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【 石割松太郎 豊竹古靱太夫評 [サンデー毎日・演芸月刊] まとめ 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
 茶谷半次郎著『山城少掾聞書』の石割松太郎についての項で石割の批評の一部が引用されている。その引用部分が義太夫年表大正篇で引用されている。
 
1924.1 丞相名残 1924.1.20
 古靱は相丞名残の段でしつくりと語つた、いつもの堅実な語り口を一入取締て語つて、名絵物語りの一段が取立てゝよかつた。
 
1924.2 毒酒 1924.2.17
 毒酒の段は鏡、八十が中と次とを語つて、切が古靱であつた。例の古靱の手堅いソツのない語り口、何処と取たてゝ悪い処がないが、その代りに格段の面白味も感じられなかつた。
 
1924.3 袖萩祭文 1924.3.9
 古靱の「安達原」は何といふ精彩のない浄るりだらう、近来これ丈けの大物をこれだけに面白くなく聴いた事も稀である。古靱の語り口にソツがない、周到すぎる程の用意と細心の注意が払はれてゐて、益々浄るりは面白くなく弥々詰まらないものになつてしまつた。いはゞ文法家の駄文を読むが如く、振付師匠の「物尺舞踊」を観るやうで面白くない事この上なし。この「安達の三」の前と次とをつばめと静とが語つた。寧ろこの方の疵だらけでも熱のある面白い浄るりを取りたい。
 
1924.4 松太夫住家 1924.4.13
 「松太夫」の古靱から聴いた。語り栄えもせないし古靱にも熱がない。
    久我之助
 古靱の久我は手堅い丈その上絃が落ちて大判事と久我との呼吸がシツクリとしない。そこになると伊達の定高と錣の雛鳥とは新左衛門の絃で
 
1924.5 須磨ノ浦組打 1924.5.18
 「組打」の古靱は例のソツのない語り口、悪くはないが矢張り味に乏しい、そして浄るりが小さくせゝこましい。
 
1924.6 頓兵衛内 1924.6.29
 切は古靱の「矢口渡」で珍しい出し物である。又あの声の悪い古靱があれだけに聴かした声使ひのうまさには感心するが、六蔵にもつと軽いうま味、剽軽な面白味があつていゝが全くダメであつた。矢張頓兵衛に身が入つてよく聴かせた。
 
1924.9.20 長局 1924.10.5
 「長局」の古靱はいつもの語り口、ソツはないが、味も薄く、あの尾上が一人となつてからの長丁場にはうんだ、近頃の古靱は行詰りの形、何とか踴躍一番この沈み切つた語り口の浄るりの埒を脱しないと古靱は腐つてしまはうか。
 
1924.10.24 九郎助内 1924.11.9
 ◇出来の悪い古靱 三段目の九郎助内は静太夫の次があつて、古靱が語つてゐる。例の語り口で浄るりは極めて面白くなく、敢て悪いとはいはぬが面白くないのは事実、慊怠を催す事夥しい、この人の浄るりも峠を越して下り阪か、中だるみか知らないが、聴いてゐて飽き〳〵する瀬尾の皮肉などなつてゐないで平々凡々、皮肉が皮肉にならぬ程下さらないものはない恰もちよつとも利かぬ場ちがひの山葵のやうで、腑抜けの山葵は鋸屑同様だ。今にして想ふは死んだ弥太夫が数年前に語つたこの三段目、あの九郎助の旨さ--あの世話味、あの瀬尾の皮肉が、想出してもツーンと鼻から眼へ「芸の山葵」が通る。
 
1925.1  勘助物語 1925.1.18
 古靱は「勘助の物語り」である、近頃の芸の行詰つた古靱としては聴かれる部に属する。規模の小さいは余儀ない事として横蔵はよく語られた、母の越路もまづ〳〵心抱は出来るが、惜いかな慈悲蔵がダメであつた、直江山城守となつてからはまだしも、慈悲蔵の間が悪い。
 
1925.2 松王首実検 1925.2.22
 「松王首実験」が古靱の初役である、この本場での初役としては堅実なこの人の語り口は成功した、前興行の「廿四孝:の勘助物語りよりは出来がよい。就中松王をよく手堅く語つてゐるが、戸浪と千代とが十分でない、わけて戸浪は失敗してゐる。
 
1925.3 渡海屋 1925.3.22
 この切が古靱で絃は清六、古靱のいつもの語り口、ソツもなければ大きな疵もなく平々凡々、それで聴いてゐると眠気がさすちよつと面白くない浄るり近来の古靱はよつ程考へねばその浄るりは腐つてしまはう、典侍の局の間がくど〳〵として聴く者に快よさを感じさせない、それならだらけてゐるかといふに、さうでない引緊つてカン〳〵、些の遊びがないまでに、真面目に語つてゐる、恐らく近来の古靱の面白くないのは、この芸に余裕のない事、ゆとりのないセヽコマしい浄るりが累をなして快よさを感じないのだらう従つて面白くなく倦怠を感じ聴くものは「芸」を与へられずして「事務」を与へられてゐるやうだ、古靱の一考を煩はしたい。 ◇鮨屋は津太夫に道八、津の芸には疵が多いが、あの熱で語り込んで行くと聴くものは引つけられる、未熟な鈍な芸といへば鈍である、破綻縦横であらうが面白味がある、荒けづりのうちに何とも云へぬ面白味と純なウブな処に素樸ないゝ処がある、津の浄るりは破格で稚拙の名文、古靱のは文法家の悪文、この両人が全く違つた芸の質を持つてゐるのはいゝ対象だが、古靱を好むものは木賊のかゝらぬ磨きを知らぬ津太夫をけなしつける、疵はあつても面白味をとる津太夫党は楊子で重箱の隅をせゝつてゐる、かたづいた古靱を好まない、私は後者を選んで今度でいへば疵の多いながら面白い処のある「鮓屋」をいゝと思ふ。
 
