへ、うつッてくるんだす。……あれだけの良弁さんは、もうこれからおまへんやろな。前には三代目玉造はんも遣やはりましたけど……。
 尾上は、わたしが初めて女形の左を遣ふた役だした。栄三はんから咄がおました時、
 −−女形は遣ふたことおまえんさかい……いふて辞退しましたら、
 −−なんにもお前が遣ふのやあらへんぜ。わしが遣ふんやぜ。
 いやはりました。それはほんまで、左がある程度修業さいしてたら、オモ遣ひの頭(かしら)の振り方、躰の動かし方で、左のせんなんことは自然と判るもんで、左はオモ遣ひが遣はしてくれるもんだんね。他人(ひと)に左を遣はすやうになつたら、それが判るて、その時もいふてはりましたが、そのとほりだした。
 尾上は小道具の多い、左のいそがしい役で、わたしが左を遣ふたんは「草履打」だしたが、「長局」の部屋の場やなんぞ、褥、掻巻、女枕、脇息、見台、本、硯、筆、巻紙、文庫、莨盆、煙管、袱紗包みの草履、懐剣……憶ひ出しただけで、ザッとこれくらゐおます。それから栄三はんにかぎつて、このほかに書置を認めるとこで机を使やはりました。−−小道具が多いので左が悩まされるのんは、「沼津」の十兵衛と、これだつしやろな。しかし、栄三はんはなんによらず、左が小道具を扱ふだけの間を待つてくりやはりました。この場の尾上の左で辛らいのんは、「塀そと」へ替る前の、三宝を目八分に持つて仏間へ這入る引込みだす。それまでにせんど疲れてるとこへ、栄三はんのはたゞ持つてはるのやおまへん。指を反らして、ピタッと横から押しやはりまんねん。左がそれを受止めてんなりまへん。高さが極まらんと、前へ出やはりまへなんだ。この左では栄三郎、足では玉男が苦労してました。栄三郎は、三宝が重たうて肚に応えるいふとりました。(栄三の−−「加賀見山、長局」部屋の場、尾上の引込み。
 −−「アヽ我ながら未練なり」と気をとり直して涙をふき「女ながらも武家奉公」と以前の母の手紙を拾つて巻きおさめて文庫にしまひ「草履を以て面を打たれ」と右手で額を指差し「なに面目に存命へて」面を伏せ「人に顔が合されう」と両袖で顔をかくす「とは思へども大切な御前様への忠義を思ひ」上手へ向つて辞儀をして「この書置に委細の事情」と右手に予て用意の書置をとりあげ「伯父弾正の悪事の密書」左手に密書をとりあげ「命を捨てゝ上への忠節」と、二つを右手に持つて目の高さにかゝげて辞儀をしてから、それを三宝に載せ「最後の晴の支度して、一遍の経陀羅尼唱へんものと」左から懐剣をとりあげて、両手で頂いてこれも三宝に載せ「仏間へ……」で、両手で三宝をさゝげて立上り、静かに上手へしづしづと入るのが「日も西へ……」一杯である。
 
「冥途の飛脚」羽織落しの忠兵衛。
 −−「西横堀をうか/\と」で忠兵衛、懐手をして軽く足拍子を入れて上手から出る。「気にしみつきし米がこと、米屋町まで……」と床が進むうちに正面、横堀の書割が上手へ引かれる。「ヤァこれはしたり」と立ち止まりあたりを見廻はして「堂島のお屋敷へ行く筈、狐が化かすか南無三宝」と引返すが「梅川が用あつて氏神のお誘ひ」と蹲つて合掌「ちよつと寄つて顔見てから……」と下手へ行きかけて「イや大事。この金持てば遣ひたからふ」と懐に握りしめた預りの金子を胸元から出して、直ぐ引込め「ア、イヤ/\おいてくれふ、/\/\/\」と怖ろしい誘惑をふり切るやうに上手へ戻るが「おいてくれふ……か」と怖々ながら立止まり、今度は「往てのけふ、/\/\/\」と下手へ駈け出す。が「往てのけふ……か」と心惹かれ乍らなほためらひ、行きつ戻りつ同じ動作を繰返して行くうちに次第に焦立たしくなつてくる気持ちを見せ、とゞ「ヱヽ行きもせい」と右膝を打つて意を決し「一度は思案、二度は不思案」で心そゞろに懐手となリ「三度びきや、くウヽ、ウヽヽ、ウヽヽ……」で早間に足拍子を踏んで下手へ進むうちに羽織が肩からズリ落ちる仕掛。「チン/\ツン/\、チン/\ツン/\、チヽツヽ/\、チヽヽヽ……」心は向ふへ惹かれつゝも足はあとへ戻つて来て「戻れば合せて六道の−−」元の位置に戻つて来ると「冥途の」の次の間を拾つてトトン、トンと大きく踏んだ足拍子に最後の決意を見せ「チーン、チーン、チン、チン/\/\……ひきやア……くウ……」とウレイ三重となり下手へ真直ぐに進む。その行手に現はれた犬に蹴躓き、その啼声に驚いて石を拾つて投げつけるのをキッカケに道具替りの析頭。「とオヽオヽヽ、オヽヽ……」で跡をも見ずにトーン、トーン、トン、トン……と足早やに新町へ−−。−−大西重孝氏のノートより−−)
 −−羽織の脱げるとこだつか?「行きもせい」で、右の膝を叩いて、また懐手して、チン、チン、チン……で肩をゆすりながら一と廻りするあいだに、羽織の上から持つてる左のサシガネを、羽織の下へかわしまんねやが、目立たんやうに手際ようにやらんなりまへん。やかましおましたんで、それが一と苦労だした。そのあいだに羽織の紐もほどいときます。それから羽織をすこしづゝ引ッ張つてズリ落ちるやうにいたします。−−この役は左もむつかしおますが、あつちいつたり、こつちいつたりしまんので、足もなかなか苦労だす。近年は玉男が足を遣ふとりました。
 −−こつちから聞きに行くまで、向ふからはなんにもいはんお人だした。−−「忠臣蔵」の茶屋場の由良之助の左を遣ふてた時だした。例の由良之助が「所でやめた。ナ聞えたか。とかく浮世は」と、三味線のこゝろで刀を逆に膝に構えて、扇を撥にして「かうしたものじや。ツヽテン、ツヽテン、ツヽテン」と口三味線で弾く真似する、あすこの、しまひのツヽテンで、毎日、鞘を持つてる左の、わたしの手のとこへ頭を持つてきて、グッと前へ押しやはりまんねん。はじめは酔ふた恰好に、わざとそないする振りやばつかり思てましたけど、毎日そないしやはるのが、なんやおかしい気持もしましたんで、四日目に部屋へ訊きに行くと、栄三はんは、
