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【 晴翁漫筆 巻之五 抄 】

『浪速叢書』 第十一巻 稿本随筆集 p142-170による。
『晴翁漫筆』は初代暁鐘成が自筆の稿本。……本書の序文によりますと、本書は安政五年戊午から、六年己未にかけての述作、即ち鐘成が六十六歳から七歳に亘つての著で、その翌、万延元年辛申十二月十九日には、鐘成は故人となつて居ります。(解題から)

巻中総目録 巻之五
稗史小説の弁西鶴近松の伝[近松門左衛門]柳島近松の碑文
蜀山人近松の碑文八文字屋自笑累世の伝[八文舎其笑]評判記品類の外題
江嶋其磧自笑と確執の話西澤一風累世の伝紀海音の伝同室町合戦の戯作[座敷八景]
寺井養拙の伝同和歌の懐紙并伝来の門葉十二月手鞠哥大石良雄自作の硯
赤穂義士伝の戯作[仮名手本忠臣藏]竹田出雲の伝并千前軒の伝近松半二并穂積以貫略伝三好松洛の伝
並木宗助并丈助永助の伝並木正三の伝 当字の始同五瓶の伝 歌舞妓外題の説近松徳叟の伝
辰岡萬作伝并古今作者の伝蜀山先生の像并大蔵永常の伝長嘯子難題の七首菅公自画の神影
附 巻之四 真桑瓜   

(p139)
晴翁漫筆 巻之五
○ 烏有山人嘗て云。夫稗史小説とハ何ぞや。・・・・・・(略)
(p140)
○ 勧善懲悪を示すにハ。いにしへより教戒の書数多し。・・・・・・(略)
(p141)
○ 稗史古今の差別ハ和漢ともに同じといへども、・・・・・・(略)
○ 西鶴ハ井原氏。・・・・・・(略)

(p142-143)
(p142)
散るさくら こヽらに茶屋が あつたもの 西鶴
秋の苫屋画にうつしてはうつくしき 門左衛門
見性却清醇享齢
擬壮椿春温渾満
腔空眼転洪鈞匀
翰譫歌妙少牋綺
語神甲休門榜爍
楽隠特相親
右題近松平安翁像 穂積以貫
(p143)
鶯や一声二ふし三ツの朝 竹田千前軒
辞世
散ゆくや風に常磐の木の葉あめ 一風
霜枯ハさもあれ亀のよはい草 八文舎
はゞ広に流るヽ朝の清水かな 其磧

(p144)
○ 近松門左衛門ハ長州萩の産にして。同藩の臣杉森某の男なり。名ハ信盛俗称平馬といふ。平安堂巣林子。不移山人等の数号なり。卯花園漫録にハ越前の人とす。恐らくハ誤りならん乎。少して肥前唐津近松寺に遊学し。後京師に登り。或堂上方に仕へ奉り。爵六位を賜ふ。元禄の頃を仕官を辞して退き。浪人して近松門左衛門と名のり。歌舞妓芝居都万太夫が座の狂言の作をなし。又宇治加賀掾。井上播磨掾等が為に浄瑠理を作る。其後元禄三年庚午正月京師より浪華に下り。竹本筑後掾が為に浄瑠璃数多著述し。其名を世に轟かせり。原来(もとより)和(p145)漢の書籍を学び。博識にして志かも時世の人情を察し。下情を穿ちて百余番の浄瑠理を作る。中にも蝉丸。浦島年代記。嫗山姥。曾我五人兄弟。加古教心七墓巡。用明天皇職人鑑。傾城反魂香。碁盤太平記。相模入道千疋犬。楓狩劒本地。持統天皇歌軍法。嵯峨天皇甘露雨。天神記。日本振袖初。本朝三国志。信州川中嶋合戦。宵庚申。平家女護島。鎗権三重帷子。河内通。重井筒。別て国性爺合戦ハ大当りにして。十一月より興行はじめ三年目の三月迄打続け。都合十七月の繁昌なり。又雪女五枚羽子板。曾我會稽山等ハ最妙作といふべし。享保九年甲辰十一月廿一日七十二歳にて没す。浪華谷町法妙寺に葬る。則当寺に碑あり。又河邊郡久々知廣濟寺にも石碑あり。辞世の文左に誌す
  代々甲冑の家に生れながら。武林を離れて三槐九卿に仕へ。、咫尺し奉て寸爵なく。市井に漂て商売しらず。隠に似て隠にあらず。賢に似て賢ならず。物識に似て何も志らず。世の紛もの唐のやまとの教ある道々。伎能雑芸滑稽の類まで。しらぬ事なげに口に任せ筆に走らせ。一生を囀りちらし。今わの際にいふべく思ふべき。真の一大事ハ一字半言もなき倒惑。心に心の恥を覆ひて。七十余りの光陰。思へば覚束なき我世経畢。もし辞世ハととふ人あらば
  それ辞世去程に扨もその後に残る桜の花し匂はゞ 享保九年中冬上旬入寂名阿褥院穆矣日一具足居士
(p146)
不俟終焉期予自己春秋七十二歳□□
のこれとは思ふもおろか埋火のけぬまあだなる朽木がきして
一説に門左衛門兄ハ相国寺の宗長老。弟ハ岡本一抱子といふ名医なり。妹ハ錦江といふ俳諧師にて浪花に住す。同胞ミな世に名高しといふ
  
日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖
近松門左衛門藤原信盛文碑
曾祖近松門左衛門信盛長州萩之藩臣杉森某男也後登京師奉仕 一條禅閤兼良公賜笏六位因老病致仕而遊摂之浪華享保九年甲辰十一月廿一日七十有二歳而寂則葬於摂州久々智山廣濟寺法号阿褥院穆矣日一具足居士当百回之遠諱収所遺艸稿而於 北辰尊前納于石下以樹文碑且臨終辞世之狂歌一首勒于石面者也
 
文政十一戊子年十月 曾孫 近松春翠軒纖月
洛東山戯名心庵蝶々子誌□□
(p147)
碑陰文辞世 自足堂信尚書○
それ辞世さる程に扨も其後にのこる桜のはなしにほはゞ  八十八翁倹齋□□
 