1925.4 二月堂 1925.4.19
 ◇処で、古靱の「二月堂」は立派に成功した、十分に稽古も積んでゐればこの人の語り物としても打つてつけたものであるから、例の堅実な語り口にピタリと適つて、しつくりとした芸を聴かせたのは古靱の手柄である。
◇この「二月堂」が成功した一つの原因は浄るりにそれ程の「大さ」も要求しない、しかも艶や色気の微塵もないこの語り物は丁度古靱の危なかしい、古靱に足りない処の除かれてゐる作柄であるからでもある。絃の清六も立派。良弁と渚とのあの母子の情が浸み出るやうであつた。
 
1925.6 沢市内  1925.6.28
 ◇……次ぎは「壺阪」で古靱太夫の語り場である、これは予期を裏切つて思ひ切つて悪い「壺阪」最近相当な太夫の「壺阪」ではこれだけに悪い浄るりは又とあるまい。大体に「壺阪」といふ浄るりの色が語り出しからして打こわされてゐた、その上地唄の稽古--近所の小児でも集めて教えてゐる、しがない影のうすい心弱々しいめくら座頭が少しも出てゐない。で、仲仕か車力の俄めくらになつたやうな手あついにく〳〵しい坊主座頭が語り出されてゐるのは、沢市の人物を描出すには勝手の違つた太夫の心持なのだらうと思はれる。のんびりとせねばならぬ、淡い哀愁が漂うてゐながらも喜劇のこの「壺阪」をあゝせゝこましい語り口と、余裕を与へぬこの人の浄るりでは大和路の壺阪の片ほとりの色が絶無、まづ浄るりの柄からいつて履き違ひの太夫の心境は、お話にならないで、沢市夫婦が死んでゐる、最近失敗の多い古靱太夫の語り物としても、わけて悪い部に属する出来栄である。
 
1925.10 北新地 榛沢 1925.10.25
 次ぎが「紙治」の河庄で静太夫の端場があつて、古靱である、幾度も〳〵もいふ事だが、古靱の浄るりは全く真以て面白くなくなつた、相当に語つてゐることは認める、あの難声をあれだけに語りこなせてゐる事も認める、あの乙の声のいゝところイキなところも認めるが、肝腎かなめの浄るり全体が少しも面白くないどうしたものだらうかいふまでもない芸に余裕がない、ぶん廻しと定木で描いた絵のやうで人物が少しも生きてゐない、魂のない浄るりに面白い筈がない、結局は古靱の浄るりの腹のすゑ方が間違つてゐるのだ浄るりの面白くないのはこゝからすべてが出発してゐる、例へばどこまでいつても粉屋孫右衛門にならずに蔵屋敷のおさむらひ--それも歌舞伎役者の真似をしてゐるおさむらひで終始してゐる、この時代に世話の詞の面白さがないのなどは浄るりを語つて、人物を忘れてゐる事になる、ぎごちないこの人の浄るりは或はこれがもう行止りかも知れない。まだ〳〵往々にして古靱の浄るりに未来の紋下を聞いてゐる人のあるのを私は ひたい。
 
1925.11 合邦内 1925.11.29
 この狂言に覚えの咽喉を聞かさうとするのが古靱であるが、例の如く近来のこの人のわるい傾向として浄るりが少しも面白くない、窮屈でゆとりがなく、熱がなく悪がなくてわるい合邦だ、元来色気の乏しい古靱であるから、玉手御前といひ、浅香姫といひ、色模様はあつても、それ程の艶を要しない、この浄るりの女性は古靱の咽喉で結構だ、この点からいつてこの人が難とする役どころがなく、浄るりに益々きずがなくしていよ〳〵浄るりが面白くない。清六の三味線も若い、あのむつかしい三味線は荷が勝ちすぎた、さらりとは聴けたが、--又とりわけていふ難点がなくてしかもつまらぬ合邦となつてしまつた。古靱の奮励が望ましいとゝもに、行詰まつたその浄るりの一転機をつかむ事が肝要だ。
 
1926.1 熊谷陣屋 1926.1.17
 ◇……今度の出し物では初役と聞く古靱の「陣屋」が出色の出来を見せた。この人の克明な語り口、堅実な浄るりは「陣屋」をよく生かせた、丁度初日にきいたのであるが、熊谷はその出物語り、出家とこの三段が立派に語つた、いつも〳〵面白くない手堅い一方の古靱もこの阪東武者に復活の一路を見出したやうだ。いはば余り手に入りすぎない、そして形式よりも内容に、外面的な条件よりも内面的な熊谷の心情を摑まうとした今度の浄るりに古靱は成功したといへる ◇……しかし古靱の短所は女と世話とにあることは依然としてこの傑作にも残された、例へば相模が不出来である事、夢清となつてからは立派だが、石屋の弥駄六が悪い、この二欠点をよそにすると初役ながら立派な「陣屋」であつた。
 
1926.3 平右衛門 1926.3.21
 ◇……掛合の一力の段は平右衛門の古靱が病気のゆゑに源太夫が代つてゐるいゝ声だが腹がない、
 
1926.4 弁慶 1926.4.25
  …病後の古靱は珍しい「勧進帳」の掛合を出して、……で古靱の弁慶をとつてみると問答の口さばきの悪さ、徹底していつてる意味を伝へる事が出来なかつた。
 
1926.5 丞相名残 1926.5.23
 古靱が二段目の道明寺である、例の堅実一方の語り口は、この段の相丞にはよくはまりさうなものだが、その割にこの浄るりにも精彩がない、床から場内を圧する気魄が今度のどの語り場にも見出すことの出来なかつたのは口惜しいことの一つだ、気の抜けたやうな文楽座、魂のない文楽座よ、この貴き古典芸術のために、自らの持つてる立派な芸に魂をお留守にされてゐる文楽座の立直しはホンに今の事だこの機を逸して、もう来まいと思ふ。
 
1926.9.15 沼津 1926.11.1
 少し耳からの評をも試みて終るとするが、古靱の「沼津」は駄作だ、古靱いよ〳〵行詰つた、あの悪声だが、いつものうまい音づかひの腕をもちながら、面白くない浄るりの無類の典型だ、世話の味が皆無だ、そのうちでも、平作が悪い一例が「わが子の平三であつたかいいい」のあたりの熱のなさ、観客を引つける力がなくあくびものだ、浄るりのための浄るりはとらないものゝ一つである。
 