 −−前ヘガックリ俯いた時は、刀も一緒に前へ下げてくれな、あけへんねやが……。お前がジッとしてるさかい、あないせなしようがなかつてん。
 いやはりました。
 −−こまかいとこまで写実いふことを考えてはりまして、手紙を書く時は、左が巻紙なり懐紙なりをまん中へ持つて行くのんが普通だすが、栄三はんはそないすると、いつでも右手をまつすぐのとこまで、手で引ッ張つて持つていきやはりまんので、これも訊きに行くと、
 −−お前一ぺん、紙まん中に持つて書いてみ。腕うごかしたらあかんぜ……
 いやはります。やつてみると、なるほど右のはうへ片寄せな書けまへん。
 −−そうれ、みいな。
 いふて笑ふてはりましたが、そないいはれて、誰でももの書く時そないしてるのんに、始めて気がつきました。
 向から訊いてくれるのやないと、こつちからいふのんでは憶えてくれへん。それを、よういやはりました。間違ふてることは間違ふてると、それはヂカにいやはりましたが、恥掻かさんやうに、はたに他人(ひと)のゐえへん時に、ボイヤリいやはりました。
 慥か、わたしの役が俊徳丸で、栄三はんが合邦やつた時やつた思ひま。わたしが上手にゐてゝ、左にマネキを遣はしたのを見やはつて、
 −−さういういことすると、子供が真似するぜ。
 いやはりまんねん。−−マネキは上手にゐる時は右で、下手やつたら左で遣ふのがほんまで、つまり見物と反対のはうで遣はんと、その恰好に見えまへん。それで注意しやはつたんだすが、それも、はたへ聞えんやうに、そんないひ方をしやはるもんだつさかい、こつちが赤面してしもて、あたまを下げたことがおました。−−昔はさうばつかりやおまへなんだ。足遣ふてた時分だしたが、叱られりや叱られるほど、どないしてえゝか判らんやうになつてウロウロしたこともおました……
 −−無口で、もの数はいやはりまへなんだが、察しのあるお人だした。わたしの若い時分には、芝居が休みになると、玉次郎はんなども一緒に、日傭ひで、あつちこつちへ一日、二日、いふ工合に傭はれて行つたもんだしたが、そんな時でも栄三はんは親切にしてくりやはりました。
 慎重に、じつくりものを考えはるタチで、なんぞごとの相談に行くと、きまつて、
 −−考えとくわ。
 いやはつて、二、三日も経つてから返事がおました。こゝで、「葛の葉子別れ」が出ました時に、恰度病気してはりまして、初日まへだしたが、きてくれいふことだしたんで、お宅へ伺ふと、
 −−初日までに起きられるやどや判らんさかい、替り拵へといてや。
 いやはりまつさかい、
 −−よそ頼まんかてお師匠はん、内に二人も弟子がゐまつしやおまへんか……光造と栄三郎と、どつち控えにしまよ?
 いふと、例によつて、
 −−そやな……考えとくわ。
 といふことで、別にそない考えんなんことでもない思ひまんのに、これで四日考えはりました。その時は、けつきよく葛の葉の代役は光造にきめはりましたけど……。
 酒をあがるとご機嫌で、古い咄がよう出ました。あいさに面白いこともいやはりました。量は銚子に二、三本いふとこだした。
 −−よう笑い咄に、昔鹿造はんいふお年寄りがゐやはつて、義経を遣てはつたん憶えてるが、もうヨボヨボしてはつて、躰のはうが人形より前へ出てた、いふてはりましたが、さいごの朝日会館の孫右衛門の時には、ご自身そないなつてはつたんで、こらいかんな思てましてん……。もうちよつとのことで、天皇陛下の文楽座行幸までゐてはつたら、悦びやはつたやろに思ひまんねん。−−あの時献上した静御前の人形は、わたしが持つてまゐりました。宮内省へ出まして、向ふで組んできましてん。
 −−それから、これだんねやが……
 さういつて、玉市さんは塚本虚明さんの遺句集「玉虫」を取出し、栄三さんに関した句の載つてゐる箇所を披いて私に渡す。−−玉市さんとは、この日約束で遇つたので、句集は私に見せるつもりで用意してあつたらしい。
 虚明さんは、もとの三十四銀行の東京支店長をしてゐたこともあるが、「俳家」で、「倦鳥」の同人だつた。栄三さんとは、贔屓といふ間柄をとほり越した、昵懇な附合ひをしてゐた。昭和十四年十月、病気で入院してゐた阪大病院で虚明さんは歿くなつたが、その入院中、律気な栄三さんは、暇があれば虚明さんの病牀を見舞ふことを忘れなかつた。一日、栄三さんは、枕頭でレコードで「酒屋」のお園の人形を遣つて虚明さんを慰めたと聞く。左は栄三郎君が遣つた由である。−−句集に見える栄三さんに関する句は、すべて病中吟であるが、
  栄三師三度見舞はる
 人形の工夫きゝつゝ秋の昼旅興行に明日から出ると秋の風
  栄三師に謝す
 出雲路や我も祈りし神の秋
 秋晴や神をいさめの一と神楽
 旅すがらも思ひつゞけて秋風に
 (以上は、栄三さんが山陰巡業のみやげに、出雲大社のお札を贈つたをいたく悦んで、ものしたもの。)
  南葉、栄三続いて来訪
 逢ふやたゞ涙の出づる秋風に
 と、ある。二人の交情の懇さが、この一聯の句にも偲ばれる。