按ずるに錦小路頼庸朝臣の五五記にも。此碑文の如く。一條禅閤兼良公に仕ふる由見へたり。然れども兼良公ハ文明十三年に薨去ありて。近松とハ二百余年の昔なり。若くハ此公に仕へ子孫にやあらん不審(いぶかし)又近松門左衛門ハ元肥前国唐津近松禅寺の小僧にして古澗と号す。積学によつて住僧となり義門と改む。徒弟あまた有しが所詮一寺の主となりてハ。衆生化度の利益うすしと大悟し。遂に行脚に出しが。其頃内縁の舎弟岡本一抱子といふ儒医京に有けれバ。是に寄宿し。還俗して堂上方に奉公し。有職の事をも大概記臆し。爾後浪人して京都浄瑠璃芝居。宇治加賀掾。井上播磨掾。岡文彌。角太夫等の浄瑠理狂言を著述せしが。竹本義太夫に頼まれ。浪華(おほさか)に下り。出世景清といふ新作を書り。是近松が義太夫本戯作のはじめ也。是よりして百余の作を著ハせり。凡て此人の作ハ勧善懲悪を旨として。衆生濟度の方便を文中にこめたり。是初よりの願望なり。又近松氏と名のることハ。近松寺に在し古へを。忘れざる微意なるべしと。近松寺の僧の説話なりと並木五瓶か戯財録に見へたり
因に云浪華(なには)法妙寺に建る所の石碑ハいたつて麁にして微小なるを以て知己何某これを再建せんとて。東武の蜀山人に文を乞て既に其稿なりしかども。故ありて終に成就せず。其人も又没せり。然るに其草稿予(p148)が手にあるを以て。聊其志を世にあらわさんが為にこゝに写せり
平安堂近松翁以善戯文名于海内。後之作戯文者。学其体裁。以為師法。実此方名漁清人也。其墓併配。在浪華法妙寺。歳月推遷。断碑僅存。里長□□氏悼其湮没。重修一碣。使予紀事予嘗好読翁戯文。上自縉紳武弁。下至倡優隷卒。宛然口気。如逼其真。其孝悌忠信。禮義廉恥。可以裨世教矣其所著国性爺。演劇三年。可謂妙矣。唯曾根崎一齣。匹夫匹婦之諒。誓死倶斃。此風大行。有害其俗。可謂功罪相半矣。然徂来子嘗読此文。嘆至曰。近松妙処在此中矣。然則一功一罪。在善聴之者。於翁乎何病焉。
     文政四辛巳秋日江戸蜀山人識
門人近松半二門左衛門が遣ふ所の硯を伝へて遺品とす。其蓋に漆して。
事取凡近而義発勧懲九字を記す。 是ハ立翁伝奇の序に
昔人之作伝奇也事取凡近而云々といふ語をとれり。近松が小説に心をよせし事是にて知らる。此人ハ実に本邦の李笠翁なりといふ
(p149)
浄瑠理ハ木偶(にんぎやう)にかゝるを第一とすれバ。余の草紙とハ違ひて。文句ミな働きを肝要とす。性根なき木偶にさま〴〵の情をもたする事なれバ。大かたにてハ妙作とハ言がたし。
 
○ 八文舎自笑ハ姓ハ藤原にて安藤氏なり。俗称八文字屋八左衛門とよびて。京師麩屋町通誓願寺下る所に住する書林なり。西鶴に嗣て戯作の名人にて。数百部の双紙を作る。就中傾城禁短気。同曲三味線。同友三味線。同歌三味線。同玉子酒。野傾色孖。分里艶行脚。都鳥妻懸笛。富士浅間裾野桜。風流御伽曾我。同東海硯。同東鑑。同軍配団。尚此余浮世親仁形気。娘気質など題して冊子数(しば〳〵)ありて。当世の人情を穿ちて。俗人の頤を解しめしより。今の世に至るまで。是を気質(かたき)物といひ。八文字屋本とて。一種の体裁ありて人口に膾炙せり。又歌舞妓役者の年々の芸の甲乙を評判して出せしが。是亦大に行われ。年々許多売しより。評判記の家の株のごとくなれり。延享四年卯の正月出板の自笑楽日記を書納めとして序云。僕(やつがれ)わかゝりしより狂言綺語を草紙にあやなせる事数十部。九十歳にちかき長寿(よわひ)。筆とることもいたづき。多くは其笑に物ずきして書せしに。今是を書おさめと思ひ。ふるへる筆にまかせト云々。又跋に[上略]其笑ハ子なり瑞笑ハ孫なり。向後(きやうこう)の作意かれらに命せぬれば。常磐の松の色かはらず。緑の竹の久しき恵ミを仰ぐといふ。詞を以て毫をおさめ侍りぬ。千代に八千代のかぎりなき浜の真砂と尽せずよませ給へとなん心をこめて云々。同年十一月十一日没す行年八十余歳
  
役者評判記も最初ハ。顔見世狂言の芸の評判記ばかり出せしが。自笑が中年より。二の替とて春狂言の評(p150)判記を出し。三の替りとて盆狂言の評判記をも出せり。其頃ハ京大坂江戸三都の評に。一趣向立たる序文を。一々出して文才を振ひたり。後世漸に衰へ作意も評も面白からず成行しが。弘化の初終(つひ)に止たり。
尤自笑より前々ハ京浪花(おほさか)の俳人。或ハ西鶴なども折々評せし事も有とぞ
 