1926.10.10 三浦之助住家 1926.10.24
 古靱の閑居は、初役の初日とは思へない、その弊は堅実一方にあるが、さすがはふだんの用意が偲ばれる、母の意見のくだりをも手堅く語つた、三浦之助が本役でよく、思つたより時姫もよく語つたが、高綱が小さかつた。そして藤三の間に軽いひやうきんなところがない。
 
1927.1 尼ヶ崎 1927.1.23
 前狂言が「絵本太功記」「尼ヶ崎」は古靱太夫である、浄るりは小さいが古靱の弊である「面白くない浄るり」からはやゝ蝉脱しかけて来た、思つたよりは初菊もよく語つてゐた。光秀は小さかつた、重次郎もよいが、皐月が悪いのと、サワリが聞き劣りがした。
 
1927.10 堀川猿廻し 1927.10.16
 古靱の「堀川」は、例の写実--先代の清六仕込みの写実だ、与次郎を三枚目でなく只臆病な律儀な人としての解釈を加へてゐるのは尤もな演出、終始に堅実一味、克明な語り口で押通した、「堀川」一曲に些の破端も見せないが、どうにも理攻めの与次郎、古靱の与次郎でホツとした生きた人間味に乏しい、例の語格の正しい文章でとぼけた面白味がない、与次郎もおしゆんも伝兵衛もいゝが、婆がまざ〳〵と生きて来ない、おしゆんの心底を聞いてからの婆で泣かせてほしい、あの遊女ながら娘の心根を聞いてからの婆でしつくりと泣いてみたいのが、私が「堀川」に要求する第一だが、いつも希望が達せられない、古靱のもそれであつた、そしてもつと〳〵この人から面白い破格な浄るりを聞かうといふのは、私のみの注文ではあるまいと思ふ。
 
1928.2 岡崎 1928.2.26
 珍しいのは古靱の岡崎、まだ〳〵これから古靱が幾らも語られる語場だが、今度の興味はこゝに存した。聞くといつもの古靱、何といつても用心深すぎる、手綺麗に、手堅く語り進んで非難のない「岡崎」だが、今一息なのは、例の余裕に乏しいことだ、政右衛門よりはお谷がよく出来た、後に看客の心をしつかと捉へられなかつたのは演者に疲労が見えすきが出来たゆゑだらう。且この場の政右衛門の世話味が出なかつた。清六の例の健腕に、手はよくまはつた。
 
1928.4 合邦住家 1928.4.22
 次狂言が例の古靱の「合邦」度々手がけたゞけに、且音遣ひのうまい古靱だけに、又堅実一方の語り口だけにきずのない合邦だ。わけて合邦をよく語つた「幽霊もひだるかろ」のあたりにこの人の手堅い工夫が見える、又玉手では何でもない文句だが、手負になつて打明けてから、「いつか鮑の片思ひ」のあたりが、よくその腹が利けた。が、全体からいつて後半にもうつかれの見えるのは手堅い人にも似合はない。糸は清六いよいよ熟して来て立派な芸をきかせてゐる、が前半よりは後半がよかつた。
 
1930.1 鬼界ヶ島 1930.1.20 プログラム 床本
 次が「平家女護島」の内「鬼界ケ島」で、これが今度の呼物の唯一であり、古靱太夫の努力も又大に買つていゝ。元来度々私どもが口に筆に、古曲の復活を叫んでゐるのが、今度初めて、それと意識して古曲の復活に文楽座が努力を払つたことは双手を挙げて賛成し曲を選ぶにもほぼ当をえてゐるのに、私は満足の意を表したい。この鬼界ケ島の一回で世間の評判に凝りずに、この企図を新しき文楽座が、十分力を入れて為すべきが責務であり、且つ文楽座の生きる唯一の道だと、私は確信してゐる。従つて今度の舞台の効果如何を度外しても私は賛意を表する。まして多少の難点はあつても、大体において素破らしい出来栄と、舞台効果と、大努力とを収めてゐるのだから、文楽座の内部の人々もこんな企図に対して幕内を挙げて努力、助勢をするのが当然であり、幕内の責任であると私は思つてゐる。--この点に関係者以外がこの心掛に欠ける処あるかに見受けるのは、私の遺憾とする処である。
    ◇
 古靱の出来からいふと、この廃曲--とまでゞなくとも廃れようとする曲をこゝまで漕付けて、例の古靱一流の健実な語り口に鋳込んだ事を、巧罪ともにその努力を認めていゝと思ふ。世人が往々にしてこの曲を「日向島」と対比するのは私は不思議に思ふ。景清と俊寛とでは根本思想において違ふ事形式が似てゐるが、コントラクシヨンは全く異つた手法になつてゐるのだが世人は形に惑はされてゐるやうだ。(青竹問題に就いては別項を併読されたい)曲としては淋しいこの難物を、古靱のうまい音使ひなればこそ、あの前半を克くあれまでに客を引つけて聞かした。且つ難つかしい文句を二三の異論はあるが。正統に耳に訴へて解することの出来るやうに語つたのは、古靱の大きなる努力だ。が、その一方には魚づくしの近松一流の猥雑なる言葉が古靱の理智的の口吻で聴いてゐると、軽るみとどうけがなくて詰らぬ事を物物しく聴かされるやうな点があるのが欠点だ。流人三人の恋の話になると荒磯にパツと紅椿の花が投げられたやうな鄙びた色気が出る、俊寛のあづまやを想出して語るあたりはうまかつた。二日目に聴いた時には、俊寛が己が名を呼ばれないのに必死と詰寄る処や、京家の舶が来て流人を呼ぶ処に、「流人の餓鬼道」が十分出てゐない、切迫詰つた力が、どうも出てゐないで、節や辞に捉はれてゐはせぬかと思つたが、--六日目に再びこの段だけを聴いた時には、稍々餓鬼道の心持が出てゐたやうであつたが、まだ足らない。こゝの人情がもつとハツキリと出ると、この浄るりはもつと〳〵面白からうと思ふ。「鬼界ケ島に鬼はなく鬼は都に有けるぞや」の利き句が、どう語られるだらうかと期待したが、当込みのない節で上品に利かしたのはよい。按ふに作品がこの淋しい、普通にいふ山のない浄るりだけに、或は古靱は、見物を捨てゝ、自分楽しんで語る浄るり、己が語つて己か聴く浄るりだと思つて演技の場に臨んだのではなからうかと想像した。それほど聴衆を眼中に措かずに語つたこの太夫の努力を買ふとともに努力が正統に報ゆられたと私は断言する。「淋しい」とか「損な出し物」だとか「独りよがり」だとかの俗論に古靱は耳を籍すな。人間の行動、まして芸人が芸を以て世間に立つに「損得」のみが、標準でない事を牢記すべきである。当て込みのなかつた古靭を喜ぶ今一つの例は、同じく千鳥の口説きのうちの「海士の身なれば一里や二里……八百里九百里が游も水練も……」は、当込んで当込める節をハツキリと聴衆を眼中に置かなかつたが如き語り口を私は再び称讃して措かない。三味線は道八、八日から後は清六か弾くとの事であつたが、私が聴いた二度とも道八の絃だつた。今一度清六のをも聴くつもりだが、この稿の〆切までには聴けなかつたが、流石は道八、崇重なるこんな曲だと、変んな仕事をせないで、堂々としたる面白味を聴かせてゐた。
 
