FILE 118−5

【茶谷半次郎 「山城少掾聞書」の冤を雪ぐ】

(2016.01.05)
提供者:ね太郎
 
 
  「山城少掾聞書」の冤を雪ぐ 幕間 4巻12号 (1949.12.5) pp30-32
 
 この十月の、文楽の帝劇公演の三日目に、突然、清六さんが山城さんに、この興行をかぎりに合三味線を罷めることを申出て、世間を駭かした。ところで、その動機が、私の書いた「山城少掾聞書」に、清六さんを「誹謗」する記事があるのに憤慨したからだ、といふのであるが−−
 実をいふと私は、いまだにそれを、誤解であれ、なんであれ、事実として受取りかねてゐる。新聞に載つた清六談も清六夫人談も読んだ。それでもまだ、顧みて他を言つてゐるやうに思はれてならない。私には当惑よりも、事の意表外を訝る気持のはうが強いのである。
 −−帝劇の初日の一日の午後、本が出てから始めてなので、なにを措いても山城さんに遇ひたく、私は楽屋を訪れた。廊下で清六さん夫妻に遇ふて、折入つて咄したいことがあるといふことなので、何気もなく、三日の午後部屋を訪ねる約束をした。−−こんどは山城さんは三階、清六さんは二階。いつになく部屋が離れてゐた。
 三日、約束の時間に行くと、清六さんの部屋の扉に鍵がかゝつてゐるので、留守かと思つたが、ノックすると清六夫人が出てきて、お約束したが、少し込入つた咄で来客があるので……といふので、また翌日を約して引返した。
 あとで知つたのだが、この三日の夜の出演前に、清六さんは山城さんの部屋へ出向いて袂別を申出、山城さんが舞台から戻ると、部屋に上京中の「大毎」の山口広一氏が待受けてゐて、翌四日の新聞にその記事が載ることを告げて、それについての山城さんの感想を叩いたといふことである。−−三日に私が訪れた時の、清六さんの部屋の訪客は山口氏であつたと推測され、事は必ずしも新聞の清六談に見られるやうな、突発的なものでないやうに思はれる。
 四日に、迂闊にも新聞も見ず、何事も知らずに清六さんに遇ふと−−
 清六さんは−−私に遇つて訊きたかつたのはそのことらしく、矢はすでに放たれてゐたのだが−−まづ、「山城少掾聞書」の原稿が、本になるに先立つて、山城さんの眼をとほしたものであることを、私に確かめてから、
 −−「鬼界ケ島」の「おきつ波」のところの三味線が、師匠(道八)のとほりには私が弾けなんだとありますのは(聞書一七四頁)師匠の芸を褒めてあるのですから、いくら褒めてあつても結構なんですが、それだけならよろしいが、そこで師匠を持出して私をクサしておいて、そのあとの断絃会の件り(聞書二〇〇頁−二〇五頁)で、私の替りに頼んだ仙糸さんをまた褒めてある。さうなると、私といふものは、いつたいどうなります? 死んだ人を引張り出して私を潰すやうなことばかりで、二十七年間連れそうてきた私に、ようやつてきてくれたといふやうな、情合のあることは一つも出てゐません。それだけでもあの人の気持は判ります。それで、こんどはもう我慢が出来なくなつたんで、昨日山城さんに、この興行かぎりで合三味線をお断りすることを申出たんですが、恰度新聞社の人が居合はされたので、新聞に出たやうなことで……。と、思ひもよらぬ咄。−−唖然としながらも、
 そんな読み方もすれば出来るものか、芸で立つ人のとくべつな神経に、もつと細心でなければならなかつたのだらうか、と私は自分を疑つてみた。
 −−しかし……一般の読者が読んで、そんな風に感じますかな……
 と、首を捻りながら反問すると、
 −−現にこゝへ見えた人で、あゝ書いてあると、あなたはどうなります、といはれたお人もあります。
 と清六さんがいふのに、私は二の句に迷つた。
 −−それでは「聞書」が原因なんですね。
 と念を押すと、
 −−いや、さうではありませんが、あれも火に油をそゝぐ役をしてゐます。
 といふ返答だつた。座に夫人、新三郎君、清友君がゐた。私はいふべき言葉もない気持だつたが、一ととほり言ひ開きもし、清六さんの翻意を懇請して、引退がつた。
 すぐ山城さんに遇つたのだが、
 −−寝耳に水でしたが、私には家庭の都合上と申しますので、昨日はなにも申しませなんだが、新聞も見ましたが、あなたにもさう申しましたか。とんだご迷惑をかけて申わけありません。みな私が喋つたことなんですから、あなたに責任のないことです。しかし、べつに清六君の悪口をいつた積りぢやなかつたんですがな…。こんどのことでは、私には何も申すことはありません。清六君さへ気持を直してくれりや結構なんで……。
 感情をすぐ面に現はさぬ山城さんではあるが坦懐の心境に、いつはりはない容子だつた。
 その夜寓居に帰つて、私は始めて「毎日」の記事を読んだ。記事中に「−−こうしたヒボウの例は山城少掾の自叙伝『山城少掾聞書』の中にも数ケ所指摘できる」と、筆者の私にも見当のつかないことを、無造作に断定してゐるのを読んで、狐に莫迦されてゐるやうな、怪訝な気持がした。−−その記事は私に、清六さんの咄の、「あなたはどうなります」と清六さんにいつた訪客を、憶ひ出させた。
 
