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【 近松半二 独判断 】

吉永孝雄『近松半二「独判断」の翻刻に当って』羽衣学園短期大学紀要8:77-97,1971、黒木文庫本を参照した。


独判断( ひとりさバき)叙   [謖謖如勁松下風(世説賞誉)] 

近松半二的(ちかまつ[はんじ]ハ)。浪速的人(なにはの)。穂積先生児子了(ほずミせんせいの むすこなり)。自年紀後生(わかいうちより)。好了破落戸社裏勾当(のらなかまのしごとをこのミ)。住在烟巷陣裏(いろざとにすミなれ)。托地入拘欄部了(ついとしばゐのなかまいり)。仍旧会造曲本児(したぢから じやうるりつくるにより)。那社裏各一位(しばゐなかまのひと/\)。擡挙做了竹本坐的伝奇作者(とりあげ たけもとのさのじやうるりのさくしやとなす)。江湖上張揚了其名(せけんで そのなをひやうばんしらる)。大凡那舗謀定意院本数十百種(おほかたてきのもくろむじやうるり [数十百種])。筆児上夾七夾八打張了(ふでさきで なにかとりまぜ あミだす)。延[手+涯]佗戦闘的本事使看的列位打起精神掏乾了(かのきりあひのばをのべてハ けんぶつのこころをひきたて きつぱりとなし)。演那悲哀伎倆使看的各位倬涙来(かのうれいごとのばをのべてハけんぶつに なミだをながさせ)。叙這浄的本事使観的衆位翻腸一般胡蘆(かのちやりばをのべてハ けんぶつにはらをかゝえてわらはせ)。演些消魂種女旦的手段使叢人羅漢思情嫦娥相嫁(すこしのいのちとりの をんながたのしうちを のべては けんぶつにおもはぬいろをおもはせ)。如他光[手+昆]紮的幼児老大的官粧[上+小+分]的娼女児的飛絮飃花的[女+乃]々的小娘々的保児的幇間的做事(かのわかものもがり こども おやぢ ごしよふう げいこ けいせい ないぎ むすめ なかゐ たいこもち しよさ)。莫不写其真的弄出将来了(そのまことをうつし かきつらねぬはなし)。当真与門左做了一本帳筑後伝奇的老手了。(ほんにもんざとおなじこと ちくごじやうりなかまの おやだまなり)小道若季時於京師做有隣軒徒弟習学伝奇曲児(われらわかいと きみやこにおいて うりんけんのでしとなり じやうるりをならひ)。有隣物故後虚華地撤了彼曲(うりんさりてのち そぞろにじやうるりをすて)。近間做緑野居士寓在江南游聞名的染太的門(ちかごろ よすてぴととなり なはにすまゐ なだかきそめたのでしとなり)。打起旧癖学院本児音操(ふるきくせをおこし じやうるりをならふ)。只是小道一個老禿不記掛江湖上多口的譏誚(われらひとりのとしより せけんのひとのそしりをかまはず)。只顧習学了(ひたすらならひおはる)。因与那半二甜意投学只管相投(ついて かの[はんじ] とこゝろやすく ひたすらなかよし)。這箇漢子儀容上不十分招架。(このおとこ なりかたちをかまはず)小道也是一箇躱懶的(われらまた ひとりのじだらくもの)。借一歩做伴還京(ちよつとつれだち みやこにかへり)。做了弄友暫時的抛撤小道帰浪速(ともだちとなす しばしにわれをふりすて なにはにかへる)。災星臨身羅疾物故了(ふしあはせにて やまひにあひて さりぬ)。不等近松千歳的壽(ちかまつの ちとせのことぶきを またず)。被無常的風吹倒西方(むじやうのかぜに にしのかたにふきたをさる)。小道風吹児聆之了吃了一寒(われら ほのかに これをきゝ びつくりし)。倚了小几児仮寝(きよくろくに かゝり ひるねのま)。恰然鼓声鼕鼕裏隠々的抵面現丁半二(ちようど たいこのこゑどろ/\のうち まぼろしにまのあたりはんじのかたちをあらはし)。■鬚種々穿半晒夏布(びんひげぼう/\とし はんぎれのかたびらをき)。絆柳条棉束腰拿(たつじまのもめんおびをしめ)。著烟皮包旧短烟管(かはたばこいれ みじかぎせるをもち)。鼓歌一般的肝張音的[言+芻]道(つゞみうたのやうな かんばりたるこゑでしさいにのべ)。小可有一件掛念(わたしにひとつのこゝろがゝりあり)。陽生裡著生涯的安心(いつしやうのうちの おもふことをかきて)。做了一小冊子了(ひとつのほんとなしぬ)。欲示同好(おなじものずきのかたへ しめさんとおしひしに)。 当不得俄子児点鬼簿了(いかにせん えんまのちやうにつきぬ)。紀官人与小可同好会造本児(きのだんな われらとおなし ものずきにて じやうるりをつくり)。深蒙青些(ふかくおせわになりぬ)。難得二官人為小可将把小冊子去付著棗児則箇随手托庇成果得了(どふぞ ふたかた われらがため ほんをもちて はんにほりたまハヾ おかげてじやうぶつせん)。言畢也著了常套鼕々裏消了(いひおハりて またおさだまりの どろ/\のうちにきえうせぬ)。小道因与(われら このわけで)。紀上太商量了付了梓(きのじやうたらうとさうだんし はんにほらせ)。普示江湖上的同好追薦法事言爾(あまねくせけんのおなしともだちにしめし ついぜんのはうじとなす)

           