1930.2 合邦 1930.2.20
 この切を古靱太夫の筈が病気で欠勤。つばめ太夫の代役であつた。
 
1930.3 久我の助 1930.3.20
 古靱のこ我之助、手堅い一方で、こ久之助の「若さ」を欠いてゐる。
    二月堂 
 「二月堂」が古靱太夫、いつものこの人の語り口、一言一言を克明にハツキリと語つて行くと、この作の冗慢さが弥が上にハツキリと見えるので、作の疵が現はになる。節付は名人の団平だが、作はその妻女のちか女。多少の文字のあつた女であらうが、かういふ長いものになると疵だらけの文章、それは古靱の知つた事ではないが、団平が優れたる作家を獲なかつた事は返へす〴〵も浄瑠璃界のためにおしい。
 
1930.4 尼ヶ崎 1930.4.20
 切が古靱。今度の聴物、四月の出来栄はこの切が一番だ。初日には声を悪くしてゐたが、ソレでも四月興行の桂冠は、この人の頭上に置かれた。悪い方からいふと重次郎に若さがない。こ我之助同様どうも干枯らびる。今一つの欠点は、浄るりの大さが足りない。これは技巧が勝てば勝つほど浄るりが小さくなるのか?歌舞伎の舞台にこれを見るに、今日の菊五郎、吉右衛門の舞台が、立派な芸を見せてゐても舞台が何としても小さい。不思議なほど小さい、いつか。魁車の政岡で巌笑の八汐隙だらけの八汐だつたが、政岡が飛んでしまふほど大きい舞台を見せた。「芸」の大小ばかりは別かは知らぬが、古靱のこの欠点を「今日の時代の所産」とすれば、古靱の「尼ヶ崎」は立派な堅実な語り口を聴かせた。
 