 若い人形遣ひの吉田和男君は虚明さんの息である。−−父に連れられて文楽を観た少年の魂を、人形芝居の舞台は完全に虜にした。舞台に馴染むにつれて、子供ごゝろにも彼は栄三さんの芸風に傾倒するやうになり、栄三さんの舞台を見外づすまいために、しばしば学校をサボるまでに、それが嵩じてきた。中学を中退して、終戦後に文楽座へ入座したが、栄三さんはその時すでに病蓐にあつた。爾来三年、彼は師匠を持たずに、玉市さんの部屋にゐて修業をつゞけてゐる。ことし二十四歳になる−−玉市さんは和男君のこの三年の進歩を語つて、
 −−もうぢき戻つてきまつしやろ……
 と、いふ。
 間なしに、黒衣の玉男君。裃を着けた和男君が前後して舞台から戻つてくる。玉市さんの紹介で、二人と軽く頭を下げ合ふ。
 和男君は髭の剃りあとの青い、がッちりした躰つきの若者だが、物腰の端に、どこかまだ稚なさも感じさせる。玉男君と談笑しながら裃を黒衣に着替へると、和男君はまた部屋を出て行く。−−三十五、六人ゐる人形遣ひの約半数が労組に所属してゐて欠勤。残りの人員で、手の空いた者が、顔の上も下もいはずに左へ廻はつたり、足を遣つたりして舞台を賄つてゐるので、人形部屋は今月は眼の廻はる忙しさなのである。
 玉男君を交へ、三人で暫く咄す。
 玉男君は、戦時中は徴用につゞいて召集され、出征していたので暫く舞台を離れてゐたが、入座して十六年、ことし三十一歳の人形陣の中堅である。徴用に行く前、栄三さんの足を遣つてゐた頃、早くにその芸質を幕内で認められてゐた。
 −−失礼します。
 頭巾を取上げて、玉市さんが坐を立つたので、玉男君を残して、私も玉市さんのあとに蹤いて部屋を出る。−−開演中の舞台裏は鳴りをひそめた中で、ゴトゴト忙がしさうな物音がしてゐる。
 
続 栄三の憶ひ出 (その一) −− 光造に訊く−− 幕間 4巻10号 (1949.10.5) pp39-41
 
 −−いつまで経つても師匠といふと怖いもんだした。近年はあのとほり穏やかになりやはつて、間違ひをやつても、いふて聞かしやはるだけで、前みたいに手きびしい叱り方はしやはりまへなんだが、それでも、歿くなるまで、やつぱり栄三(ししよう)は怖(こを)おましたな……
 さういつて眼を細める光造君は、今では残つてゐる只一人の栄三さんの弟子なのである。日頃は、どちらかいへば澄し屋の彼も、栄三さんの咄になると、師匠として親炙してきた長いあいだの気持が呼起されるか、ふしぎにあどけない表情をする。−−光造君は十八才で栄三さんに弟子入りして、はじめ栄太郎を名乗つたが、小兵吉さんの弟子にも同名があつたので、その前、二年ほど京都の竹豊座にゐた時の前名光之助にかへり、昭和十八年三月、実父の名跡を継いで三代目光造になつた。ことし(昭和二十四年)四十七才になる。−−この春、長男光夫君を喪つた衝撃が、よほど応へたかして、まだいくらか面窶れが見える。
 五月の或る日。
 文楽座非組合側の東上興行の有楽座の楽屋。板仕切りで二つに仕切つた細長い手狭な部屋は、窓際の鏡台前だけを残して、両方の壁際を入口まで、人形や衣裳の葛籠がゴタゴタと場所を占めてゐる。竝んでゐるおやま人形の衣裳の色が、部屋の空気を艶めかしいものにしてゐる。
 −−穏やかになりやはつたいふても、それもごく近年のことで、それまではずいぶん矢釜しおました。……おますとも。叱られたことやつたら、なんぼでもおます。……一ぺん、東京の歌舞伎座へ出た時だしたが、「陣屋」の熊谷の左で、えげつない目に叱られたことがおました。−−「うしろに聞きゐる御台所。我が子の敵と在りあふ刀。詞 熊谷やらぬ。と抜く所鐺掴んで。ヤア敵呼ばはり何やつと。引寄するを女房取付き」で藤の方が、熊谷の左に置いてゐる刀を取上げて抜きかけるのを、熊谷は左手で鐺を掴んで、柄を下に逆さまに突ッ立てゝ抑へ、掴んだ掌を鍔元まで辷らして刀を横にして、藤の方の左の肩先を抑へて手前へ引寄せます。「アヽこれ/\聊爾なされな。あなたは藤の御局様」と相模にいはれて「聞いて直実恟りし」の「聞い−−てヱ」一杯にジーと藤の方の顔を見下ろし、ギクリとなつて「ハア、思ひがけなき御対面」で刀を引きます。起きあがつた局が、こんどは懐剣で斬つてかゝるのを、刀をシッカリ横たへて止める形に一旦極まつて、それから「ハッ、ハッ、ハッ……」と頭(かしら)だけで懐剣をはわしながらあとへ敬ひ退きます。こゝの熊谷の刀の扱ひは、もちろん左遣ひの仕事だんが、この場合さいしよ鐺を掴む時に、ちよつと掴み憎おますが親指を下にして掴まんと、刀を横にした時に肘が下へ曲らん手勝手になりまんので、刀を藤の方のうしろへ廻す時や、刀で止める時の形がでけんことになります。それを私が、なんの気なしに親指を上にして鐺を握つたもんだつさかい、今申したとほりそこの振りが、うまいこといきまへなんでん。その場はこつちに蹤いてきてくれてはりましたが、這入つてからが大変で、えらい剣幕で、みんなゐる前で、「なんさらしてんね阿呆。つね見てへんさかいやないか。そんな心がけでは見込みあれへん。あしたからやめてしまいッ」
 と、ボロクソだんね。わたしも若(わこ)おましたので栄三(ししよう)の言ひぐさがえげつないのにムカついて、その時はよつぽど廃めたろか思(おも)たくらいだしたが……しかし、えらいもんで、そこまでいはれたことゝいふもんは忘れんもんだんな。頭に沁みこんでまんな。……それからこの「陣屋」の、軍物語のあいだの「心にかゝるは母人の御事」で、普通は熊谷は藤の方のはうへ引目しまんねやが、栄三(ししよう)は相模のはうへ引目しやはりました。石割先生も、熊谷の性根を掴んでるいふて、それを褒めてはりまんが、山城はんが、軍物語は初めからしまひまで女房の相模に聞かしてるこゝろで語つてるいやはるのと、おんなじ解釈だしてんな……。