○自笑の子も又八左衛門と号す。則八文舎其笑也。父に替らす戯作の書を著わし。評判記を出せしかども。親自笑にハ及びがたし。其笑没年審ならず。又孫も八左衛門と称し八文舎瑞笑と号す。是又父の其笑にも劣りて戯作出来がたく。唯家伝の評判記のミを著わせり。曾孫四代目の八左衛門に至りてハ。尚も其才父祖に及バす。然れども八文舎自笑と号して。漸く評判記を出すのミなりしに。天明の末京都の大火に類焼して家もいたく衰へ。遂に大坂に下り。心齋橋通安堂寺町に幽に暮して渡世し。評判記を出し居たりしが。夫さへ其身没して後ハ。其子何某なる者放蕩にして。産を破り家を失ひて中〳〵評判記を作る事も出来ざりしゆへ。彼是と作者かハりて相続せしが。四代目自笑に幼少より奉公せし。卯作といへる者記臆よくして。評判記の綴り方をよく心得たりしゆへ。年々嗣て著作せり。戯名を梅枝軒泊鶯と号す。八文字屋没落の後。御霊筋瓦町に住して和泉屋卯作と称し。新古の芝居絵本番附類を。売買なして渡世とせり。尤年々評判記を著すといへども。己が一個の名を出さず。亡師八文舎自笑の名を記し。我と合作の如くして出せり。是も天保九十の頃没す。行年五十余歳なるべし。右役者評判記に倣ひて。種々の評判をせし事あり。其あらましをこゝに出す。外題の下に年号を記すハ出板の時代(p151)なり
○能役者評判記 元禄 ○鎧工評判記 元禄
〇三都学者評判記[三都学士評林?] 明和[5]  ○義太股引 明和[安永6]浄瑠理太夫の評判也
○俳優風 天明[5]狂哥師評判記也 ○[評判]茶臼芸 天明[安永5]諸芸評判記
○角力評判記 安永吉原岡場所 ○客者評判記 安永[9]
○[初物評判]福寿草 安永[5]諸初物評判記 ○宝貨鐫 天明[寛政2]文字替銭評判記
○菊寿草 天明[安永10]草双紙評判記 ○岡目八目 天明[天明2]草双紙評判記
○花の折紙 天明[享和2]洒落本評判記 ○[評判]江戸自慢 [安永6]諸商売評判記
○[五十三次]江戸土産 [天明2]五十三駅評判記 ○[評判]千種声 [安永7]虫類評判記
〇五百崎[虫の評判] [享和4]同上 ○名代[娘]六花撰 明和[6]江戸娘評判記
○闇の礫 [天明元]義太夫浄瑠理評判記 ○[評判]鶯宿梅 [天明元]同上
○[音曲]猿轡 [延享3]同上 ○[評判]龍の美屋子 [宝暦7]魚評判記
○水の富貴寄 [安永7]京名物評判記 ○役者女房評判 [女意亭有噺? 宝暦9]
○儒医評林 宝暦[明和9] ○諸宗評判記 [天保4]
○茶番遊 茶番狂言評判記 ○鞠[蹴]評判記 [明和8]
○刀銘尽評判記 ○犬夷評判記 [文政元]朝夷奈巡島記八犬伝等の作意を評判せしもの也
尚此余許多あるべし
  ※注1
 
○ 江嶋其磧ハ俗称江嶋屋市良左衛門といふ。其磧ハ其俳号なり。古老の口碑に云。京師京極通誓願寺ハ。浄土宗の本山にして。本尊ハ春日佛師の作の大仏なり。此寺の門前に昔より餅をうる家ありて。大佛餅とてもてはやし(p152)繁昌して。家巨萬の財主となる。是乃ち江嶋屋が先祖なり。けつ后太閤秀吉公。洛東六波羅の南に。方廣寺の大佛を建立ありし程に彼所にも又他家の餅屋大佛餅とて新たに店を開きて。繁昌連綿たりしにつき。京極通のはじめの餅屋ハ業を転し誓願寺通柳馬場へ変宅せしに。其子孫其磧に至りて。大に驕奢に長じ。遊里に莫太の財を費し。洒々落々たる風流家にて。戯作の書を数百部著し。自笑と合作して出版し。大に世に賞美せり。一説に原ハ四條御族町に住しが。後六角通柳馬場の角に移る。又綾小路通柳馬場西へ入所へも宅を変へたり。其時ハ八
文字屋と同商売にて書林なりしとぞ。然るに一年其磧自笑と確執の事あつて。正徳四年午正月出版の評判記。役者目利講の序に其磧其趣意を書り
 東西〳〵扨わけて御断を申升ハ。役者評判本ハ中頃出水通和泉屋八左衛門と申草紙屋板行いたし。年々古板に書加へて。或ハ役者舞台鑑。又ハ梭櫚箒などゝ外題を替て出しゝ所に。此役者目利講の作者其磧と申好者。三ケ津を三巻にわけ。一切ヅヽの序をつけ。御慰,に上中又ハ白字の上など申位づけをいたし。役者口三味線と題号をつけ。麸屋町通八文字屋八左衛門へ遣し申候ヘバ。早速板行にいたし候。夫より毎年せがまれ乍斟酌。年々仕遣す所に。又二條通正本屋九兵衛方より。一とせ余義なく頼まれ。止事を得ずして役者一挺鼓と申を仕遣し候。然共八文字屋と正本屋両方を掛持に同じ事も成がたく正本屋ハ団水と申好人へ頼ミ。八文字屋方ハ例年絶ず仕遣候。五六年以来ハ評判の所計ハ。先格を以て其(p153)年の狂言の当を見て。自分にも可成事と。評判之仕方を敢へ八左衛門にいたさせ。外題目録三ケ津の序を仕遣し候。然ルに此作者其磧一所の。江嶋屋市良左衛門と申新本屋と。役者評判本ハ向後八文字屋と相仕に致され。末々迄入魂にせらるゝ様にと。作者色々と申せ共。八文字屋一人していつまでも可仕よし申切。不同心にて却而江嶋屋方をさして。似本又は紛らわしき草紙など出し候と。八文字屋より断書出候段。作者身に取候てハ。心外之至と存候。抑八文字屋八左衛門と申草紙屋ハ。何にて世間へ廣く名を発し候哉。二条正本屋同く鶴屋ハ。古来より浄瑠理本にて名を取。八文字屋ハ京芝居の歌舞妓本を板行仕候外。さのミ家名を世間に御存知にても無之所。作者其磧松本治太夫方へ浄留理を作り遣し。其語り本を八文字屋へ遣し。版行させゝてより。年々の評判本ハ申二及バず。傾城色三味線。同曲三味線。禁短気。伝授紙子。色情両雛形。御伽曾我等の類ひの慰書。数多作遣し候所に。各様之御意に入。八文字屋〳〵と是より浮世本評判本の名取のやうニ罷成候事。八文字屋の功ニて候哉。作者其磧が功にて候哉。此段憚ながら。世上の人様。御了簡被成可被下候。殊更作者之実名を出さず。作者八文字屋自笑と致させ候程の深切を顧ミず。今にてハ八文字屋と名を取申上なれバ。烏を鷺と書て板行仕出し候而も。八文字と中名ニて売申との所存。高鳥尽て良弓藏るとやらんにて。功を立遣し候作者の申分も用ひず。作者一所の江嶋屋をけづりて。一人の功に可仕存念是に依て当年より江嶋屋方ニ而役者評判本板行仕候。以來ハ毎年(p154)仕出し候間御求可被下候。八文字屋ニハ今まで八文字屋と名を取らせ候作者之功を奪ひ。自分之功に仕度存念ニ在之候へは。右之品世間へ披露いたす事気毒ニ存候哥舞妓本看板等ニ。此方似せ本の或ハ紛らわしき本のなどゝ小書いたし。八文字屋より出し候へ共。右之通少しにても違候事を斯(かく)長々敷書顯し。板行ニ可成者に候哉。紛らわしきと申小書を仕候手間ニて。真実紛らわしき事ニて候ハゞ此長口上をとめ申が真にて候。惣じて紛らわしきの似せ本のと申ハ。たとヘバ八文字屋八左衛門板などゝ。仕出し候ハゞ紛らわしき共可申候。あの方ハ八文字屋板。此方ハ江嶋屋板と仕候ニ。紛らわしきと申訳ハ無御座候。八文字屋抑の評判本。又ハ当世本之作者ハ其磧と申ニ紛無之候を。其儘其作者の仕りたる態(ふり)にて。新作出し候八文字屋こそ。紛らわしきとハ申べけれ。近頃片腹いたき穿鑿。此方のハ数年御馴染之作者。御佳例之評判本。新規之作之八文字屋評判と。御見紛へ不被遊(あそばれす)御求御覧可被下候。扨京芝居の評判ハ。一座本ヅヽ座分(ざわけ)に仕候間。御神妙ニ御一覧奉願上候。追付評判はじまり。左様ニ御心得なされませふ
      ゑじまや市良左衛門
按ずるに此時其磧ハ伜ニ市良左衛門の名を譲り。本屋させたるなるべし、猶又自身一己の作の浮世本。略平家都遷(やつしへいけみやこうつり)。並ニ評判本をも出せしに。原来其磧が戯作の才ハ。自笑よりハ遙に勝りたる者なれども。如何せし不幸にや。其磧一作の書ハ世間にもてはやさず。唯八文字屋本とのミ諸人ハ愛て翫びぬ
 