1930.5 堀川 1930.5.25 プログラム
  私が古靱の「堀川」に、興味を感じた第一には、根本的に、人々の語りつゞけた語り口と全く異つた「堀川」を聴かしてゐる事、第二には、浄るりの文句を、後世語り崩し語り勝手に原作を改竄したるものを原作に還元したる事。この二つが今度の古靱について論議さるべき主要点である
   ◇
 詳しくいへば、従来諸家の「堀川」を聴くと、与次郎といふ主要人物は、常識を通越した臆病者、うつけ者にしてあるが、この浄るり一篇を読んでみても分るやうに、与次郎を呆気者だとはどこにも書いてない、又呆気な事を言うてもゐない。然るに従来の語り口が、臆病者を誇張して阿呆にしてしまつた。これを原作に引き直して、地合にある「正直一辺」と母の詞なる「臆病者」の二言に解釈を還元して、誇張を去つて語ってゐる--与次郎の性根を尤らしい人間にしたのが、こん度の古靱の「堀川」である。この点が第一。
    ◇
 第二の点は、一例が今世間で語る「堀川」の冒頭の「琴三味線の指南屋も」の「の」を省く。「おつるさん嘸ぞ待遠うであらうな」の「嘸」をぬいてゐる。「上白米の仕途り」の「上」を抜く。「おしゆんが心根を思ひやり思はず知らず涙が」の「知らず」を省いてゐる。(これは大阪朝報の八木善一氏が引用の例に拠る)--悉細に聴いてゐると、八木氏の引用は極初めの一例にすぎない。もつとグン〳〵今日の五行本とは文句の改竄が古靱の「堀川」にはある。例へば「アヽイエ〳〵それではとんと声にしほれがないはいな」を古靱は「ない」とぶつ切ら棒に語つた。--が、八木氏はこれ等を「改善ならず改悪」だといつてるが、果して然るか?
    ◇
 試みに今日の「堀川」の五行本と丸本とを比較してみると、古靱の語るところは、尽く丸本に準拠してゐる。例へば冒頭のところを丸本で見ると、
  琴さみせんしなんやも
 とある。又
 〔詞〕イエ〳〵しほれがない【二上り歌】あのおもしろさを見る時は、あのおもしろさを見る時は〔詞〕よし〳〵
 とある。この件りなどは、今日の五行本では「アヽ……とんと……はいな……はと、かう諷ひなされ。アイ」の入れ文句がある。これで見ると、古靱の語るところは、改竄にあらずして、丸本への還元である。
    ◇
 こゝに注意を要すべきは、この「堀川」の浄るりの初演は私は知らない。天明二年といひ、三年といひ、もつと以前ともいふ。が、今日存在する丸本の「近頃河原達引」は天明五年九月九日に狂言作者の中村重助再撰の刊本であるこの天明五年以前の丸本が刊行されてゐないのであるから丸本に還元しようとすれば、この中村重助再撰本による外はない。古靱の今度の「堀川」は、古靱自らが改善も改悪もしてゐない、全く、丸本に引還した--長い年月の間に語り勝手のいゝやうにしたものを、昔に引戻して語つてゐるのが、古靱の「堀川」である。
    ◇
然らば問題は、語崩して丸本から遠ざかつて入文句をして来たのを語る方がいいか、丸本に準拠した方がいゝか何れかを選ぶべきかである。私はこの古靱の丸本に還元した事に大に賛成の意を表する。度々浄るりに付て述べた時に私が強調し来たやうに、物極まれば何んとしても「還元」しなければならぬ。世界の歴史はいつも、行詰るとまづ昔に還つてゐる。「自然に還れ」と叫んだ、近世文芸の叫びもそれだ。浄るりもこの埒を出ない。語り崩した今日の「堀川」はまづ「元へ還れ」といふのが正当なる取扱ひである。この意味において、耳遠い古靱の「堀川」はやわらかく聴えないが、まづ文句の還元は当然の事である。
    ◇
 ところで、文句を還元しても、従来のやうな語り口を、古靱が採つてゐるとするならば--即ち呆気な与次郎を、丸本への還元を行うて尚且つ、与次郎の性根を従来の如く語るとすれば、ソコに矛盾があつたらうが、古靱は内面的にも、与次郎の解釈を、丸本に準拠して、その性格を語らうとしてゐる。その結果は、曩きに私の挙げた第一点に帰着する。第一、第二とこの外形と内容との二点から「堀川」を--又かといはるゝ「堀川」を異つた立場から語つたのが、今度の古靱の「堀川」だ。との意味において私の興味と私の満足は、五月の文楽座中この「堀川」を第一等の出来だ。--少くとも「今日の堀川」を古靱が語つたことを大に推賞したい。--尤も古靱の「堀川」が完全なものとはいはない、欠点はあつたらうが、従来の「堀川」を辺革したといふ点で、古靱はその責を負ふ必要もなく、嗤はるる要もない。見識を樹立して「昭和の堀川」を語つたことを、私は少くとも、正月興行の「鬼界島」同様に、その努力に推賞の辞を憎むものでない。
    ◇
 嘗て、菊五郎の忠臣蔵の判官を見たときに思つた。あの菊五郎の判官の演出こそ「昭和の判官」だ。今日の判官だ「きのふの判官」ではないと私は度々今日までに何かの機会に書いて来たが、古靱の今度の「堀川」は、芸格においてこの判官と行き方を等しうしてゐるものだと思ふ。空論概論は止めて実例についていふと「アヽコレ母じや人ソリヤ何をいはんすぞいのふ其やうにひそやかるしんだいじやと思はしやるか……」の条りで、古靱の与次郎は、道化などは塵ほどもなく、血の出るやうな涙の浸むやうな心持で母じや人を慰めようとする。--その真実が聴者にヒシヒシと胸を打つた。この心持が従来の「堀川」とは異つてゐる。
    ◇
 尤もこの条りの人形の栄三が、また古靱が解釈する与次郎をよく形に見せた、「雲か花かと申すやうな白米のし送り」で栄三の与次郎は、チラと母の顔を見る、その人形の眼に涙が流れるを見たほどに、私は胸の迫るを覚えた。従来の「堀川」だと、このあたりは、浮々とし、人形にも軽薄なおどけたところが舞台に漂うてゐたに、その影さへも見せなかつたのは、古靱の丸本に還元した--五行本を去って丸本に還元した努力と、これに相応じた栄三の人形の魂がピタリと相合ふたればこそあの真剣な舞台が出来上つた。これなどは「堀川」を見、聴いて未だ嘗て私の見ないところであつた。--この意味において昭和の「堀川」更生した新文楽座の「堀川」だと、私のいふ所以は、この点にある。