 −−舞台もキッチリしてはつて、初日から人形の極まる位置をきめて、手スリに釘で目印をつけてはりました。相手役に出てると、小声で「もつと、あとへ寄り」いやはることが、ようおましたが、それが時によると「二寸ほどあとへ寄り」いやはることがおまんねさかいな……。それくらいだつさかい、道具方との打合はせでも、そらキッチリしたもんだした。……ものに誤魔化しいふもんが、ちよつともおまへなんだので、栄三(ししよう)の左や足は、遣(つこ)てゝ苦しおました。そやよつて栄三(ししよう)の左や足やいふと、皆厭がつて敬遠したもんだした。門造さんでさへ栄三(ししよう)の左は厭がつてはりました。廻り合はせいひまつか、栄三(ししよう)の左や足を遣(つこ)てたもんは、はじめからやと玉八、玉幸、市松、門次、栄之助、扇太郎、それから近頃では栄三郎……と、せんぐりみな死んでしもて、今残つてるのは玉市さんと私と、暫く足を遣(つこ)てたんでは玉男。それだけだす。……足もえろました。軽う踏み、軽う踏み、いやはつて、足踏み一つがなかなかヤカマシおましたさかいな。……今になると栄三(ししよう)がいろいろいやはつたことが道理に叶てることがよう判りまんねやが、その時分は、なんで内の師匠はあないハコでさしたやうな堅いことばつかりいやはるねやろ。ちつと文五郎はんみたいに砕けてくりやはつたらえゝのんに思(おも)たもんだした。……じつさい栄三(ししよう)の舞台は怖(こを)おました。栄三(ししよう)が出やはると舞台が引締りました。出てるもんがみな緊張したもんだした。文五郎はんは別格にして、今はそんな人、もうゐまへんな。……ヤカマシいわれたお蔭には、そのとほりにはなかなかやれまへんが、栄三(ししよう)のしやはつたことはたいがい記憶してます。今で栄三(ししよう)の型を一番よう憶えてるのは、玉市さんとわたしぐらいだつしやろ。玉市さんは長いこと栄三(ししよう)の左を遣てはりましたよつてな。
 −−文五郎はんと内の師匠は、なんによらず、ちよつとづゝ遣り方が違てました。「廿四孝」の「十種香」で、八重垣姫が「勤めする身はいさ知らず、姫御前のあられもない。殿御に惚れたといふ事が、嘘偽りにいはれうか」いふとこおまつしやろ。あすこの「嘘偽りに」で、文五郎はんは「うーそ……」と扇を前に倒して勝頼のはうを見て、「いつはりに」で顔を隠す、いふやうに扇を使やはりまんが、栄三(ししよう)は、扇を使ふと蓮ッ葉になるいやはつて、おんなじ仕科を左の袂でしやはりました。姫御前らしい、おぼこいとこを見せはつたんだんな、いつたい、なんの役でも派手なやり方は避けはりました。「酒屋」のお園でも、文五郎はんは「今頃は半七さん」で屋体を降りて木戸口まで出やはりまんが、栄三(ししよう)は「なほいやまさる憂き思ひ」まで降りたらいかん、いやはりました。こんどは、わたしもこゝ(有楽座二の替りで)でお園を遣ふてまんが、わたしは「今頃は半七さん」は栄三(ししよう)の型どほり行燈でやつてまんが、「今の思ひに」で一ぺん屋体を降りることにしてます。「死ぬるこゝろがつかなんだ」のあとで上へあがります。こゝだけ文五郎はんの型でやらしてもろてまんねん。(栄三のお園
 −−「しを/\奥へ泣きに行く」で半兵衛をさぎに宗岸、女房三人が上手の筋交い屋体へ連れ立つて這入るのを、お園が見送つて、袖で涙を押へると「跡には……」となり、上手に向つて手を合はす。「かゝれとてしも」起つて納戸から行燈を持つて出て上手寄りに据へ、その上手へ坐つて簪で火皿を掻き立て、懐紙で簪の足を拭いて起ち上り、行燈の縁を拭いてゐて「チチチチチーン、チチチーン……」と、しんみりした絃を聞かせる。フト顔を上げて、行燈に手を重ねて「今ごろは……半七さん」といひながら、帰らぬ夫の上に思ひを馳せ「どこにどうして……」の節で左から繰頭(クリズ)となる。
 
「お身の仇」の後振りから上手向きに坐つて「今の思ひに」左手を顔の上にかざして「くウヽらーアぶウれ」左から廻つて下手向きとなると「ポトテン」でトトンとよろめき、左膝を立てかけて堪へ、これに両手を重ねて「ヱヽヽヽヽ……」と絃に乗つて頭をふる。「一年前にこの園が」で起ち上り「死ぬる心がヱゝつかなんだ」と下手の後振りとなり「アヽアヽア−−」と泣きあげる。「堪へてたべ半七さん」正面に坐つて向ふを見「わしやこのやうに思ふてゐると」起ち上り前へ出るはずみに、思はず土間に足を落し、框に腰をおろして「恨みつらみは露ほども」左手を框につき、右手を襟先に入れてウレイに沈み「なほいやまさる憂き思ひ」で、もう一度向ふを見る。「あすはとうから父様に」の詞があつて「この家で死ねば後の世の」で座敷へ戻り「よその見る目もいぢらしゝ」で慎ましく左膝に手を置いて繰頭(クリズ)をする。−−大西重孝氏ノートより−−)
 −−舞台の工夫いふことにも熱心だした。「廿四孝」の「狐火」の狐の出なんぞも、もとは下手から走つて出たもんだしたが、今ではそれが定石になつてるやうに、さきに燈籠から首を覗かして、それを割つて出るのんも、さいごの、「狂ひ」になる時の八重垣姫の早替りの−−まん中の舞台に穴をあけて、そこから着附と袴の上から黒衣を着た左遣ひが、白地に火焔模様の衣裳の別の人形を持つてあがつて待つてゐて、「八百八狐付添ひて、守護する奇瑞に疑ひなし」の「疑ひなし」で、人形をスリ替へ、左は黒衣を穴へ落して、糸を抜いて早替りしたオモ遣ひと一緒に出るいふ仕掛けも、栄三(ししよう)の工夫だす。この場の手摺を、下を透かした青竹にいたしますのも、栄三(ししよう)が始めはつたんだす。