于時(ときに)天明丁未十月上浣(じやうくはん)伝法(でんばう)門人平安疎懶堂(そらんだう)仙人(せんにん)向十万億土的彼些聊振粋哩(じふまんおくどのあなたにむかつて すいをふるふに)

  [芝蘭玉鼓]  [赤岸山人]

 

近松半二誌

 我等元来生れ付たる不器用(きよう)者にて、何を稽(けい)古して見ても埒明ず。其癖(くせ)、根(こん)よはくして二三日の中に退屈(たいくつ)して捨(すて)て仕舞ふ故、是まで何一つおぼへたることなし。所詮いかぬ事と観念(くはんねん)して、それより一向人に物習ふ事をやめて、何事も我胸(むね)一つで得手勝手の了簡を付て、人は何と言はふとまゝよ、こちのは、かうじやと自身に済して仕舞ふ一分了簡なれば、人に言ふ事もなけれども、さびしきまゝにおもふ事を書付け置こと左の如し。

(も)し人吾(われ)に問ふて世界に神仏といふ物有ものか無い物かと言はば、誠に有もの也と答ふ。其又誠にあるといふ証拠はいかにと問はば、所々方々に宮々有り、寺々あり、木に彫(きざ)み銅(かね)に鋳(い)たる仏あり。是神仏あるにあらずや。若しその誠の神体(しんたい)仏体と言ふ物有りやと問はば、それは有やら無やら、こちは知らぬなり。是我等が知らぬ斗ならず、聖(せい)人といふ物は人間の中の智恵のつかさなれども、其聖人もしらぬ事なり。知らぬ証拠は唐(から)の大聖人孔子と云人あり。其弟子(でし)の子路(しろ)といふ者神に事(つかへ)る仕やうはいかにと問へば、孔子申さるゝは我いまだ人に奉公する道(みち)さへ、とくとは手に入らず。まして神に事(つかへ)ることは我力にもあたはずと答へらる。亦死て先(さき)はどふ成る物ぞと問へば我等まだ生(いき)て居る間の事さへ、とくとは知らず。まして死ての後(のち)のことは一向知らずと答へられたり。是を孔子贔屓(ひいき)の人の評判には、孔子は天地に通ずる聖人なれば、是式の事はよく知て居玉へども、子路に言ふて聞しても、とても合点の行ぬ事ゆへ、わざと教(おしへ)玉はぬなりなどと言へども、知て居る事を知らぬと言は嘘(うそ)つき也。孔子は嘘つかぬ人なれば、やはり実に知らぬ事故、知らぬと言はれたるなるべし。」或人又難(なん)じて曰孔子は生民始ってより跡にも前にも無い程の聖人なるに、人に奉公するすべも知らず、生て居る中の事さへ知らぬとの玉ふは、是も嘘では有まいかといふ。されば嘘といふと卑下(ひげ)と言ふとの違ひあり。是は卑下の言(ことば)也。管仲(くはんちう)を仁者と誉(ほめ)て、自身を仁者と言はぬにて知るべし。孔子兼(かね)ての語(ことば)に、人に忠信(まこと)を尽(つく)す事は我におとらぬもの―在所の中にも沢山(たくさん)に有ふが、学問を好む者は凡我に勝(まさ)る者は有まいと申されたり。孔子ほどの聖人なれば最早学問は入そもないものなれども、天下の道理は限りのないものに」て、何程の聖人でも知り尽されぬことなり。さればこそ周公(こう)といふ聖人も過あり。孔子の心には、まだ此様な事では物知りといふものではないと、一生学問を捨ず修行(しゆぎやう)めさるゝゆへ、人の目には聖人と見ゆれども、自身は中々聖人などは此方ごときの及事ではなしと申されたり。又人に事(つかへ)るとは主人に奉公する斗でなし。親に事るも友達に付合ふも国の守(かみ)が民百性をあしらふも皆奉公する気でなければならぬことゆへ、今日人に事ることを知れば生(いき)て居る中(うち)の事は済(すむ)也。それを孔子の心にもふ是でよいとは思はれぬ故、押はなして知つた」とは申されぬ。爰が聖人の聖人たる所也。此目に見へたる世上の事さへ知り尽されぬことなるに、まして目に見へぬ神の事や、死(しん)で先の事は聖人も実にしらぬ事なり。それゆへ鬼神(きしん)は随分(ずいぶん)(うやま)ふて遠ざけるを智恵者と言ふ也。すべて人の死したるを祭(まつ)って鬼(き)と名づけ、又天地の間、山には山の霊(れい)あり、川には川の霊ありとて、是を祭って神といふ。是も霊が有やら無やら見た事はなけれども、先昔から有として祭てあることゆへ、敬(うやまふ)にしくはなき也。それを無いものにして軽(かろん)ずるは垣破(かきやぶり)無法(むほう)もの也。