    ◇
 つゞいて、「おしゆんがむねを思ひやり、思はずなみだが詞「ドレマアひをともそとたなのすみ」--の舞台の気をこゝで転換するうまさと「正直一辺」な律義で馬鹿でない与次郎が躍如として描かれた。この「ドレマア」のマアが五行本にはないのを丸本に拠り、古靱は克明に丸本通りに語つた。--こんな克明な例は引用する繁に堪へないほどである。
    ◇ 上述の如く、今度の「堀川」は、かういふ点から見て、五月興行の第一の出来であり、第一の興味を引いたと私はいふのであるが、古靱がこんな「堀川」を語つた動機は、或は外にあつたかも知れぬ。即ちハンナリした条るりは古靭の口にはない。「堀川」といふ条るりが或は古靱の語るに躊躇するところであつたらうか。されば自分の語り口をよく知つてゐる古靱は「今日までの堀川」を脱しようとして苦心した結果が、この「堀川」が出来たものと私は想像する。この動機から出た「堀川」に難とすべきは、浄るりに些のゆとりのない事、余りに合理的に語られるがためにビシ〳〵と攻かけられて「芸に遊ぶ」点がない。この一点が今後の古靱の「堀川」に考へらるべき重大な点である。
    ◇
 一体今日まで古靱は文楽において、「堀川」を幾度語つたかを調べてみると、其初演は、大正十年正月興行に、「忠臣蔵」が道行まであつて、その切、付物として初めて「堀川」を語つてゐる。此時の「堀川」を私の日記に見ると、正月の五日に見物して、「弥太夫の「殿中」を面白く聴いた、「堀川」は初役と聴くだけに不熟」云々と一筆評を記しただけで、今日どんなであつたか記憶もない。--それが初役とすると、第二回は、昭和二年十月弁天座の仮興行の時だつた。--この時の私の批評は、「サンデー毎日」、十月十六日発行の分に所載。--「臆病な律気な人としての解釈を加へてゐるのは尤もな演出」と評し、「生きた人間味の乏しい、語格の正しい文章でとぼけた面白味がない」と私は評してゐる大体において今度も同じ感じだが、「人間味に乏しい」と第二回の時に評した私は、今度の「堀川」にはこの一語を取消したい。ソレは古靱の第三回の今度の「堀川」がよく「人間味」を出したのか、昭和二年十月の私の耳が未だ至らなかつたのか、私自ら今日では何とも判断が出来ないが、今度の「堀川」に、立派な人間味を与次郎に聴いた事は確かだと言ひ切る事か出來る。
    ◇ この昭和二年の時にも、私が希望として云つたが、ばゝの「娘の手前面目ない」の条りで、私は泣きたいといふ事を今度も申述べたい。このばゞの飜然と人情の自然に帰る点に、「堀川」を聴いて泣きたい私の希望は、却々に達せられないのを憾とする。
    ◇
 これは余談だが、古靱の口には、はんなりとした、派手な語り口が欠如したのが古靱の浄るりの特色であり、短所でもある。この点を補はうとした苦心が、今度のやうな「堀川」を生んだのは、短所を長所に転換したのであると見られる。ところで、この正月に古靱が語つた「女護島」の如きは、徹頭徹尾古靱の長所を長所として語つていゝ作品である。--即ち内容的にははんなりした派手いつぱい浮々したところがなくて然るべき作品である。この古靱の「女護島」に対して、岡田翠雨氏が「浄るり月報」及びその他一二の同様地方の浄るり雑誌に「女護島は研究が足らぬ」といふ題の許に「モツト抑揚をつけろ」「変化のある節付をして陽気にきかせ」「こゝで客を泣かせもし喜ばせもしなければウソだ」といぴ、古格を破つて、近代的にせよといはれてゐるのを、今度の「堀川」の諸家の評を見て思ひだしたが、私が人形浄るりに対する考へ方とは、これらの評を聴くと直反対にあるがやうに思はれる。諸家の意見を尚精しく聴いてみないと、これだけで俄かに断定は出来ないが古靱の「鬼界島」の場合を例にしていふと、岡田氏は、もつとはんなりと語つて、素人でも口ずさみたいほどな節廻はしで語れよといふのが、その注文らしいが、私の反対はこの点にある。作品の内容を検せずして、顧みずして、場受けを節の華やかさに要求する帰結はこゝに至るのが当然である。今日では「古典」である人形浄るりに、「場受け」は一切禁物だ。俚事に入らうが入ろまいが、本質的に語らねばならぬのが、人形浄るりの進む道である。「鬼界島」の場合に就いていふと、その節か、その三味線の手が、仮令近松が創作当時のものでないにしろ、現在僅かに伝はれる節が符節を合するが如くであつたと聴く。--即ち、野沢会で嘗て今の野沢吉兵衛が、この「鬼界島」を弾いたのと、この正月に古靱が語つたそれが、豊沢松太郎によつて伝はれるものであるが、この豊沢と野沢の二流に伝はれる節章が、符節を合するが如きものであつたことは、この浄るりが、絶えて舞台に出ないがために語り崩されてゐないことを説明して余りある。その松太郎から伝へられた「鬼界島」を、岡田氏のいはるゝが如く、本格的なるを捨てゝ時流に投ずる語り方をしていゝものだらうか、私が岡田氏の「浄るり月報」所載の説に反対する所以は茲にある。斯道の大通岡田氏の教へを乞ひたいと思ふのはこゝだ。
    ◇
 恐らくこれは人形浄るりに関する根本の考へ方が違つてゐる故であると思ふ。--私の云ふのは死身になつて懸命になつて古来の人形浄るりの保存にある。恰も能楽のそれの如くに、然るに「素義」の構成分子を多分に抱く人々は現今の聴手に満足を要求してゐる。
 この相異が岡田氏の説かるゝ処と、私の考ふるところとの径程の差を来たすのであらう。--同じ事が、今度の古靱の「堀川」についていへる。八木氏は、五行本への還元を改竄だといひ、改悪だといふ。--この問題はさう軽々に付すべき問題でないと思ふ。お互ひに斯道のためにもつと〳〵考察を重ぬべきものだらうと思ふから、岡田氏の「鬼界ケ島」八木氏の「堀川」の各自の評に対して、御意見の発表を待ちたい。両大通の示教を私は切に乞ひたいのである。
 