(p155)
○ 西澤一風ハ俗称正本屋九左衛門といひて。大坂心齋橋南四丁目に住する書林の板元なりしが。俳諧を好ミ戯作を楽ミとし。浄留理狂言の作を許多著せり。中にも日本五山建仁寺供養。井筒屋源六恋寒晒。頼政追善芝。女蝉丸。昔米万石通。南北軍問答。身替弓張月。本朝檀得山。北條時頼記。此余操年代記等の著述もありて。豊竹座の作者なりし。別て北條時頼記ハ豊竹座にてニ年が間打つゞけて当りをとり。近松が国性爺と肩をならべし狂言を残せり。享保十六年五月廿四日に没す。行年六十七歳。墳墓ハ大坂下寺町大蓮寺にあり。法号常誉貞寂禅定門と称す。紀海音。田中千柳並木宗助等ハ一風が門人なり。其孫利兵衛も正本屋と称して。内本町二丁目宅を移し。浄瑠理本の板本なれども。明和安永の頃ハ操狂言大に衰へて。歌舞妓もつハら流行ゆえ。父祖依来の仕来りを転じ。歌舞妓をこのミ一鳳と号し。戯場正本の書き方を糺して。是まで役者の筋書一に根本(ねほん)或ハ詞書(せりふがき)又台帖とも云とて。作者俳優のミ読て。他見を許さゞる物なりしを。偏ねく諸人に見する事になし。我家号の正本といへるによりて。是を正本と唱へ始めしなり。文化九年壬申どし。臘月四日に没す其次男利助幼少より劇場(しばゐ)を好ミ。堺筋清水町に住て書林正本屋を家業とし。父祖の跡を継て西沢一鳳軒又ハ狂言綺語堂と呼び。狂言作者となる。俳名ハ秋声菴蒼々。後に隠遁して李叟といふ。東武へ下りて狂言の作をなし。又草艸紙をも作る。近き頃大坂芝居にて八犬土伝を翻案して。花魁莟八総(はなのあにつぼみのやつふさ)と題し。二日続きの狂言に綴り大当せしかバ。操狂言にまで写して当りを取しハ頗る名誉といふべし

(156)
稗史小説の著述。浄瑠璃歌舞妓の戯作ミな勧善懲悪を本とす。されバ此を読かれを見これを聞く。おの〳〵益ありて婦女子の徒も自ら五常の道を知るハひとへに太平の御恩沢といふへし。されど拙作にして猥褻なる事を作せしも無にしも非ざらハ。其善を取悪を捨るを肝要とすべき事そ (翻字は不確かです)

(p157)
○ 紀海音ハ近松門左衛門同時の人にて。浄瑠璃の作文多く其名高し。姓ハ榎並(ゑなみ)。雅名を貞峩と号す。鯛屋貞柳の弟なり。俗称喜右衛門。後に善八と改む。初め黄檗の悦山和尚に属して僧となり高節といふ。又一説にハ和州柿本寺の所化と成しが。皈俗して大坂に住すと云。又還俗して俳諧師となり或ハ医道を業とし。契仲翁の門に遊びて。契因鳥路観と号し。浮瑠理の作名を紀海音といへり。元文元年辰の夏。法橋に叙し寛保二年戌十月四日。行年八十歳にて没す。法名を清潮院海音日法と号す。墓ハ東高津宝樹寺にあり。石碑の台石に鯛屋忠七とあり。此忠七ハ貞峩の子にして貞風と号せり。道頓堀太左衛門橋通八幡筋にて鯛の看板をかけ。菓子を製して業とすとぞ。按ずるに声曲類纂に海音ハ延享四年七月に没せりと有ハ誤りなり。貞柳没後に追悼の詠に
    