 三年間、聞書を書くために咄を聴いてゐるあいだに、私は山城さんから、清六さんの芸を「誹謗」する片言を聴いた憶えもない。また私にして、「誹謗」と思はれる咄を、無反省にそのまま書いた憶えもない。−−偶(たま/\)こつちから誘ひをかけても、黙つて笑つて見せるだけで、山城さんが、いつたいに誰のことでも、他の人の芸の批評めいたことを口にしたがらないのは、山城さんに親近する者が皆識つてゐることである。少くも私との場合はさうであつた。
 また、私は日ごろ清六さんの三味線には敬意を払つてゐる。−−始終控へ目に、山城さんの浄瑠璃のうしろへ、うしろへ廻はつて、けつして「自分」を弾かうとしないでゐて、なほ、そのすがすがしく水際立つた撥の冴えに、その呼吸(いき)に、聴く者を惹きつけずに措かぬところに、清六さんの、なみなみでない芸の力倆(ちから)を感じてゐる。三味線を聴く耳は持たないながら、清六さんが当代の名三味線であることを、私は窃かに疑はないのである。個人的には交際はないが、遇へば談笑するぐらいには心易く、腰は低いが、どこかに端正を持して崩さない、その人柄にも好感を持つてゐる。
 本も私から贈つたので、序にいふと、この本のために入江泰吉君を煩はして、文楽座の楽屋で山城さんの写真を撮つて貰つた時、別に清六さん一人を撮つたのが大変よく撮れてゐたので、それも本に入れて貰ふつもりで、山城さんの写真と一緒に和敬書店へ渡してあつた。それが割附けの都合で載らなかつたのを知つたのは、本が出来てからだつた。−−はからずも、世に出るやその本が、清六さんを「誹謗」するものだと謂はれるのである。私のしてゐたことは、私の神経の遅鈍を語るものであらうか?
 山城さんも清六さんも「あなたに責任はない」といふ。が、それは当つてゐないのである。−−「山城少掾聞書」は、口述をそのまゝノートしたものでは、もとよりない。話題の大方は、質問のかたちでこちらから持ち出したものであり、咄の配列や運びは、筆者の好みに依つてゐる。言葉遣ひなども、話者の言はうとするところに忠実を期しつゝ、咄の運びに合はせ、話者の口吻を倣つて拵へたもので、それでゐて、話者にもそれを自分の言葉と納得させ、読者にもそのやうな印象を与へることを狙つた。あはよくば、咄の一つ一つに、仄かに文学的な構成をも持たすことが出来たら、と柄にない下ごゝろもあつた。私が勿論それらに成功してゐないにしても、以上の意味で、この「聞書」は、山城さんの咄を素材にした創作といへる。従つてこの「聞書」の捲き起した問題の責任は、当然著者の私が負ふべきなのである。−−清六さんが拘泥した「鬼界ケ島」の件りにしても、今はもう記憶にないが、必ずしも、書いたとほりの言ひ方を山城さんがしたといへないことを断つておく。
 