1930.6 沼津 小揚げ 1930.6.20
  古靱、音つがひのうまいこの人、小揚げを巧みに語る。平作になり切つてゐるところも流石〳〵。
 
1930.7 宿屋 大井川 1930.7.20
  宿屋から大井川が古靱の初役、出し物だけを聴いた時に古靱の宿屋とは思も掛けなかつた。それほど本人の口には縁遠い語り物、且つ滅多に聴いた事もないといふ代物、たゞ、聴いて面白くはない浄るりだが、初役で、よくもあれだけ語つた。この人の工風鍛練がこの人得意の語り物を聴くよりもまざ〳〵と、工風と鍛練とか、聴くものに応へる。人物の性格と、節とに対する基礎工事がキチンと行届いてゐる。が何としてもこの人のモノでないだけに究屈であり面白味がない。深雪といふシテが古靱のものでないのがこの結果を見せた。その代り人物でいふと岩代と徳右衛門が無類。美声でないこの人全然声にない「ひれふる山」がうまいのは工風鍛練の浄るりだ。清六の三味線も丁度それに相当する。似たもの夫婦の意味か。
 
1930.9 引窓 1930.9.20 プログラム
     ◆
 その切が古靱太夫、清六。今度の聴き物はこれ一つ。当人も得意と自信もあらう、落付があり、情意を尽して面白く聴かした。--古靱の浄るりに、うまいが面白くなかつたといふのが往々にしてある。こゝ数年前までの古靱の浄るりは、「往々にして」でなく殆んど凡てがうまいが面白くない浄るりであつた。イヤに語格の正しいのみの文法家の文章であつた。が、近来の古靱は文法家の面白い文章を書く。今日尚破格の面白味は求められないが、洗髪を新藁で結へた伝法な美人の姿はないが、浮世絵の美はないが、土佐風の絵巻物の面白味、楷書の端麗な面白味が、その浄るりに出て来たのが近来の古靱である。
    ◆
 今度の「引窓」などがその一例である。私は試みに古靱が数年前に吹込んだ「引窓」一段のレコードによつて昔の古靭の姿を、文楽見物の前夜蓄音器で二度ばかり、聴きどころを三度ばかり聴いて翌日文楽座の桟敷に坐つたのである。勿論レコードをそのまゝに信じようとはしないが、数年前の「引窓」と、今日文楽に聴く「引窓」とでは、雲泥の差を認めた。如実に古靱の芸の進境の跡を両々相対して眺めたのである。
    ◆
 殊に今度は婆々をよく語つたので、この一段が完壁に近いまでに聴かれた。例へば銀一包を出し絵姿を売れといふ、十次兵衛の言葉になつて、「ムウ母者人、廿年以前……その御子息は堅固でござるか」「与兵衛村々へ渡すその絵姿」とつゞく与平の言葉と婆々の言葉との間といひ、他を顧みないで、絵姿を売れと押していふ婆々の言葉は何ともいへずよかつた。又婆々の「七十に近い親持て」も語る者の肺腑から出る言葉であつた。
    ◆
 いつも私が「堀川」を聴くと望む事だが、お俊が客への義理を説くとお俊の母が飜然として廓の義理に考へ及んで「娘の手前面目ない」からの母の心に私は泣きたいといふのであるが、「堀川」のこゝで泣かしてくれた太夫が一人もない。が、丁度この「堀川」と趣向、情境を等しくする、「引窓」の長五郎の辞で「ようお礼を仰言れや……未来の十次兵衛殿に立ますまいがの」で婆々が「ヲヽ誤つた長五郎」となるこの一条りの今度の古靱の浄るりで、私は覚えず泣かされた。久しく芝居、浄るりで泣けなかつた私が、今度久しぶりで眼鏡を曇らした。始終批判的な理智的にのみ舞台を見る癖が、永年養はれたが故に、舞台をそのまゝに、請容れられなかつた「芝居見物」として不幸な習慣の私の眼に涙を見せたのは、古靱の芸の力、芸の真実がかうさせたといへる。
 
1930.10 春日村 1930.10.20
 古靱太夫が、その自らの語り物の幅員を拡げんと努力してゐる事は、大に認めねばならぬ。鬼界ヶ島といひ、伊勢物語といひ、適当なる順序に適当なる狂言を撰択したことはいゝ。そしてその初役の「春日村」に成功してゐることは、その努力が報はれたるものと観ていゝ。今日のやうに太夫の低下した時に当つて、この人の努力は、文楽座の将来に一道の光明を、せめても射してゐるものである。芸術家の努力は一に「芸」にある。一向に腕だ、言論ぢやない、理窟ぢやない、理窟は素人がいふ、芸人の努力は一に「芸」ばかりだ。「芸」を措いて他にはない筈だ。
     ◇ 
 この切が古靱太夫、清六。例の情意の至つた語り口、「引窓」の婆々の成功から押して、小よしは善からうがしのぶがどうあらうと思ふたが、「お前は十三わしや十オ」のあどけない口説きがまづいゝ。愛想尽しで母娘の情がしみ〴〵と浸み出る、芸の真実味が溢ふれた、小味のうまさ、十分に褒めていゝ。もう一つ小よしのよかつたのは、母子の縁切るかと詰寄られて、「ハイ(間)どうぞ〴〵この娘の助かる……」のこの「ハイ」と悲痛な小よしの一言が出来た。こゝの小よしは絶妙。が終りになるにつれて小よしが悪くなる。「音に恟り」からの小よしは感心しない。
 
1930.11 勘平切腹 1930.11.20
 勘平の切腹、古靱太夫、絃清六。勘平の前半、悶々の情に堪へないところ実にうまい。次に婆々がいゝ。こゝ続けて婆々に成功してゐる。「引窓」の婆々を一等とし、次が今度の与市兵衛の女房、三番が小よしだ。歌舞伎と浄るりとを通じて私の記憶にあるおかやは、第一死んだ蟹十郎が無類だつた。以来いゝ婆々に邂逅つた事がないが、今度の古靱の婆々を蟹十郎の次におきたい。語出しの、財布をチラと見てもしやの心に雲がかゝりながら、「親の身でさへ」のこの一条、婆々の真情をさらけ出して看客の心をまづ引掴んだのは老手。只勘平の後半が感心出来ぬ、悲痛な情を心に蔵してゐる間がよくて、後になつて浄るりに衰へを感ずる。清六の三味線簡明直截。
 
1930.12 袖萩祭文 1931.1.1
 この切、袖萩祭文が古靱、絃清六。古靱が得意の壇上、まづ何といふよりもあの長い語り場をどこに弛みも見せないで語り終らせた。往々にしてこの人の浄るりは終りに近づいて乱れたが、今度はこの長い場を些の弛みも見せずグン〳〵聴者を引付けて語つたのは大努力。人物では謙杖が一番よく出来た、慈悲は忘れたやうな剛愎な苦しい老の一徹が却つて涙を誘つた。 ◇ 桂中納言から貞任への変り目がカツキリしていゝ、袖萩の哀れもお君のいぢらしさもよく、当代の「安達」の三段目、その比をまづ見ない。
 
1931.1 紙屋 1931.2.1
 切が古靱太夫、糸清六、古靱はその得意としない「紙屋」だ世話の味がぎこちなくなる、袴を著けて色話を聞くやうでくだけた味が乏しい。が、難ずる点のない例の手堅い手法、三五郎の阿呆が薄ボンヤリと陰気に語られたから水盃の一くだりが絶妙、哀れ深くして自然と泣けるやうになるのはうまい、古靱ではこゝを一等の出来栄として、段切の「日頃の意趣ととゝめの刀コリヤ〳〵三五郎よ……」のところここ案外セカ〳〵するだけで平凡、こゝの町人の刃物三味の世話の面白味が出ないのを第一の疵とする。
 