 (−−今度は早替りのアラを出来る限りお客に見せまいといふ事を立前にして、工夫を凝らしました。で、この時、私がやりました事を詳しく申しますと、先づ、舞台の前を池から下手にずつと青竹の勾欄を造り、その下に、その高さの半分位の小菊をずつと植え、足遣ひも見えるやうにして、最初の出は、舞台本手(中央勾欄)のまん中少し下手寄りに巖附燈籠を拵へ、そのうしろの地舞台に穴を明け、そこからセリ上るやうにしましたが、それも、大道具が燈籠をその位置へ持つてくる処を見せ、それ迄は穴を蓋して置き、琴唄の間に燈籠の障子を焼き、そろ/\穴から這ひ上つて狐の首を覗かせ、燈籠が巖と共に割れて遣つて出るといふ段取でした。それから、舞台の中央勾欄の際(きわ)に、また巖を拵へ、それを少し大きい目の、丸味のある巖にして、その内側の地舞台に又穴を明け、私が、巖の上で狐を遣つて居る間に、穴から介錯人を出して、巖の蔭で私の衣裳の糸を抜かせ、巖の正面に観音開きのぬけ道を造つて置いて、私が、穴を跨いで巖をぬけ出ると同時に、上の衣裳を穴に落す様にして、これが最初の早替り。それから狐の隠れるのは、上手の祭壇の上に祀つてある諏訪法性の兜の毛を上へ揚げると、その中の穴へ入つて、毛は元々通りに下げ、裏で衣裳を変へ、下手枝折戸から(八重垣姫を遣つて)出ます。次に橋の上で兜を映して居る間に、後の介錯人に衣裳の糸を抜かせ、最後の一本は残して、介錯人をその儘足遣ひにして、足遣ひは這入らせ、まん中の巌の上へ来ます。足遣ひを帰らせたのは、足遣ひよりも、早替りの介錯をする方が修練を要する仕事であり、もう一回後に介錯する用事もあり、一つには、介錯人を後へ附けた儘舞台を歩くと、お客様に、一つ早替りの仕掛けをまざ/\と御覧に入れる事となるので、それを避ける為でした。三回目の早替りは、まん中の巌の後で、「疑ひなし」で、人形と、私と左遣ひと足遣ひと四つ同時に早替りをせねばならず、そこで足遣ひは、その瞬間、片手を足から放して、残して置いた最後の糸を抜き、私の衣裳を脱がせる。左遣ひは、私が体を交す時に、人形を取ると同時に、巌の内側の穴から出て居た新しい出遣ひの左遣いと足遣ひが出て、持つて出た白衣裳の人形を私が受取つて、すぐ「狂ひ」になるといふ段取でした。この時、二階の両側のお客様に巖の内側の仕掛けが見えないかと心配して、稽古の時、人をやつたりして試験させました。−−「栄三自伝」大正八年五月の項−−)
 筆者(わたくし)には妙に栄三さんの人形の、動かずに静止してゐる時のポーズが印象に刻まれてゐる。たとへば「沼津」の千本松の十兵衛の、落入つて行く平作に笠差掛け、正面切つて瞑目して立ちつくす形。「堀川」の与次郎が猿廻はしのあいだの「アーアヽ、よい女房ぢやアに……」で、暫くは猿を廻はす手も止めて、行燈越しに、いとほし気に妹のはうを見返る、放心的な立ち身のポーズ−−それはまた、見てゐて切ないまでに、与次郎の愚直な性根をむき出しにするものだつたが−−など、など。そして、いつも憶ひ出すと、それらの人形のそのポーズが、血の通つた人間の印象で、鮮明に網膜に泛ぶのに反して、ふしぎに遣つてゐる栄三さんの姿が、どうしても見えてこない。−−筆者(わたくし)がそれをいふと、
 −−そら、栄三(ししよう)がいつでもこないして(その恰好をして見せながら)うしろヘグッと反ッてはつたさかいだす。それをやかましいやはりました。わたしが初役で「神崎揚屋」の梅ケ枝を勤めた時には、なんせ栄三(ししよう)のとくべつ好きな役だしただけに、稽古の時は附ききりで直してくりやはりましたが、あの時でも「もつと反れ」「もつと反れ」いやはりまんので、うしろへ転けさうになつたくらいだした。(昭和十八年の十一月興行に、光造君が、亀松と一日交替で始めて梅ケ枝を勤めることになつた、その総稽古の日だった。その日は栄三さんは自分も舟底に立つて、まるで自分が遣つてゞもゐるやうな打込んだ容子で、右へ廻つたり、左へ廻つたりして光造君の稽古を見てゐたのを筆者(わたくし)は憶えてゐる。奥で手の鳴るのに驚いて源太が梅ケ枝の打掛けの裾に隠れるところでは、栄三さんが自分で手を叩いてゐた。−−やや茶がゝつた、手堅い結城かなにかの着物に角帯の着流しで、例の太い黒縁の眼鏡を掛けた、その時の栄三さんのキリッとした姿が思ひ出される。大道具の親方が出てきて、栄三さんの註文に嵌つた、あとの奥庭の場で使ふ風鈴が見つかつたことを報告するのを聴いて、満足気に綻ばせた顔も眼に泛んでくる。)
 ……しかし、えゝ十兵衛だしたな……あれだけの十兵衛はちよつとおまへんな……。さうだす。小道具の多いんでは尾上とこの役が両大関だんが、十兵衛のはうが多まつしやろ。それを出したり入れたり、とても左の忙がしい役だす。なんせ片手の仕事だつさかい、紙を襟に挟む。矢立を黒衣(くろご)の紐のとこへ下げる。手紙はポケットへ入れる−−そないして出まんね。そやよつて加減して歩いてんなりまへん。それに栄三(ししよう)は、いつも文句キッチリに遣(つか)やはりましたさかい、左が気を抜いてると遅れまんので、ちよつともウッカリでけまへなんだ。小アゲのあいだに一服と、内で二服、十兵衛は莨を吸ひまんが、この、間(ま)を縫ふて莨を吸ふのんが、また一と仕事だんね。−−莨の火は、ほくちに下から線香でつけます。……なんでも几帳面にやらんと気のすまん性分で、「わけて血の緒の三界に。