知るしらぬ人を狂哥て笑わせし其返報に泣て給われ  貞峩
   柳翁の家集に鳥路観貞峩より年頭の禮に団扇をこしけれハ
物ずきてていがよけれバ夏の物を春にもつかふうちハ故也  貞柳
   鳥路観の七十の賀に
十ばかり千世の余りの我におほきつらなる枝ハ花も身もあり  同
兄弟ともに風流の道に遊んで其名世に高し。享保七年寅十一月一日より。豊竹座の操にて。東山殿室町合戦といふ戯作ハ。則海音の作にて第四段目座敷八景といふ節事の文中に。油煙齋貞柳翁の狂哥を綴り入たり。
 
(p158)
  東山殿室町合戦第四 紀海音作
      王元之が竹楼も是れんけつのよらくとかや。されバ細川勝元ハ繁栄日々に彌増て何おもふ事夏もくれ。秋をもてなす下やしき。西の京に地を転じ。遊亭閑所とり〴〵に。奇石をたゝむ築山ハ。諸木こもつて枝をたれ。月を迎へる池水ハ。鴛鴛(をし)鴨ところ得がほにて。風をふくめる葡萄のたな。鈴波よする如くなり。頃しも盛の百日紅。花に詠ずる書院さき。障子ひらかせ勝元ハ。近臣諸とも汲酒に。肴ハ千倉検校が。調妙なる物の音ハ。荻の葉わたる風よりも。身にしミ増るばかりなり。勝元ほとんど興に入。あつはれ手練(てだれ)の音曲に。此間の欝病を稍忘れて面白し。しかし朗詠平家など。耳ふれて気が替らず。当世めきたる一ふしを。所望なりと勧むれバ。ハァ何をがな申たら。お心に入候ハんヱヽ幸ひかな〳〵。楽人達の戯ふれに。座敷まわりの道具をバ。八景に準らへて。狂哥に詠れしを。某ふしつけ仕る。憚ながら御聞と。拍子をとりて語りける
  座鋪八景
実に海山の風情をも。こゝに摸(うつ)せバ自ら。座敷に浮ぶ八景の。中にかゝやく名所ハ。先鏡台の秋の月。蒔絵に見ゆる松が枝に。曇らぬ影ハまん丸ごさる〳〵十五夜の。月の輪の如くいつも最中の詠めなり
    鏡台の蒔絵に見ゆる松の上に。曇らぬ月の影がまんまる
(p159)
次に扇の晴嵐を。たとへもよしや暑き日の。光りも頓てうす物の。扇に画く山風ハ。音高砂や相生の
    暑き日の光りも頓て薄ものゝ。扇や画く松かぜの声
妹脊も遠く待宵に。聞ばせわしき時計こそ。恋しらぬ身や作り初けん。いづれ逢瀬ハ秋ざれど。短き夏の夜の霜。鎭の糸の結ぼれず。時計の晩鐘ひゞくなり
    むつ言もまだ尽なくに打時計恋しらぬ身や作り初けん
扨又台子の夜雨。ふりミふらずミ定めなき。身にし昔を思ひ出す。大黒庵も夜の雨。台子のならひ音にきく
    釜のにえ聞ばさながらよるの雨。大黒庵の昔しをぞ思ふ
されバ高きも賎しきも。交り結ぶ中だちハ。雪の口切春さめの。花より色も香も濃茶。品あつて又和らかに。人づき合も綿ぞとハ。いざ白雪の掻くれて。はらへど袖にぬり桶の。暮雪と是を申すべき。
    綿ぞとハいざしら雪の夕かな。払へど袖に積るけしきハ
明暮きやしやな手にふれて。聞や琴柱の落雁ハ。詠めし哥も優美也
    ふきといふも草葉の露の玉琴を。手ならす袖に冥加あらせ玉へ
ふきといふ草葉の露の玉琴を。手ならす袖に冥加あらせ給へ。吟じかへせバ香ばしき。梅が枝組や須磨明(p160)石。君が引手に誘われて。時しもわかぬ酒のかん。あい〳〵〳〵の長返事遊び過して花の枝に入日を残す行燈の。かげ夕照とおしまるゝ
    花の枝にかけて詠めん暮おしき。夕日を残す行燈の影
緑樹かげ沈んでハ。魚(うお)木に昇る景気あり。杓に梢を汲上て。さつとたばしる手水鉢。風のかけたる手拭ひハ。丸にやの字の帆が見へる。ひたす絞りの文字が關入江もこゝにほの〴〵と。手拭かけの帰帆ぞと
    手水鉢風のかけたる手拭ひハ。丸にやの字の帆と見ゆるかな
三十一文字を浄瑠璃へ。送り三重引よせて。綴りよせたる八景と。さもあり〳〵と述けれバ。勝元を初めとし皆々興に入給ふ云々
  ※注2
 
○ 寺井養拙ハ諱。辰。字。子共。維堂と号す。又桂費軒。或ハ臧夫(よしひと)といふ。蓋し養拙ハ齋号なり。京師京極通竹屋町なる一條革堂の邊に住す。依て革巷処士の名あり。寛永十七庚辰年に生る。正徳元辛卯年七月廿五日卒す享年七十二。洛東二王門通。西寺町専念寺に葬る。法号養拙齋徳誉道頼居士と称す。其初書を佐々木志津磨に学び。後一家をなす。唐玄宗皇帝の内閣字府を信用し。内閣府頭書の書を著す・其書体頗る異にして世に養拙流といふ。専ら招牌(かんばん)を書するを以て名を高くす。和歌を武者小路実陰公に学び。元文中地下の歌学者に名ありて一個の英傑とす。詩も又絶妙なり。嗣子を子明といふ。不幸短明にして早世す。門人片岡子玉・三神子水。臼井子(p161)中。堀子正。大岡孚齋おの〳〵高名なり。其余門生千三百に及ぶと云
 
○ 養拙齋門人堀新右衛門字子正より三代目新右衛門凌雲齋。右門葉五雲齋鸞山氏四方俗称茂兵衛。堀子正より代々当流書法の伝書を所伝す。故に京師に其流を汲む好士数々なりと雖も此鸞山を以て流義の嫡統とす。爾程に家に養拙齋の遺墨数帖数幅を藏す。且同流故人の遺墨も又櫃に満盈すといふ。就中養拙齋の懐紙あり頗る見事なり和歌に云く
   冬日詠二首和歌  臧夫(よしひと)
    初冬月
  冬来ぬと空にしられてすむ月の影さやかなる森の木枯
    草庵雨
  いかゞせむ草のいほりの夜の雨にぬるゝばかりのなミだならねバ
 