又胡淑(こしやう)丸呑(まるのみ)」に信心して福徳を祈るは愚人なり。高は知れぬと言より外の事なし。孔子子路におしへて曰、知を知とせよ。知らざるを知らずとせよ。是知るなりといふ心は、今日知らねばならぬ人倫の道は随分と詮義して知るがよし。なんぼ吟味しても所詮しれぬことは知らぬにして捨て置が誠のもの知と言ふものじやとの事也。昔、楚南公と言ふ人、蕭寥子雲に問ふて曰、天地の際は有るか無いか。子雲答て曰、聖人は天地の中のことは言へども、天地の外の事は言はず。楚南公笑ふて曰、聖人が言はぬと言へぱ、知て言はぬ様なれども、実は聖人も知らぬ」であるべし。手よう知らぬといへはよけれども、言はぬといふは負(まけ)おしみなりと一口に打込しは尤かな。今つく/\と案じて見るに、此天地はいつ開きし物ぞ。漢の司馬遷(しばせん)といふ馬鹿者(ばかもの)天皇氏地皇氏などと知れもせぬ者を書ならべて、是を天地開闢(かいびやく)の始とすれども、一つも証拠はなし。よし亦其様な人が有たにもせよ、其開闢よりまた前か無ては叶はず。邵康節(せうかうせつ)といふ唐の事触(ことふれ)が十二万九千六百年に天地一度改まると言ひ、経(きやう)には釈尊(しやくそん)より九十六億(おく)七千万歳後に地火(ちくは)(おこ)りて 焼尽(やけつく)すといふ。それより」未勒出世(しゆつせ)、三会の暁是也。或は仙境の赤縣(せきけん)九州三十三天三千六千世界(かい)などと言へども、其三千世界の外にまた世界がなければ叶はぬ理也。さらば又開闢もなし、 世界の際(はて)も無しといふ時はすべての物に始終(はじめおはり)の無い物はないに、天地斗(ばかり)(はて)か無ふては是も又ばつとしてつまらぬ物也。これを案じて居よふならば、気のかた病(やみ)に成ふより外はなし。いつまでも、とんと知れぬ事也。それゆへ孔子は尭舜(ぎやうしゆん)より後のことを述て、其前は伏義(ふつぎ)とも神農(しんのう)とも、ついに孔子の口から言はれた事なし。是尭舜より後は上(かみ)に史官(しくはん)とて」物書の役人有て其時々の事を書記(しる)し置しゆへ、書経(しよきやう)といふ書物(もつ)有て証拠正しき故也。書経さへ武成の篇(まき)は二三策(まい)を取用(もちゆ)ると孟子は言へり。然レども先は書経は証拠に成べし。尤尭舜より己前に農作(のうさく)を教(おしへ)たり、薬を呑おぼへたり、衣類を織(おる)事を思ひ付たる人は誰ぞありつらんなれども、伏義神農黄帝と言伝へた斗で、有ったやら無いやら証拠なし。三墳(ふん)といふ書も有れども、是も後世の拵(こしら)へもの也。素問といふ医書に、黄帝の語(こと)あれども、是全周(しう)の末(すへ)、戦国の間に巫医(ふい)の輩(ともがら)黄帝の名を借(か)つて俗の」信仰(しんかう)する様に拵へたる素問内経(ないきやう)取るに足らず。其文(ぶん)の体(てい)、書経などとは違ふて古体ならざるを見ても知べし。其時分の事さへ知ぬ事なるに、天地の始つた所、其始つた時の人がいまだに生て居て言ふたらば誠ともいふべし。誰か見て誰か言伝へたる事ぞや。吾日本神道の事は唐の鬼神などとは格別(かくべつ)の事にて、我々匹夫(ひつぷ)の口にかけて申も恐多き御事ながら、先一通り神代之巻を拝見すれば、伊弉諾、伊弉冊の二神をぞ国の始とも思はれぬれども、日本とても同じ世界の中なれば日本の開闢が知るれば、唐の開闢も知る筈也。但し軽(かろ)く清(すめ)るは天と為(な)り」重(おも)く濁るは地と為(なる)とは開闢のことではなし。是は唐も日本も同じく一元気(げんき)の廻(めぐ)る所を言ふたる物也。天地の始る所はいさ知らず、其軽きは升(のぼ)り、重(おも)きは降(くだ)るは今におゐてその通にて、一元気が絶(た)へず升(のぼ)り降(くだ)りして居るもの也。是を大極(きよく)といふは何故ぞ。極は本屋(もといえ)の棟(むね)の名(な)なり。凡天地の間、森羅万像(しんらばんぞう)、此一元気から生(しやう)ぜぬと言事なく、世界は此一元気一つで持て居るゆへ、屋の棟にたとへて大極といふ。