踏み迷ふこそ道理なれ」の節尻で、十兵衛は頬冠りの手拭ひを取つて泣きまんが、あの手拭ひを扱ふのんに、一旦手拭ひの両端を右と左とで握つて拳を竪にしてピンと張つて、手拭ひに指をかけて、キッチリ四つ折になるやうに真中で合はして右手へ渡します。それを掴んで眼頭へ持つて行くいふ段取だした。手拭ひをピンと張つてんとこれがでけまへん。左から仕かけて行つて、手ッ取早ようやらんなりまへんのでムツカシおました。慣れるまではカスを喰ひどほしだした。そら手拭ひや、思ふと苦(く)だした。……それから千本松の十兵衛の出で、栄三(ししよう)は片手でまつすぐにさし上げて、笠をさして出やはりました。夜露をよけてる気持やいふてはりました。……段切の「跡を見捨てゝ」で松の木に靠れて笠で顔を隠して極まるのをキッカケに析が這入りまんねやが、いつもキチッと寸法がきまつてましたんで、この、析を入れる間をヤカマシいやはりました。また、栄三(ししよう)のあすこの呼吸(いき)はほかにおまへなんだな……。
 
続 栄三の憶ひ出 (その二)−− 光造に訊く−− 幕間 4巻11号 (1949.11.5) pp43-45
 
 −−しかし、あない見えてましたけど、栄三(ししよう)はあれでシンは気の弱いお人だしてん。黙つてはつても、わたしらのことはなんでも、よう気がつきやはつて、それをまた知らん顔して見過ごしのでけんタチだした。……あいつ、小遣ひないねな、と悟りやはると、それといはずに、恰度栄三(ししよう)のとこへご祝儀でも這入ると、これお前貰(もろ)とき、いやはる時もおましたし、なんなと名目つけて懐から出してくりやはつたりして、若い時分、小遣ひに詰つてると、チョイチョイそないして金をくりやはりました。……ちよつと待ちや、いふて、こないして(横を向いて背をかがめ、膝の向ふがわで、手でそのかたちをして見せ)コテコテと財布から金を出しやはる恰好が眼に残つてま。……他人(ひと)に金借りなや、他人に難儀かけなや、て始終いやはりました。……前からさうだしたが、戦争でだんだん酒が不自由になつてからはなほさら、旅へ出てゝ、宿へ栄三(ししよう)にご贔屓から酒が届くやうな時にはわたしも栄三郎も飲むのん知つてはりまつさかい、たとえ五ン合の酒の中からでも、かならずわたしらに取分けて呉りやはりました。自分だけで飲みやはるやうなことは、ぜつたいあれしまへなんだ。酒にかぎりまへん。饅頭一つでもさうだした。……子供さんもあれしまへなんだし、家庭も寂しおましたので、よう叱られてましたけど、栄三(ししよう)にしたら、弟子のわたしらを子供みたいに思てくれてはつたんや思ひま。……わたしが志那事変の始めに二年半出征してたあいだは、さいしよ家内に、お前とこ、月に米なんぼ要る? いふて訊きやはつて、留守中ずウッと、毎月十五円づつ米代を届けてくりやはりました。家内の咄には、毎月キッチリ、きまつた日に持たしてよこしやはつたさうだす。ご自分は倹約(しまつ)に暮してはつて、死金は遣はんお人だしただけに、わたしらにしてくりやはつたことをいろいろ憶ひ出すと、有難い気持がいたします。世間には疎(うと)おましたが、思ひ遣りの深いお人だした。……妹はんがおましたが、このお人に栄三(ししよう)の家から一丁半南の辻の清水町の角で紙店を出さしてはりました。妹はんに娘はんがおまして、養子さんを貰(もろ)とましたが、この妹はんの世帯も栄三(ししよう)が見てはりました。……こないしてゝも、ちよつとも金は残れへんぜ、いふてはりましたが、それはほんまだした。……あいだの栄三(ししよう)の娯しみいふたら、少しづゝお酒あがるのと、あいさに碁打ちやはるぐらいだしたやろな。……栄三(ししよう)の碁だつか? 娯しみ半分の碁で、えらう強いこともなかつたやうだした。
 −−それから栄三(ししよう)が懇々いやはつたんは、給銀と役附の不足はいふな、いふことだした。腕さえあがれば、しぜんに両方ともようなるねさかい、わしの眼の黒いうちは、それをいはんといてくれ、いふお達しだした。……さういはれてゝも、なんせ若い時分のことだつさかい、いつも神妙に、そない思てばつかりもゐられまへん。役附がわるいと、わたしでも栄三郎でも、口には出さいでも、仏頂面を見せつけるやうに、部屋でふくれてたもんだす。そんな時、栄三(ししよう)は見て見ぬ振りしてはりました。玉次郎はんの頭取時代で、栄三(ししよう)はもう人形の座頭になつてはりましたが、顔にものいはして、弟子の役附にまでわが田へ水引くやうなことは、ぜつたいしやはりまへなんだ。頭取の職分いふもんを立てゝはりました。役附のえゝ時は悦んでくりはつて、玉次郎はんに礼いふとかなあかんぜ、いやはりました。
 −−栄三(ししよう)が人形の座頭になりやはつたんは、御霊の文楽座が焼けて、道頓堀の弁天座で興行していた時代だす。紋十郎はんが死にやはつてから座頭は空位のまゝになつてまして、番附には座頭のとこに吉田福寿軒いふ架空の名前が書いとおました。三代玉造の玉蔵はんは、えゝ顔だしたけれど外様いふのんで右の張出しの大外枠、文三はんが中軸で、これが事実上の座頭格、栄三(ししよう)が書出し、玉次郎はんが筆下の二枚目。辰五郎はんは古老、文五郎はんは花形いふのんで、どつちも左の張出しの箱に這入つてはりました。……玉蔵はんが大正十五年の九月に歿くなられ、翌る年の二月に続いて文三はんも歿くなられましたんで、その翌月の三月に栄三(ししよう)が正式に座頭になりやはりましてん。栄三(ししよう)の五十六の時だす。辰五郎はんはその時分には眼を患ふてはつてずウッと舞台を休んではりました。……栄三(ししよう)が座頭になりやはるについて、文五郎はんは女形(をやま)、栄三(ししよう)は立役に廻はるいふ約束が、お二人のあいだにでけたらしおま。そんなわけで、その後は栄三(ししよう)の女形(をやま)が見れんやうになりましたけど、もともとが女形(をやま)遣ひで、栄三(ししよう)の女形(をやま)は、ご覧になつてまつしやろが、文五郎はんとちよつとまた行きかたが違ふて、動きの少ない中に、しつとりとした味はひのある結構なもんだした。……尾上、板額、お辻、梅ケ枝、葛の葉……それにお岩がよろしよましたな。娘役でも「野崎村」が出ますと、お染は文五郎はんが離しやはりまへんので、栄三(ししよう)はお光に廻つてはりましたけど、ほんまは栄三(ししよう)は、お光よりお染のはうがえゝくらいだした。