○ 或家の所蔵に狂画師耳鳥齋の画の十二月の絵巻物を見たりしが。自序ありて宝暦の頃田中某が作文に。竹田出雲か加筆せし。十二月手鞠哥といふ事あり。按ずるに今世に流布する 〽まづ初春の暦ひらけバといふ歌なるべし。巻中八月の所に久米の仙人を画けり是ハ 〽通を失ふはぎ月といふ事なるべし。真証明らけし。世俗手鞠歌ハ近松翁作なりと言伝へたれども爾あらざる事を知べし
 
(p162-163)(大石良雄自作硯之図略)
(p164)
○ 浪花北堀江の住人俵何某所蔵に。大石良雄自作の硯といふ有。伝云備後福山中條村に内藤玄東といふ医師(くすし)あり。故有て此硯を持伝へしが一子摂州堺に移り柳町に住し俵藤齋と号す。是より伝わり今の俵氏蔵すと聞ゆ。或云大石主税良金。本国に居住の時。婢女に通ぜし事ありて一子を設く。後芸州にて盛長し内藤玄東の家に食客となりて有し時亡父の遺品なりとて秘蔵せしを玄東へ送りしとぞ此人の終焉詳ならず。
 
○ 仮名手本忠臣藏の浄瑠理ハ。竹田出雲の作にして今に廃らず。歌舞妓にも仕はやらせるハ頗る佳作の妙なり。太平記忠臣講釈ハ近松半二の作にして是又忠臣藏に続きての妙作といふべし。其余の異作あまたにして挙て枚ふるに遑あらず。歌舞妓浄瑠璃ともに。興行の出しものに屈せし時ハ。忠臣藏を出せバ必らず流行せずといふ事なしと。是なん正しく佳作の妙といひ。且四十有余の忠肝義膽の有難きを衆人賞するが故なるべし
 
○ 元祖竹田出雲といふハ。阿波国の産にして江戸に居住し。常に浅草の観音に祈願をこめしが。其霊験によつて京師(みやこ)にのぼり。機關(からくり)の偶人(にんぎやう)を製作し。萬治元年十二月朔日 公に調進し奉りしより。初て竹田出雲と受領を拝せり。其後寛文二年寅のとし。大坂に於て始て機捩戯場(からくりしばゐ)御免あつて興行し。享保十一年五月五日竹田近江掾と受領を改む同十四年九月十九日没す。二代目出雲ハ名を清定と号し千前軒といふ。宝永二年三月より竹本芝居の座元となり。頗る文筆の才ありて。享保の頃より浄瑠璃を著作せり。則享保十四年十一月出雲掾と受領す。著所の戯作多かる中に。大塔宮曦鎧。大内裏大友真鳥。加賀国篠原合戦。男作五雁金。蘆屋道満大内鑑。(p165)楠昔噺。平維茂凱陣紅葉。菅原伝授手習鑑。双蝶々曲輪日記。源平布引瀧。小野道風青柳硯。義経千本桜。仮名手本忠臣藏。此余尚許多あり。百有余年の今に廃らず。浄瑠璃哥舞妓に仕はやらせる狂言ハ。大約(おほかた)出雲が戯作なり。寛保二年九月二日没す。其辞世と聞えしハ
影すゞし水に彌勒の腹ぶくろ
  其子を小出雲といふ。是又佳作尠からず。就中新薄雪物語。軍法冨士見西行。日高川入相花王。夏祭浪花鑑等尚此余これを略す。三好松洛。並木千柳。長谷川千四等ハ千前軒が門人なり。竹田機関の座ハ。千前軒死後舎弟平助譲うけ。寛保三年京都にて竹田近江と受領し代々相続せしといふ
 
○ 忠臣講釈の作者近松半二ハ浪花の人にして。父ハ穗積以貫。俗称以助といひて伊藤東涯の門人にて儒者たり。半二ハ其子なるが故に文才もありしかども生質懶惰の人ゆえ。儒業を修せずして遂に浄瑠璃の作者となりける。門左衛門の養子となりて近松の氏を称ず。著せし狂言数十百種。中にも蘭奢待新田系図。姻袖鑑。本朝廿四孝。近江源氏先陣館。伊賀越道中双六。新版歌祭文。京羽二重娘雛形。関取千両幟。三日太平記。いろは蔵三組盃。心中紙屋治兵衛等。天明より今に至つて。浄瑠璃歌舞妓にもてはやし当りを取るハ。此人の筆力の余光なるべし。又独判断といへる書をも著わせり。天明七年に没す。実に作者の一見識ある人にして。当時稗史小説を編る輩も。半二に及バざる事遠しといふ。因ニ云父穂積以貫ハ能改齋と号す。著述の書唐土王代一覧。経学要字箋。世説新語補解。韻鏡反切捷径指南あり。明和六年丑八月廿一日没年七十八
 
(p166)
〇 三好松洛ハもと伊予国の産にして。松山城外の真言宗。願成寺の住僧なり。還俗して浪華(おほさか)に出。竹田千前軒の門人となり。合作の浄瑠璃に佳作多し。明和八年に作る所の妹脊山婦女庭訓の浄瑠璃本に。松洛七十六歳の作とあれバ。余程長寿せしと見へたり。此余松田和吉。文耕堂と号す。吉田冠子といふハ木偶つかひの名人。吉田文三郎の事にして是も出雲の門人となり。皆高名の作者なり
 