日本にて国常(とこ)立尊(みこと)と申も此国のいつ始るとも知れず、常住(ぢう)立て有る此一元気を申す事也と聞はつりしが、いか様、旧(く)」事記、古事記、日本紀の作者の心も孔子の尭舜より後を説れし心と同じく諾冊(きみ)の二神より己前幾(いく)億万年有る事やら知ぬ所を一元気の国常立にて断(ことはり)たる物ならんか。兎角孔子流の教へは目に見へた現銀(げんきん)な事より外は言はい事也。生て居る心の事は説とも死ての後の魂(たましい)の事はついに言はれた事なし。鬼神は中庸(よう)に有る通り視(み)れども見へず、聴(き)けども聞へず、神(しん)の格(きたる)(はか)るべからずとて神を祭って神が来り玉ふや来り玉はいや測(はかり)知れぬ不思義なる物なれば随分敬はねばならぬ物とはいうて有れども、又其鬼に非ずして祭るは諂(へつらい)也とて我先祖の」鬼でもない余所の先祖を祭るは鬼神に諂ふとて孔子が呵(しかり)し事なり。易は本(もと)(うらない)の書物なれども、孔子は易の道理を今日の人の身持の事に引直して占のことには用ひず。論語に不占(うらなはず)而己(のみ)と言へり。一切今日の外の事は孔子の門では言はい事也。併し天地の始終の知れぬ事をおもへば、誠に世界は浮ものにて、どふした操(からくり)で日輪といふものが出たり引こんだりする事やら、何で星が沢山にある事やら一つも訳の立(たつ)た事はない物。爰(ここ)を思へば鬼神は勿論、化ものも天狗も有まいとは言はれず。荘子(そうし)が、蝶(てう)の夢(ゆめ)を見たのか、蝶が荘子の夢を見て居るのかと紛」はしう言へば言はれる筈也。爰の所は所詮人間の知恵では知れぬ事。成程無量(むりやう)無辺(むへん)那由多(なゆた)阿曽祇劫(あそきがう)(いき)通しにして居る仏といふ和郎(わろ)が知って居ねば此仕舞は付かぬなるべし。阿弥陀仏を無量寿覚(じゆかく)と釈(やく)して法蔵(ぞう)菩薩(ぼさつ)の時より衆生(しじやう)済度(さいど)の事を御工夫なされた間さへ五劫兆載(ごかうてうさい)とあれば、いかにも文字のごとく量(はか)り無き寿命の仏也。如来といふも無始(むし)己来生れもせず死もせず、億万劫の昔も億万劫の後も替らず此の如く在来り玉ふとの事なるべし。法華経の寿量品(じゆりやうぼん)に釈迦如来が弟子の諸菩薩に告(つげ)ての給ふ、我成仏して己来今まで行めぐる世界」の数(かず)年数(ねんすう)無量無辺百千万慥那由多阿曽祇劫と云々。那由多は万億と云事と見へたり。劫といふは四十里四方の谷に一ぱい詰(つめ)たる芥子粒(けしつぶ)の数を一劫といふよし、此数を十弄盤(そろばん)で積(つも)つて見ようと思へば幅四十里底も四十里の谷を掘(ほつ)て其中へ芥子を一杯(ぱい)つめてそれを一粒づゝ読(よん)で見れば知れる事なれども、其様な大造(そう)な事を仕て見るあほうもなければ、一向知れぬ事を言(いう)た物也。阿曽祇といふも無数とて算(かぞ)へるともかぞへられぬ方量(はうりやう)もなき数(かず)也。爰でみれば釈尊仏(ほとけ)に成(なり)玉ひてよりは誠に無量の年数其間に」lあそこ爰でいろいろと名を替(かへ)て幾度(いくたび)も滅(めつ)して、わざと死で見せては又顕(あらは)レ玉ふ。是方便なり。なぜなれば仏が常住(じやうぢう)(そば)に居る様に見せては衆生が沢山に思ふて誠の信心が出ぬ故わざと死だ真似して見せた物じゃと寿量品(じゆりやうぼん)に説(とき)玉へり。釈尊浄飯(じやうばん)王の后(きさき)の腹より生れ玉ふと直に立て右の手を上て、天上天下唯我独尊(ゆいがどくそん)との玉ふ由、今時生れ子が加様の事を言はば化もの也とて擲(たゝ)き殺(ころ)すべし。是は釈尊の心の中にての玉ひしならん。我土(と)衆生は無明(めう)十気の雲霧(くもきり)に覆(おゝ)はれ、我前生も得知らず、釈尊は右の通り、幾億万劫を歴(ふ)る仏の仮(かり)の」方便に后の腹にやどり来り玉ふ物なれば、形(かたち)は赤子でも心は三身(しん)(そく)一神通の仏体なり。生れてほぎやあとの玉ふより、あまへ声にて物をの玉ふもわざと子供の真似をし玉ふ。皆狂言なり。併しそれ程の釈加如来が阿羅々仙人などに事へて難行(なんぎやう)苦行の修行は入そもない物じやとの不審あり。