 −−先代の光造と栄三(ししよう)の関係は、みな玉いふ女義さんがおまして、光造が面倒を見てましたが、この女(ひと)が栄三(ししよう)の叔母さんに当りましてん。それで、九つから堀江座の吉田金四いふお人に弟子入りしてた栄三(ししよう)を、こつちイ来たらどうや、いふて光造が呼びよせたので、栄三(ししよう)も光造の出てた日本橋の沢の席へ、光造の弟子分で出やはることになつたんで、これが栄三(ししよう)の十二歳の時。この時から光栄を名乗りやはつたんだす。それが振出しで、その翌年に彦六へ入座して、六年ほどゐやはつて、それから二年ほど旅へ出てはります。また彦六へ復座しやはつたのが明治二十五年の十一月で、この時に栄三に改名しやはりました。二十一歳の時だす。彦六は座主が替つて稲荷座になりましたが、明治三十一年の三月に団平はんが死にやはつて、六月に稲荷座も閉場しましたんで、その年の盆替り興行から御霊文楽座へ出勤しやはることになりましてん。……その時分には大玉造はんもまだ在世だしたし、先代の紋十郎はん、多為三はん、玉助はん(二代目)、玉治はんなどの大先輩のしたで、栄三(ししよう)は師匠を持たずに修業してきやはつたんだす。−−先代の光造は、わたしの実父です。
 いつだつたか、花柳章太郎氏が「栄三おじいさん」といふ随筆の中に−−いつも芸談を聞くはうに心を奪はれて、おじいさんとおばアさん(妻女うめさん)の馴れ染めの咄を聞き洩らしたのは残念だつた−−といふ意味のことを書いてゐたのを筆者(わたくし)は憶ひ出し、光造君がそれを知つてゐるかどうかを訊いてみる。
 −−おかみさんは中座の表で働いてはつた女(ひと)や聞いてま。栄三(ししよう)と一緒になる前は、やつぱり文楽の人形のはうの、相当な顔のあるお人とえゝ仲やつたんやさうだつけど、若い栄三(ししよう)の芸を見込んで、そのお人と別れて栄三(ししよう)ンとこへ来やはつたんだす。芸に惹かれる気持が、だんだん好きに変つたんだつしやろな。齢(とし)は栄三(ししよう)よりすこし上だした。……別れた人へのいきはりもあつて、その時分おかみさんが栄三(ししよう)のために蔭で尽力しやはつた内助の功は非常なもんだしてん。中座にゐやはつたんでお客さんにも顔が広おましたし、それに小金も持つてはつたと見えて、栄三(ししよう)のことでは相当金も遣やはつたらしおま。栄三(ししよう)の役附がようなるやうに、文楽座の主任の吉野さんなぞにも、すいぶん勤めてはつたやうだす。栄三(ししよう)があたまをあげてきやはつたんは栄三(ししよう)の芸がよかつたからに違ひおまへんが、それを認めさすやうにしたんは、おかみさんの運動の力だしてん。−−そんなわけだしたので、栄三(ししよう)は晩年までおかみさんには何事も一歩譲つてはりました。……外出する時の著物ひとつでも、栄三(ししよう)が、けふあれ著て行く、いやはつても、おかみさんが、これにしときなはれ、いやはると、だまつていひなりになつてはりました。長いあいだには時々口喧嘩しやはる時もおましたが、そんな時には栄三(ししよう)もいはんことはおまへん。えゝ加減いふこともいやはりましたが、いつかて、けつきよくは栄三(ししよう)のはうが折れてはりました。わたしらやつたら、なんかしてんね、いふとこだつけど、栄三(ししよう)はおとなしおましたな。やつぱり昔のことが、あたまにおましてんやろな……。芝居の休みの時には、ときどき二人でご飯食べに行つて、帰りに落語(はなし)の寄席を覗いたりしてはりました。ひとりでは栄三(ししよう)は、どこへも出やはれしまへなんだ。……えゝ、そら、ないこともおまへん。あない見えてましたけど栄三(ししよう)にかて、わたしらが知つてるのんでも、艶種(つやだね)の一つや二つは、そら、おます。……一ぺん、こんなことがおました。なんでも、わたしが入門して間のない時分だしたさかい、栄三(ししよう)は五十そこそこやつた思ひま。その時分に、文三はんやみんなと倉敷へ興行に行きやはつたことがおまして、二日ほどの興行だしたが、そのあいだに、栄三(ししよう)に肩入れした女(をなご)はんと出来たらしおまんね。その時はわたしらはなんにも知りまへなんだけど、女(をなご)はんは土地の顔役の二号はんだしてん。それから暫くして東京興行に上京して、今でもおまんが、新富座の筋向ひの六方舘いふ旅舘に泊つてた時だした。着いて三日目か四日目の夕方、ひよつくりその女(ひと)が、倉敷から上京して旅舘へ訪ねてきましてん。−−三十四、五の小粋な女(ひと)だした。よう来たな、いふとこだしたんやろ。さつそく、仲よう二人で一杯始めてはりましたが、そこへお客や、いふてきましたので、なんの気なしにわたしが玄関へ出ると、知らん顔の男が立つてゝ、−−××の子分のもんやが、これこれの女(をなご)が来てへんか?