○ 並木宗助同丈助同永助等三人ともに浪華の人にて。浄瑠理東もの豊竹座の作者なり。宗助の作多き中に。清和源氏十五段。摂津国長柄人柱。和田合戦女舞鶴。釜淵双級巴世に名高し。寛延年間に没して遺稿(かきのこし)名残の作に。一谷嫩軍記あり。又丈助の作にハ那須与市西海硯。苅萱桑門筑紫𨏍。容競出入湊。東鑑御狩巻。摂州渡邊橋供養。八重霞浪花浜荻等なり。何れも不易の狂言となれり。就中此八重霞ハ。寛延二年巳の三月十八日。天満砂原の兄を殺せし女郎かしくが引廻しと。長堀材木屋の浜にて大工の弟子と南新やしきの女郎が情死(しんぢう)と。神崎渉場(わたしば)の喧嘩等。此三事同日なりしを。直に作して廿日に外題を出し廿六日に初日を出せし所。古今の大当りをとり。同年七月の末まで打通せしも。此三箇の咄ハ別々にて由縁かゝりもなきを。一編の狂言に著わせしハ。並木丈助の手柄といふべし。同門永助が著わせしハ。相馬太郎莩文談。天智天皇苅穂庵。岸姫松轡鑑等なり。丈助永助ハ浄瑠璃のミにあらず。歌舞妓狂言の作をもなしたり。凡て並木と称する作者ハ皆此門葉より出たり。並木翁助。並木十助。並木利助等おの〳〵門人也並木千柳宗助の事ハもと田中千柳とて享保年間ハ西澤一鳳に随ひて東物(p167)豊竹座の作者なりしが。元文寛保の頃にハ竹田出雲。小出雲と共に竹本座の作者となり。並木と改めけり。所謂東物とハ豊竹座の通号なり。西物とハ竹本座の通号なり。尤竹本座といふハ竹本義太夫の芝居なり。其初貞享二年の頃東生郡天王寺村に五郎兵衛といへる農夫ありて。生質浄瑠理を好ミ。京師の宇治加賀掾を師範とし。音節(おんふし)秘曲を学び。又井上播磨が古流を合して新風の節を工夫し。一流を立て自ら義太夫と名のる。是義太夫の開祖なり。其頃近松門左衛門といふ者。新扮戯(きやうげん)を作出せしを音節をつけ。鞠挾の中に笹の丸の紋付たる櫓幕を打て。竹本と号し戯棚(あやつり)芝居を興行し。筑後藤原の博教と受領す。元禄の末にハ竹田出雲竹本の座本となり。倍(ます〳〵)戯棚傀儡(にんぎやう)道具立に至るまで。美麗を尽して繁昌せり。是今の筑後の芝居なり。又豊竹座とハ若太夫といへる者。大坂南船場の産にして。若年より浄留理に執心にて。井上竹本等の流を学び。終に発達して名誉の太夫となる。初ハ竹本に一座せしが。後に別れて芝居を立て豊竹上野と号し。又改めて越前藤原重泰と名のり。相続して繁昌せり。是今の若太夫の芝居なり。今ハ時移り事変りて。両座ともに歌舞妓座となりたれども。原ハ竹本豊竹の戯棚芝居の座なり
 
○ 並木正三ハ道頓堀宗右衛門町に住て。高砂屋平左衛門といへる菓子屋にて。年古き町人なり若き頃より戯場を好ミ。並木宗助に入門して。歌舞妓狂言を数多著作せり。中にも名高き狂言ハ。霧太郎天狗酒醼(もり)。けいせい天羽衣。桑名屋徳藏入船話。三千世界商(やりくり)往来。日本第一和布苅神事。三拾石艠(よふね)始等なり。和布苅神事を名残の(p168)作として安永二年巳二月十七日没す。芝居の外題に自ら字を造りしハ。右三拾石艠と登舟の二字を合せて一字とせしより専ら用ゆる事となれり。一説にハ是を当字といひて。芝居にハ当るといへるを祝すといへり。二の替りの狂言にハ必らず。鐵炮の場を用ゆるも。当るを悦ぶ縁義なりとぞ
 
○ 並木五瓶といへるも同門にして。則宗助の弟子なり。天明以來の歌舞妓狂言の作者なり。初ハ吾八といひ後に五瓶と改む。著す所の戯作百部余。就中その名高きハ鍋祀貞婦競(なべまつりていぢよくらべ)。日本花赤城塩竈(はんはさくらぎあこのしほがま)。金門五山桐。袖薄播州巡(そでにつきばんしうめぐり)。帰命曲輪教[文+章](あなかしこくるハぶんしやう)。けいせい黄金鱐(こがねのしやちほこ)。けいせい忍術池(しのはずのいけ)。けいせい倭荘子。天満宮菜種御供。けいせい飛馬始(ひめはじめ)。棹歌木津川八景(さほのうたきづがははつけい)。入間詞大名賢儀(いるまことばたひみやうかたぎ)。けいせい蕗嶋台(ふきのしまだひ)。けいせい誰伏見(たれとふしみ)。平井権八吉原街(ひらいごんはちよしはらがよいh)。嶋廻戯聞書(しまめぐりうそのきゝがき)。此狂言ハ三段目までハ琉球の世界にてさして面白きことも非ざりしが四段目よりハ。今三都にて専ら出せる。五大力恋緘にて。古今珍らしき大当りを取たり。寛政六年より江戸へ趣き。彼地において春狂言一番目時代物にて。曾我の外題何とあらわし。二番目世話物にて何と外題を分て二ツにせしハ。此五瓶より始れり。寛政十一年に浪華(おほさか)へ皈り。傀儡淺妻船(いうくんあさづまぶね)。源平柱礎暦。隅田春妓女容性(すみだおんはるけいしやかたぎ)等を出して大当りをとり。享和元年再回江戸へ趣き。江戸狂言を京摂(かみがた)の風に直し。当時(そのとき)東都(ゑど)にて作者ハ初代桜田治助。京摂にてハ並木五瓶と。双べ称せらるゝ事に成たり。江戸にてハ大門通高砂町に居を構へ。淺草堂と号し。門人に風治雷治とよびしハ。浅草並木所の名也雷神門によれる戯号なるべし。文化五辰年二月二日東都にて没せり。行年六十二歳 声曲類纂に寛政八年十二月ニ没すとある誤りなり辞世も又異りいぶかし
(p169)
辞世 梅ハさく我ハ散ゆくきさらぎや 五瓶
 
江戸淺草金龍山の奥山に。五瓶の狂言墳あり。又浪華四天王寺西門前納骨堂の傍に墓碑あり。知己の人より建るところなり。一説に或人五瓶に難じて云く。奈河亀助が表題ハ字義に合へり。曲輪文章の外題に足下ハ帰命と画て穴賢とハ如何と。五瓶笑つて曰。狂言綺語とハ是を言り。戯場の外題ハ学者に見せんとにハ非ず。作者に学文の心あつて。金門五山桐と呼ばるべきか。我書ところハ芝居の外題とハいふなりと。答へけれバ彼人感じて去ると云々
 