そこで又ある経の説に人死して中有の魂の間は前生の事を覚て居れども、胎内にやどり生れる時に子返(かへ)りする時の苦しみにて忘れて仕廻ふなり。釈尊は凡人ならねば生れても忘れ玉はず。七歩(あゆみ)あゆみ物をの玉ひしが、此世界の悪風が身にしみ、やがて倒れ玉ひて気を取失ひ」て忘れ玉ふ。元衆生済度の為に此閻浮提(ゑんぶだい)へ出現有りし応身仏(おうしんぶつ)なれども、やゝもすれば仏体を忘れ玉ふを忘れさせまいと[火+儿](くはう)音天などがいろ/\と世話をやかるゝ其力にて三明六神通を得玉ふと也。扨又凡夫にも輪(りん)廻といふ事有て死で再び生れ替るといふゆへ我/\も此一生こそ賎けれ、今度は大名に生れて来たいなどと願ふ。是大な了簡違ひ也。なぜといふに、たとへば何兵衛といふ百姓が今度国の守に生れ替つても、其以前の何兵衛の時の事を覚て居ればよけれども、我前生が牛で有たか馬で有つたか、とんと覚へぬからは此後何に生れ替て来ても今の何兵衛の事は忘れて仕廻ふて覚」ぬ時は、たとへ其再来でも余所の人と同じ事言はゞ、中風病の痿(しび)れた足は我体(からだ)でも痛(いた)うも痒(かゆ)うもない様な物で、何の益に立ぬ事也。時に彼仏様は識宿命通(しきしゆくめいつう)の通力にて八万劫無量劫の事をよく記(おぼ)へて居玉へども、凡夫の身分では行ぬ事也。其凡夫も仏に成た時は夢の覚さる如くに、あらゆる事ども一時に合点の行(ゆく)事のよし。此又仏に成ふと思へば我と我身を科(とが)人を責る様にする事也。衆生の躾は百八煩悩(ぼんのう)でかたまつたる物なれば、身口意の三業を戒律(かいりつ)にて縛(しば)りからめ先(まづ)酒は悪行の根本、五辛(しん)は婬欲(いんよく)を起(おこ)すとていましめ、 食事(しよくじ)も一日に一度、それも日昼(ニツちう)過ると時に非ずとて喰(くう)ふ事ならず。虫を殺さぬ様に、水さへ水嚢(のう)に漉(こ)して飲(の)む。意(こゝろ)に貧嗔癡(とんしんち)の三毒(どく)有りとて、密法(みつぽう)三摩地に心を定め、夏(げ)の中は大小便の外立事ならず結跏趺坐(けつかふざ)して観法に智恵をみがけとし、またいろ/\の障(さは)り有。是も三界にて品分(しなわか)れ、見思(けんし)の惑(まどひ)に五下五上の分あり。那含羅漢四果(がんらかんしくは)の衆はだん/\煩悩去って過去(くはこ)の事を記する通(つう)を得(う)る。皆仏の雛子達(ひよこたち)。是にも三乗(じやう)の品有りて声聞は四諦(たい)の法門に折空(せつくう)の理を観じ、三生六十劫の間七賢(けん)七聖(せい)の位を歴(へ)、縁覚(えんかく)は四生百劫の間十二因縁(いんゑん)を観じ、菩薩三祇(き)百六劫の間、六度の行を修すと」云へり。此衆が是ほどの因縁修行で、だうやらかふやら実報土(じつはうど)の主(あるじ)、圃満報身(えんまんはうしん)の如来と云ふ物に成事也。されども此衆は昔より仏に成株(かぶ)の有衆也。尤我等衆生も仏性をうけて来たとは聞て居れども、無始より以来迷ひに迷ふて其仏性はどこへ質(しち)に入て有やら今は株なしの我々、いか程に修行しても五百羅漢の足元へ寄(よ)る按摩(あんま)取にも所詮ならぬ事、兎角(とかく)世界の事はどうしても知れぬといふがいつち慥(たしか)なり。但(タダシ)経に書てある事を真受(まうけ)にすれば此しれぬことを釈迦といふ仏様が知て居玉ふと思ふて済す物か。又は悪る気を廻はして見れば此釈迦どのもやつぱり同じ人間にて世界の事をだう思案して見ても知れぬ故知れぬといふては仕廻が付かぬゆへ、せう事なしに人間の外に仏といふ物を拵へ四土の三界の或は須(しゆ)(み)の四州などゝさま/\の広大(かうだい)なる事を説(とい)て置かれたる物か。此後いかなる智者が出ても此二つより外は有まじ。万巻の書を学ても知れぬ事なれば、たとへ聖人に成つても一文不通の我/\もつまる所は同じ事、学問して気を鬱(うつ)するだけが損(そん)、一向あたまから何にも知れぬ方が益(まし)、又知れもせぬ経文を信仰して銭一文でも費(つい)やすは眼前(がんぜん)の損也。神にも仏にもよらず、さはらず只商人ならは商ひ、百姓ならば農作(のうさく)の世渡を精出して、喰(くい)たい物喰ふて死るが」末代までの徳と知るべし。必もの知りに成玉ふな。