 いふのんいドキンとしました。−−女のあとを追ひかけてきた、追ッ手らしおまんねん。
 −−さあ……一ぺん訊いてきまつさ。
 いふて待たしといて、急いで座敷へ戻つて、それを知らすと、栄三(ししよう)も女(をなご)はんも一ぺんにサツと顔色が変りました。慌ててそこらを片附けて、女(をなご)はんも栄さん(ししよう)も別別に、ほかの座敷へ隠してから玄関へ引返して、
 −−そんな女(ひと)きてはれしまへんが…
 いひましたもんの、内心ビクビクしてました。
 −−さうか。そんなら栄三に遇はしてんか。
 −−お師匠はんは贔屓先へ行つてはつて、お留守だんね。
 −−留守? そやつたら帰るまで待たして貰はうか。
 −−それが、今夜は帰りやはるやどやわかりまへんね……
 そんな押問答の末に、
 −−そんならまた出直して来るさかいな、栄三にそないいふといてや。
 いふ凄味な捨白を残して、やうやうその男は帰つて行きましたが、帰つたあとも、なんや気色がわるうて仕方おまへなんだ。女(をなご)はんはその晩一と晩泊つて、翌る日帰りやはりましたが、栄三(ししよう)とはそれからどないなつたんにや知りまへん。栄三(ししよう)は××の子分がまたけヱへんか、いふのんで、暫くは逃げ廻はるやうにしてはりましたが、どないしたんか、それッきり誰もけヱしまへなんだ。……あの時ばつかりは、栄三(ししよう)も可笑しいほど怖がつてはりました。−−栄三(ししよう)は、遊びはせんお人だした。
 −−ながいあいだに栄三(ししよう)が、おかみさんのいふことを肯きやはれへなんだいふのは、空襲に焼け出されて、谷町の薄病院に臥てはつたのを、わたしが迎ひに行つた、あの時ぐらいのもんだつしやろ。−−空襲の時は心配しました。二日、栄三(ししよう)の行方を探し歩るきました。栄三(ししよう)の家の向ひの、お寺のお内の人に遇ふたんで、その晩(昭和二十年三月十三日)は二時ごろまで、栄三(ししよう)もおかみさんも、隣組の多ぜいと一緒に、高島屋の地下室に待避してはつたいふことだけは判りましたが、それからさきは、かいもく見当がつきまへんね。二日目の夕方、谷町六丁目の電車道で、ひよつくり外科の木村先生に出遇ひまして、二人とも、そこから二丁ほど南の薄病院にゐやはることが、やつと判りましてん。−−木村先生の咄には、先生が救護所になつてた空堀の国民学校で、怪我人や病人の受附をしてはつて、空襲の翌る日の夕方、薄暗がりに机に俯いて、きた人の名前を訊いて書いてはると、前へ立つた一人が、柳本栄次郎、いふのんが耳に留つたので、顔をあげて見定めると、やつぱり師匠やつた。おゝ栄三はんやおまへんか。せんせだつか。いふやうなことで、すぐ病院へ送るやうに計らうてくれやはつたんやさうだす。−−先生に別れて、すぐ病院へ行つたんだすが、一室に十人余りも怪我人が、床にぢかに竝べた、被ひのやぶれた寝台の藁蒲団の上に臥てる中に一緒に、二人とも臥てはりました。二人とも前からわるおまして、臥たり起きたりしてはつたとこだしたので、大事なものを入れた小ッさい手提袋のほかには何一つ持ち出すこともできず、栄三(ししよう)はくろんぼ下(黒衣の下に着る筒袖の下着)を著たきり、おかみさんも著の身著の儘の、気の毒な有様だしたが、よう判つたな、いふて二人とも、えらい悦んでくりやはりました。……一と足さきに京都から、おかみさんの実家の弟はんもきてはりましたし、近くだしたんで木村先生にも、そないしても心配ないかご相談しまして、栄三(ししよう)は狭いけど桃谷のわたしの内へ引取り、おかみさんは京都へ帰りやはることにその場で咄をきめ、出直して翌日、リヤカアを引張つて栄三(ししよう)を迎ひに行きましてん。……そのリヤカアいふのんが、焼跡で見つけた、タイヤのない輪だけの、真ッ赤になつたシロモンだしたんやが……。ところが、いよいよになると、おかみさんが、わても光ちやんとこへ一緒に連れてつて貰ふ、いふて肯きやはれしまへんね。しまひには泣いて頼みやはりましたけど、栄三(ししよう)は、芝居もない時に、わし一人だけでも光ちやんに世話かけるのを気兼ねしてるねん。そんなわけにいけへん。いふて、どないしても取上げはれしまへなんだ。あの時はおかみさんもお可哀さうだした。それが、お二人の永の別れになりましてん。−−いつたん栄三(ししよう)を内まで送つといて、すぐ病院へ引返して、またおかみさんをリヤカアに載せて、天満橋の京阪電車の駅まで送つて行きましてん。駅員に頼んでリヤカアをホームまで曳き入れさしてもろて、弟はんと二人で舁いておかみさんを電車の座席へ臥かして、あとは弟はんに頼んで帰つてきたんだすが、わたしにも、それがおかみさんとの別れになりました。おかみさんは、その年の六月の末に京都の実家で歿くなりました。
 −−栄三(ししよう)はかれこれ一と月ほど、わたしの内にゐやはりましたやろ。芝居はないし、わたしも家でブラブラ遊んでるより仕方のない時だした。栄三(ししよう)がきやはつたんで、さつそく縁先へ防空壕を掘つたんだすが、なんせ急拵へだつさかい、屈んでなあたまがつかえるくらい浅い、小つさい壕だした。それでも栄三(ししよう)は、警報が鳴ると、いこか、這入るぜ、いふて、例の手提げを持つてそこへ這入りやはりました。……いま考へると、もし家へ焼夷弾でも落ちてたら、そんなとこへ這入つてるはうが危いくらいのもんだした。……おこうこ一本が自由に買えん時だしたんで、栄三(ししよう)にも、かくべつどないしてあげるいふこともでけず、気の毒だした。わたしら夫婦は店の間で食べて、栄三(ししよう)には奥の間でご飯をあげてましたが、わたしが、凌ぎに、例のすこし酸ッぱい生ぶどうを飲んでるのを見やはつて、それどんなもんや、いやはるので、すこし差上げると、えらいぐあいのえゝもんやないか、いふて、そんなもんでも、悦んであがつてはりました。……そないしてるとこへ、或る日奈良から秋山先生が見えまして、こゝではだいいち光ちやんとこが危ない、こゝに置いとかれへん、いふて、栄三(ししよう)を連れて帰りやはりましてん。−−わたしの家は、省線の桃谷の駅のまあ下におましてん。それから間なしに強制疎開で取毀ちになりました。−−栄三(ししよう)は、大和小泉の秋山先生の奥さんのご実家で静養さしてもらやはつて、一時はともかく朝日会館へ出やはるくらいに躰もようなりやはつたんだすが、その年の十二月の九日に、その住野はんのお宅で歿くなりました。
 −−このごろはわたしにも、栄三(ししよう)が勤めはつた役が附くやうになりましたが、長らく左を勤めてたお蔭で、栄三(ししよう)のしてはつたことは、よう憶えてまんが、さて自分でそのとほりやらうと思ふと、栄三(ししよう)がらくに遣ふてはるやうに見えてたとこが、なかなか、そないらくにスーウといきまへん。力倆(ちから)の違ひを、このごろになつてつくづく感じまんなア……
 出の時間が近づいたらしく、黒衣を著た若い弟子がバタバタと出這入りしだして、出の時刻が近づいた気配なので、筆者(わたくし)は座蒲団を辷る−−(をはり)