○ 近松徳叟ハ初め徳三といひて。浪花坂町の娼家大桝屋の亭主なり。俳諧の点者とも成て俳名を雅亮といふ。幼き頃より戯場を好ミ。浄瑠理作者近松半二が門人となり。歌舞妓狂言の作者となる。其始めハ並木五瓶。辰岡萬作等と共に作せしが。寛政八九年の頃より建作者となり。著せし狂言多かる中に。伊勢音頭恋寝劒。敵討安栄録。百千烏鳴門白浪。淺草霊験記。けいせい狭妻櫛(さつまぐし)。けいせい會稽山(ゆきみるやま)。紅楓秋葉話(からにしきあきばばなし)。けいせい花山崎(はなのやまざき)。侠競廓日記(はでくらべくるはにつき)。けいせい筥伝授。柵自来也談(やゑむすひしらいやものがたり)。競(はてくらべ)かしく紅翅(のへにがき)。いろは歌誉桜花(うたほまれのめいぼく)。けいせい英艸紙(はんふささうし)。舞扇南柯話(まひあふきなんかはなし)。嶋廻月弓張等いづれも当りを取れり文化七年午八月廿三日没す
 
○ 辰岡萬作ハ浪花の嶋の内畳屋町に住り歌舞妓狂言の作者にして。寛政享和年間著述の戯作少なからず。就中けいせい楊柳桜。東海道恋関札。けいせい青陽鶽(はるのとり)。姉妹達大礎(あねいもとたてのおほきど)序徳叟二万作三徳叟四万作五徳叟録六万作右両人合作といふ艶競石川染(はでくらべいしかはぞめ)。けいせい(p170)遊山桜(あそやまざくら)。吉原細見図。遠州中山染。忠孝誉二街(ちうかうほまれのふたみち)。雪国嫁威谷(ゆきのなところよめおとしだに)。花艠淀川話(はないかだよどがはばなし)。けいせい君逢淵(あふまがふち)。浜砂続石川(はまのまさごつゝきのいしかは)。けいせい高砂松を書納として。文化六巳年九月三日没せり。辰岡萬作ハ実より花を得る。徳叟ハ花より実に入るの脚色にて此両人没してより後。かゝる作者を見ずといふ
此余昔より浄瑠理作者ハ竹田外記。中邑閏助。二歩堂。竹本三郎兵衛。近松東南。八民平七。安田蛙文。為永太郎兵衛。淺田一鳥。豊岡珍平。中村阿契。梁塵軒。豊竹応律。若竹笛躬。黒藏主。菅専助。近松柳等なり。又歌舞妓作者の始ハ。正徳の頃京師の人橘良平といへる外科の医師著述を仕始めしより。寛保享保延享の頃ハ。田木幸助。沢村文治。市山角志。為永千蝶浄瑠理作者の為永太郎兵衛弟子藤川茶谷。松本佐流。英霞鳥。長谷川伝吉。浄留理作者長谷川千四弟子也松屋久右衛門。豊田一東。宝暦の後ハ高木里仲。岡井正平。松田百花。境善平。など有といへども。一部の趣向のこらずして残念なり。中にも竹田治蔵ハ浄留理作者竹田出雲の門人秋葉権現廻船話。清水清玄六道巡。銀閣寺釿始。仮名草紙。国性爺実録等を著わし今に残れり。安永の後ハ五十五十助。為川宗助。津打亭助。筒井半二。増山太郎七春木元助。佐川藤太魚丸改名市岡和七後江戸に下禎記と改む是等ハ建作者ともならで没せしハ残念といふべし。偖亦俳優の玉助俳名梅玉金澤龍玉と作名を名のり。狂言作者を兼帯せり。後に奈河一泉が弟子奈河本助といふ者に。龍玉の名を譲りしが。此二代目の龍玉も天保十三年の春没せり
 
○大蔵永常ハ俗称十九兵衛。雅名を亀翁と号す。豊後国の産といふ。若年より浪華に出て手跡の指南を業とし。・・・(略)
(p171)(太田南畝先生之像図略)
(p172)
○ 木下長嘯子ハ若狭少将勝俊と称ず。・・・・・・(略)
(p173)
○ 夏山雑談云寺に菅公御自画の神影とて秘蔵するあり。・・・・・・(略)
(p174)
晴翁漫筆 巻之五 大尾

附 巻四 p127
○甜瓜一名甘瓜。俗に真桑瓜といふ。美濃国本巣郡真桑村より作出せる者を以て最上の瓜とす。故に総名を真桑と称す。尤真桑村より出る瓜ハ他に異にして味ひ頗る甘美なり。其形ちも上品にして小さく。凡三寸前後なり皮薄く熟せし色黄赤くすぢに金色を得たり。其熟するを採にハ先瓜の蔓を持て上にあげ。下に笊籬を受るに。熟せし瓜ハ蔕を離れて自らうけたる笊籬に堕る是を度とす。熟せざるハ落ず。又人知らざる間に地に落たるハ落子と号けて劣れる者とす。淺草より出す紫菜(あまのり)を浅草海苔と称し。他より出るも総名を浅草といふがごとし
 
真桑瓜 2005.7.23 岩国にて

※注1 江戸名物評判記一覧(中野三敏著『江戸名物評判記案内』岩波書店1985.9.20 及び 中野三敏編『江戸名物評判記集成』岩波書店 1987.6.12 所収)により補訂した。
 
※注2 摂陽奇観 巻二十七 寛保二年 紀海音死 の項でも東山殿室町合戦座敷八景が引用され、貞柳の座敷八景は紀海音の東山殿室町合戦と結びついていたようである。鈴木春信の『座鋪八景』は貞柳の座敷八景が典拠となっているが(堀川貴司『瀟湘八景』p115)、後の書籍(『狂歌机の塵』)がその典拠として挙げられている(千葉市立美術館『鈴木春信-江戸のカラリスト登場』など)。

  
春信 座鋪八景 包紙・目録より

提供者:山縣 元(2006.01.21)