仏法天竺より渡りて後いろ/\の仏者出て諸宗さま/\有る中に唐土(もろこし)の善導(ぜんどう)大師と日本の法然(ほうねん)上人ほど発明(はつめい)なる人は有まじと覚ゆる也。其ゆへは右言ふごとく天竺釈迦の有難は人間の外に仏といふ物を拵へて世界の済マぬ事どもを何もかも是に預(あづ)けて置く掃(はき)だめをこしらへたる。爰が釈迦如来の発明なる所也。然レども根(ね)が証拠(しやうこ)のない事を説広げたる物ゆへ空仮中(くうかちう)と立て衆生は此仮りの世界を有と見る。是惑なり。又空(くう)に偏るも塵砂(じんしや)の惑(まどひ)といふ。実の所は有てなく空でなく其中道の処を悟るが正覚(しやうかく)を得たる仏也といふけれども全体が」世を捨る法なれば真と仮とを論ずれば無は真(まこと)也。有は仮(かり)也。我身を諸苦(くるしみ)の本(もと)として寂滅(じやくめつ)を楽とすれば詰(つま)る所は空(くう)に落(おち)、無(む)に落るなり。予按ずるに無といふが悟(さとり)の至極也。仁斉の語孟字義に世界は万億の昔も万億の後もやはり此通の物にて開闢も終もなしと言へり。或人難じて曰開闢有といふに証拠無ければ開闢無しといふにも証拠なし。然ればきつと無いとも言はれまいと。仁斉答へて、されは是はどの様に詮議しても知れぬ事也。いつ迄も知レぬからは無いと言はふより外はなしと申されたり。是が偽りも飾(かざ)りもなき正真(じん)の所也。釈迦も爰を知て居玉ふゆへ我成仏以来」無量無辺那由多阿曽祇劫とて量(はかり)無く辺(はて)無しとの玉ふ。是則仁斉の云はれし所と同じく、だう詮議しても知れねば量無く辺無き也。畢竟(ひつきやう)(む)といふは知れぬといふ事なり。大昔の事を無始(むし)と言て文字には始無(はじめな)しと書て人口を開けば阿といふて、阿は物の始なるに、経には阿字本不生とて阿の字を無生の義と説く。是老荘の書に無名は天地の始といひ、又は始有て始無し。始メなしといふ物も無し荘子がいふた様な物也。佛阿難(あなん)に告(つげ)ての玉ふ。我昔文殊師利と有無の二諦(たい)を論(ろん)じてより死して三途に堕(お)ち、無量劫を歴(へ)て地獄より出迦葉仏に値(あ)ふて」有無の二諦の事を尋ねければ迦葉仏の玉ふは汝此体を有といひ無とひふ。それが則迷ひ也。一切諸法(しよはう)は定法無し。万法皆悉空寂、有に非らず、無にあらず。実体(じつたい)不思儀(ふしぎ)と答て其跡は語(ことば)無し。然れば此有無二つは釈迦如来も合点が行かず、殊の外難義なされし事を自身に云ふて置れし也。いか様有にもあらず、無にもあらずといふ時は宙(ちう)に帰りてやつぱり空(くう)なり。此跡は最早知れぬ事ならん。智論の中に可得(かとく)の願とは願へばきつと叶ふ願のことなり。不可得(ふかとく)の願(ぐはん)とは、いか程願ふても所詮叶はぬ願のこと也。たとへば地を掘(ほつ)て水を求(もと)め石を鑽(きり)て火を出そふと思ふ。是らは願へば」必叶ふ願なりと言り。夫なれば経の力でも仏の智恵でも知れぬ事はやつぱり知れぬ也。惣じて老荘仏の説(せつ)は目に見へぬ空なる所を説たる物ゆへ条(すじ)の通つた事は一つも無く行詰つた所では止(やみ)なん/\不可説とて其所は口では言はれぬ所じやとよい加減に逃げて有所経の中に多く有る事なり。不立文字(ふりうもんじ)の悟(さと)りを以て禅宗(ぜんしう)が出ほうだいに人をおどしても、どの様に高上(かうしやう)にいふても畢竟(ひつきやう)が空なり、無也。いつ迄座禅(ざぜん)工夫(くふう)しても気違(きちがい)に成がとりゑで、ついに本来(ほんらい)の面目(めんもく)の開けるといふ期は無い事也。律宗(りつしう)が釈迦(しやか)の行を学(まなび)て二百五十戒(かい)をたもつ。是も五人と三人とは此行も出来れども、世界中の人を皆此通りに」せうといふ事は成まじ。先夫婦の交は煩悩の第一なれば是を絶(たゝ)ねば仏法の本意ではなけれども男女の交(まじはり)は虫螻(むしけら)に至るまで生れついたる事なるを世界一まいに是を絶事一向出来ぬ事なり。もし又世界の人残らず男女の道を絶(たた)ば子を生といふ事もなく世界に人種はたへて仕舞ふべし。真実(しんじつ)禅律(ぜんりつ)を修行すれば、此穢土をはなれて首くゝりてなりと早ふ死ふより外はなし。此きたない穢土(ゑど)に住て居る中はとても佛法の教の様には成らぬものゆへ、出家といへども寺の内の格式(かくしき)は在(ざい)(け)に少しも違はず下男を遣へば半季何程と給銀(きうきん)を極める。飲酒戒と言へども酒も」呑(のま)ねば檀方(だんはう)と付合が出来ず。六十日の勘定(かんじやう)が合ねば寺が相続せぬゆへ、十弄盤に隙なく座禅工夫所ではなし。日本には僧官(くはん)僧位ありて何僧正、何法印などと禁裏(きんり)より官位を玉はる。是も仏法の本意は山林へ引籠り、頭陀(ずだ)乞食を業(ぎやう)とするそれには大に相違したる事也。又俗家(ぞくや)にも位牌に戒名(かいめう)を書(かい)て年忌を吊ふ。此位牌と言もの佛法には無事にて、是は儒者(じゆしや)の神主(しんしゆ)といふ物が佛法者に移(うつ)りたる也。儒者の教へは仏法とは裏(うら)はらにて我親たる者死でもやはり生て居る様に敬い、神主に諡号(おくりがう)を記(しる)し、祠堂に祭り置。命日の一年めを小祥と名付て一門寄合ひ祭る事あり。三年めを」大祥(たいしやう)とて祭る事也。佛法の本意にはか様の事は無き事なり。