 が、いづれにしても「山城少掾聞書」に対しての譏りが、冤罪であることに変りはない。自分の著書に対する愛着からも、私はそれを雪いでおきたいと思ふ。
 山城さんが「鬼界ケ島」を初演したのは、昭和五年の一月、四ツ橋の文楽座の初開場の時で、今からざつと二十年前のことである。清六さんは四十そこそこ。道八さんは六十位であつたらうか。名匠といはれた人の、正にその芸の円熟に当る。−−その道八さんが弾く「おきつ波」の、ツト、ツト、ツーン、が、磯辺に打寄せる波の音を想はせたに、道八さんに稽古して、中日ごろから交替した清六さんでは、それほど迫るものが感じられなかつたといふことが−−いかに気鋭であつたにしても、二十年前の清六さんが、劫経た師匠の三味線に及ばなかつたといふことが、なぜ今の清六さんの声価を瑕瑾(きづ)つけるのであらうか。私が顧て他をいつてゐるのでないかと思ったのは、清六さんに、それほど自ら恃むところがないとは信じられないからである。−−せいぜい苦笑するぐらいで済して貰へるつもりで、私は安心してそれを書いた。
 また、その咄を伏線にして、あとの断絃会の記事で、病気だつた清六さんの替りを頼んだ仙糸さんの三味線を褒めることによつて、暗に清六さんの芸を貶してゐるとする見方は穿ち過ぎといふほかない。−−あの咄は、単に空襲中、忘我の境で浄瑠璃を語つた体験が話題だつたのをマクラにして、偶仙糸さんが咄の中に登場したのを幸に、山城さんから咄を手繰つて、私の筆で仙糸さんの咄に纏めたものである。「忘れ得ぬ人々」の中にそれを入れたことも、山城さんは本が出るまで知らなかつた筈である。
 とくに清六さんの咄といつてはないのは、山城さんも、
 −−私は現在連れ添う永年の女房を褒めるのは反つて変なことではないかと思ひますが−−
 −スクリン・ステージ十月二週号
 と、いつてゐるが、清六さんが、私が山城さんを訪ねる折に、宅ででも楽屋ででも、しばしば顔を合はすほど、山城さんに身近い人であるのを憚つて、私からも話題として持出さなかつたからである。−−しかし、仔細に読んで貰へば、清六さんに親しみを籠めた山城さんの談片を、ところどころに拾ふことも出来る筈である。それこそ「数ケ所指摘できる」のである。
 昨年の春、文楽座に「忠臣蔵」の通しが出た折、松竹は山城さんがまだ一度も演らない「九段目」の役を、その前月巡業中の山城さんに持つて行つた。清六さんは躰を悪くして、巡業の途中から落伍して引籠つてゐた。山城さんが断はつたので、その時もまた「九段目」のない「忠臣蔵」になつた。当時私が「九段目」を断はつた理由を糺すと、清六さんの病気の咄をして、
 −−「九段目」なんかは替りの三味線でやるもんではありませんからね……
 と、山城さんが言つたのを憶えてゐる。こんな咄も書き込んで置けばよかつたと、問題が起つてから憶ひ出して、自分の怠慢を悔ひてゐる。
 
 これを要するに、清六さんには先入の感情があつて、それが「聞書」の行間に、ありもせぬ悪意を読み取らしたものであらう。しかし、なんといつても清六さんは当事者であり、いかに歪曲されてゐようと、清六さんの主観がそれを事実とするなら、なんとも致し方のないことである。或ひは、そこに芸の人特有の神経を認めねばならないのかも知れない。が、当事者ならざる、冷静な第三者の、事もなげに、清六さんを「誹謗」するものだとすると、「聞書」に対する譏りは、悪意のほかのものでない。十月四日の「毎日」(東京)の記事は、山口氏が書いたのかどうか知らないが、あの記事こそ、私の著書を「誹謗」するものでなくてなんであらう。−−私はその後「聞書」の読後感を叩いた誰からも、そのやうな感想は聴かないのである。(この一文が、山城、清六両者和解の妨げの一端にならないことを望みつゝ−−十一月十日)