又服(ふく)といふは親類(しんるい)の死したる喪(も)の中は悲(かなし)みの情(じやう)を姿(すがた)に顕はして、常に替りて麁服(そふく)を着る。聖人の教なり。日本神道には穢(けがれ)を忌(い)むゆへ、此麁服を着(き)る喪の中は神事にたづさはる事を忌故、服忌(ふくき)といふ也。仏法の年忌(ねんき)を吊(とむら)ふと言は彼儒者の方の小祥大祥の祭の礼が仏法へ移(うつり)たるにて忌と云名は神道が移りたるなり。誠の仏の悟(さと)りには親にも妻子にも執着(しうちやく)せぬを本意とすれば、焼(やく)な、埋(うづ)むな、野(の)に捨よにて魂は土を去レば親も兄弟も他人も犬も猫も皆一体、何の着(ちやく)する所あらんなれども、それ」では一向世間が済まぬゆへ、仏法にもいつともなふ儒者の礼が移(うつり)て儒意と仏道と神道とまぜこぜに成たる物也。唐(たう)の代(よ)に大原(げん)といふ地に仏法甚はやりて親兄弟の死したるを葬(ほうむ)らず、屍(しかばね)を犬(いぬ)にあたへて喰するゆへ其地の犬は人に喰付く事習はしと成次第にか様の事つのりて政道の害になるゆへ、韓退之(かんたいし)欧陽永叔(おうようゑいしゆく)などゝいふ儒者が仏法を邪説(じやせつ)也とて悪(にく)みたる事也。誠にか様に成ては天下国家の大害なり。法然上人爰をよく知って諸経の説、諸宗の論を放下(はうげ)し難行(なんぎやう)を捨(すて)て易行を用ひ南無阿弥陀仏の称名一っで済む様に教へられしは発明の至極と言べし。成」ほど仏法を余り深く修行すれば、いやとも山林へ引込体を犬にあたへる様に成。其様になると世の乱に成事眼前也。兎角人の深う仏法に入らぬ様に身力を禁しめ只今日めい/\の家(か)(ぎやう)を大事に勤(つとめ)て其間に阿弥陀如来をお頼申て置さへすれば、あなたが極楽といふ結構な所へやつて下さる程に自身にこしやくを出すな。経もよむな。戒もたつなとの教へ、渡世なれば漁夫(りやうし)が鰯網(いはしあみ)引くも念仏申せば罪にならずに小むつかしい戒定慧(かいじやうゑ)の三学する事も入らず。いかにも世界は文(もん)盲片言(かたこと)で済んだ事也。彼極楽へ往(ゆ)くと百味の食(じき)を給はるといふ。是も仏説に段」触思識(ししき)の四食(しよく)とて此人界(かい)の人は五穀(こく)魚肉(ぎよにく)などを食とすれども色界(しきかい)無色界(しきかい)には我六根(こん)を機(はたら)かする識(しき)といふ物を食とする。或は地獄には業苦を食とするといふ。此理を以て見れば極楽往生の人は如来の無上菩提(ぼだい)の法味(はうみ)を食(じき)として長く楽といふ事なるべし。それを心得違て念仏の徳(とく)で往生すれば極楽の虎屋(とらや)から毎日羊羹(やうかん)でもつゞける様に思ふて居る人も有り。又世に云ふ鬼(おに)といふ物有り。鬼とは死人の事なれば諸の迷ひに鬼が責(せめ)られるといふ事を地獄で鬼が責めると間違ふて居る人あり。精進(しやうじん)と潔斎(けつさい)とを取違へて肴喰はぬ事を精進と心得、天竺と云へば空(そら)の」事と思ひ欠落する事をしゆつほくと覚て居る人も南無阿弥陀仏さへ申せば極楽へ行と安心する。是では今日人倫の道は道で立て、政道の害になる事微塵(みぢん)もなし。此通りなれば儒者も神道者も仏法を悪ふ云はふ様は根から無い事、どこもかも中かよふて是ほどよふした宗旨はなし。爰で見れば法然上人は釈迦よりは、やつと発明なる祖師(そし)也。右言如く仏法の実の所は無の一字にて根が何やら知れぬ事を数(す)千巻に説広(ときひろ)げたる物ゆへ経/\に説く所度々に違ふて、どこが実やら、どこが方便やら、つかまへ所のない様に仕たる経の面、其中のいつち心安所を教へるが浄土宗也。其後に日蓮」が出られて題目(だいもく)の徳で往生すると説れたる。是は念仏を先へ仕て取られて負(まけ)おしみに題目とぬけたるものなり。併此日蓮宗にはまた自力(じりき)が有つて悪し。只一筋に念仏にて死んだ先はよい所へ行と思ふて一生を安心すべし。浄土の教の如くに説けば仏法は今日の害にならぬ斗ならず、大に世界の為に成る事也。なぜと言に今日同じ人間にて大名の家に生るゝも有り、非人乞食の子と生るゝもあり。それをめい/\足る事を知つて天も人も怨(うら)みぬは聖人賢者ならでは無し。凡人は必身をうらみ、人をそねみ、悪心生ずるは人情也。所を過去の宿業(しゆくごう)といふ所で明きらめが付所悪心」起らす面々、身の分際(ぶんさい)を守る時は天下泰平の基(もとい)にあらずや。唐土にて仏法ゆへに世の乱れたるは無理に仏法の理を知らふとするから也。さらば知りおほせた所が根が空なる事なれば修行すればするほど、まつくろに成て一生迷ふて死る事、たとへば傾城(けいせい)になづみて色町へ入こみ、粋(すい)に成ふ/\と深う入れば入る程商(あきなひ)も手につかず、身上(しんしやう)(たゝ)き上ケた所ではやつぱり野暮(やぼ)と同じ事。それよりはどの傾城にも凝(こ)らず、一座流(ながれ)にさつと一つ飲んで気を発(はつ)して帰れば、身上もいがまず、養生にも成る。是がほんの粋といふ物なり。仏法も其如く深う釈迦の廓(くるは)へ踏込(こま)ず、只上かは一通りの南無阿弥陀仏也」と法蓮花経なりと唱(とな)へるに、格別(かくべつ)腹もへらず、時々寺へ布施(ふせ)取られるは付合に紋日くゝりつけられたと明らめれば済なり。是も大悟道(こどう)発明(はつめい)釈尊爰(こゝ)に現(あら)はれ、我詞を聞玉はば善哉(よいかな)/\と讃歎(さんたん)し玉ふべし。南無阿弥陀佛/\。」

近松半二遺艸跋 ※注

さいつ頃或(ある)偏屈者(へんくつもの)半二にあふて浄留理文句のうち不分明(ふふんみやう)の事かつ古語故実(こごこじつ)の謬(あやまり)を正(たゞ)して難問(なんもん)す。半二が曰、堂上(たうしやう)の事を実にしらば有職者(ゆうしよくしや)となるべく、弓箭(きうせん)の故実(こじつ)を知らば軍学者(ぐんがくしや)となるべし。佛教(ぶつきやう)を覚悟(かくご)せば大和尚(だいおしやう)なるべく、聖経(せいぎやう)記典(きてん)を」記憶(きおく)せバ直(ぢき)に博識(はくしき)の儒(しゆ)なるべし。菅丞相(かんしやう/”\)の事も楠正成の事も丸のみに似つこらしく書て聞たほどの語(ご)を奥(おく)(ふか)げにつばなかし、和哥管絃(くはんげん)よりよろづの道何ひとつ正しく覚へたことなく、聞とり法問(ばうもん)、耳学問(ミゝがくもん)、根気(こんき)をつめてもの学ぶことのならぬ自堕落(しだらく)ものが則作者となるなりと答(こた)へしかば、くちをつぐみて退(しりぞき)しと予にかたりて笑ふ。又兼て思ふは遠からず頭(かしら)おろして市町(いちまち)を頭陀(ずだ)」托鉢(たくはつ)し浄土の門には南無阿みだ佛、禅家(せんけ)にハ禅語(ぜんご)をちらつかせ、真言宗(しんごんしう)にハ陀羅尼(だらに)のやうなことをつぶやき、律僧(りつさう)にハむしもころさぬ顔(かほ)で付あひ、日蓮(にちれん)宗にはだゞ/\/\一向宗にはあゝ/\と斗にて、かれにもよらず、是にもよらず、さまよひありきて世を終(おハ)らんと語りしが、その詞の高調子(たかでうし)も今に耳(みゝ)にのこりぬ。かの役行者(えんのきやうじや)大峯桜の序(じよ)なん、かれがふでの」たて始(はじめ)なりしとか。夫よりして年々歳々(ねん/\さい/\)作意(さくゐ)の新(あた)らしき、文句の麗(うるハ)しき、貴(たつと)き雲井の大和詞、あやしき賎(しづ)の淡路(あはぢ)せんぼう、源語勢語(せいご)のみやびやか、馬士(まご)雲助(くもすけ)のぶり、坂東はやり詞粋ことば、仙台(せんだい)なまり薩摩訛(さつまなまり)、魚(うを)屋の符帳(ふてう)、乞食のさんせうまで、あまさずのこさずふでにいはせ、一箇(いつこ)の趣向(しゆかう)を五段にひろげ、数年(すねん)の事実(じじつ)を一チ日につゞむ。鳴呼(あゝ)作者の道至(いた)れる哉。」

春は春日野小町に姫小松ひく頃より、風になびく青柳硯、妹背(いもせ)山の花にこがれて、愛護(あいご)の寺の鐘に入相さくらの散るを惜(を)しミ、夏ハ妻乞する紙次(かミじ)小春が門(かど)涼ミ娘扇のかぜすゞしき夕暮、秋ハ蘭奢待(らんじやたい)薫物(たきもの)(ひめ)祭る七夕おどりの哥祭文(うたざいもん)、近江源氏に石山の月見るより、菊水(きくすい)のながれにあそび、凱陣紅葉(かいぢんもみぢ)に酔(えひ)をすゝめ、冬ハ安達原(あたちがはら)の」雪に廿四孝を思ひやり、あるは蛭小嶋(ひるがこじま)に至りては古戦場(こせんしやう)の昔を忍ふまで、皆おりにふれたるなごりなるへし。

天明七丁未のとし
初冬
同好友
紀上太郎述

       (上半陰刻) [嘉栗] (下半白)」

 

半二遺艸跋

隠居放言古有之而於近世也近松半二或其人也歟。頃得其遺草而読之。旁[石+蒲+寸]老佛別抉神儒詞弁注射殆乎透札破的至理所寓使人不覚撃」節焉。嗟哉予也猶及乎観望其父穂積翁風猷斯父何其神宇之相肖也但隠居放言転混演和墜在蝙蝠隊中而不屑去焉。以故世人率以之偸懶牟知之徒不便宜歯於邨校蒙師抑亦皮」相耳。方今坐皐皮談詩書者退而省其私行不掩言比々而然猶之生旦登場也皆是義士節婦戯罷則故優者也蓋其與獲宰乎名数寧玩世於梨園是半二之素志也。若夫略玄」黄取神駿乎隠居放言戯於何有故予九方[西+土+欠]於半二雖醜不辞焉

浪速 栗齋誌
隴陽書  [純子]  (陰刻)」

 

弘法は刻ある毎に面影の同じからず。関帝ハ見ぬもろこし人なからも画かけハ筆にたも約束ありてや、おもてを画かけば、はや夫そともしれり。是等は推量垂跡のすいなれと当時信すれハ猶倶に粋とも変化す。前に享保九の霜降月門左衛門自平安堂菓林子と號けへ残れとはおもふもおろか埋火のけぬまあたなる」朽木かきしてといひ遺せるを期となすよし。生涯武林を出て一たひ浮屠に入、それをも亦捨て浄瑠璃の作者と成て名誉とももてはやされしハ実に粋の骨張ともいふなるへきや。斯て後半二其始末を感し、父の性を返て近松と名乗り、口に任せ筆を走せし数/\に好める人を歓はせしは世にこそしれり。辛うして今丙丁の午末二歳の世の」貧しさを見越してや其世を早うして將に今佛となり在すほとの粋のこれに上越はよもあらさらん物とも遺せる筆しものを梓にのほせ追福なさむとのおもひたち、ある方よりの需をたゞふさぐ而己なるつふやき言に俳諧師のほく添んも尚まつしけなれはとて、こゝろにそ手向る計其思ふ斗おもて」二斗庵下物斯はかいつけ侍りて

  [寺ノ坊]  [互与之] (陰刻)

転きものは芭蕉葉、大海の茶入の口浄瑠璃の作者か。扨も其後ある書に曰、聖ハ天にかたとり、賢は地に法るとこれを述るものハ智なり。善悪邪正曲直清濁有情非情みな青ひやうしの中にもるることなし。其智を知るハ何某の両子也。今とし半二遺志を桜木に登せ、同好にすゝむ。予も辞するに所なく矢ぐら太鼓の天から/\とはてしなきことなれハ硯を鳴す而己。

天明七年末初冬 梅育書  [梅育] 」

天明七丁未仲冬吉日
彫工 下村幸治郎

平安書林 山田卯兵衛」

 

※注 この文『式亭三馬 腹之内戯作種本』に引用されている。

提供者:ね太郎(2006.01.15)
(2006.06.18補訂)