1931.2 油屋 1931.3.1
 近年文楽座でも滅多に出ない、大正九年三月に古靱が語つてゐるが、私はその時の記憶が全くない、私の「看劇日記」を探し求めたがどういふものか記す処がないのに見て、私は聴落したものらしい、従つて私にとつて珍らしく--珍らしいといふ点で面白く聴いた。復興後の文楽座において、古靱が珍らしい出し物に努力し、その語り物の幅員の拡張を頻に努めてゐる事はよい事である。舞台効果の如何に拘らず、寧ろ大胆な位に珍らしいもの、復活、--或は廃曲の再演を期すべきであらう。唯この復活に対して注意すべき目安は、人形偏重の目今の時世に鑑みて、人形の動き--人形舞台の効果を期すべき余地の多ければ多いほど、文楽座の将来の語り物として妥当な選択といふべきである事を忘れてはならぬ。 この点からいふと今度の「飯椀」などはさほどに人形は舞台的に効果が少い、が然し語り物としては太夫の食指の大いに動くべき珍しいものといはねばならぬ。    ◇ 古靱の出来からいへば、勘六がよく出来た、又久松と乳母お庄との人情の機微が細かく出てゐる。 この浄るりがその仲間で、「飯碗」の俚称を以て呼ばるゝやうに、実に浄るりの常套である。「悪番頭」型の小助と勘六との間に取扱はるゝ盛切りの「飯椀」この浄るりの重点がある。こゝに重点があるだけに小助が飛抜けて軽く悪番頭だが「憎む」程度でない「アノ番頭」の色が出ねばならぬが古靱の失敗はこゝにあつた、小助がよく出来ると、この「油屋」はもつと〳〵面白かつた筈だ。  この「油屋」に要求さるゝものは「枯れ切つた味」である、こゝに古靱の足らぬものがある、例へば「喰ふないやい」の面白味が「枯れた」味に伴ふ芸であるのが半減された。
 
1931.3 川連館 1931.4.1 プログラム
  かう一順眺めると我らの興味は断然古靱の「川連館」に繋がる。処が古靱は初日以来全く声が出ないで休場してつばめ太夫が代役を承つてゐる。
 
1931.5 道明寺 1931.6.1 プログラム
 切は古靭に清六。今度の「菅原」は役割はよく割れてゐていゝが、中にこの古靱が一等の出来を示してゐる。浄るりが後になる程脂が乗つて来る、咽が開いて来る「老母、さすが河内郡領」あたりから浄るりは冴えて来る。この二段目で覚寿がよければ本物、その覚寿を滅法よく語つた。その上に菅相丞がよいのだから、後半は近来にない「道明寺」--「相手は姑アアわしが手にかけた」などが詞では落着きを十分見せてゐる「何んの〳〵といふ目に涙」など情景が至り尽した。相丞との名残は技巧の極致を示し且つ人情の誠、惻々として人を動かした。例へば「立よる袖を引留め」から「子鳥が啼けば親鳥も」は上品な浄るり、突込まないで聴くものをして泣かしめたのは古靱の手柄だ。このあたりの「技巧」と「芸の誠実」とを拾ふに遑がないほどうまかつた。その上例の一シラブルをも等閑に付せないのと、音遣ひのうまさで、詞、節の末までもハツキリとするのを褒める。例へば「孫は得見いで」などハツキリと聴かしたのは快よい、古靱の浄るりのいゝ得色だ。当今「得、見いで」など耳だけで判るやう語れる太夫を他に見ない。 
 
1932.5.10-12 新口村 1932.4.25 【東京劇場】
 新口村は淀治の口、切が古靱、絃清六、元来「新口村」は語るよりも唄ふ気分の浄るりとなつてゐる。その「新口」を--古靱の口にないのをどう語るかといふのが興味の中心だ、古靱は自ら知る事の深い太夫だ従来の美しく唄ふ「新口」を孫右衛門を掴まへてシンミリと語つて聴かさうとした。艶を捨てゝ当り節を唯の一ヶ所も用ひずに聴衆を忘れて語つた処に古靱の自ら知る明がある。
◆試に「あたゝめられつ、温めつ」「珠数屋町」など銀にイブシが掛つてゐる事を見遁がせない。然しこれは古靱の短所を長所に転換しただけだが、あの声を潰してゐながら孫右衛門を絶妙に語つた例の「休み〳〵」の孫右衛門の出は、ハツキリと孫右衛門が足取を時間的に語つた工夫は見上げたものだ「切株で足つくな届かぬ声も」の段切は蓋し、大阪で初役以来の大出来テクニツクとしてはこの段切ほど上出来の「新口村」を私は聴いた事がない。
 
1933.10 定高 1933.11.1 プログラム
昔の定高はいつも摂津、近い頃では、いつも定高は、土佐であつたが、今度は競演の陣立で、古靱であつた事に、この人の初役としても非常に興味が高い。古靱はいつもの細心なる定高を描いた。説をなすものは古靱の定高に「母性愛」が乏しいといふ批難を、大阪で聴いたが、私は古靱のために弁護の位置に立ちたい。この妹脊山の山の作意を十分翫味して見なさい。「母性愛」といふやうな近代風な母の情よりは「封建制度の母」が、--「家」を重ずる後室型の定高が、この山の生命だ。後室型の定高が雛鳥に対する母の心持は「入内してたもるか、……嬉しや出かしやつた〳〵」のあの古靱で十分に浸み出てゐた事を私は挙げたい。「母性愛」といふ言葉を咎むるのでなくて、さういつた定高の心持よりも、後室型の定高が、山の定高の全幅だと私は主張する。この意味において古靱の定高は初役ながら見上けた定高であつた。「心ばかりは久我之助が宿の妻と思うて死にや」など、後室型の女を描いて遺憾のない出来栄だ。また技巧の点では、巧みな音使ひが随所にあつて「夢縁の仇花……」の前後は、典型的の定高を語つて見せた。 
   北新地河庄 【津太夫と打替出演】
 古靱の「新地」は、津太夫と比較にならぬまでに断然と立優つた「河庄」であつた。殊に孫右衛門の巧さは際立つてよかつた。「馬鹿を尽したこの刀」或は小春の懐ろから手紙を抜取り、「小春殿まゐる、紙屋」まで語り「内」の一語を呑んで語つた細心の孫右衛門のこのイキ無類。もう一つ孫右衛門で、段切れの「義理で立つまいがの小春殿」の「殿」がよく利いて、「人をたらす遊女」と思つた小春を「殿」と呼ぶ孫右衛門の心持を、この一字に示現したのは偉い。元来古靱は女を語る事が下手だが、今度の小春では「口と心は裏表」の条りで、二重の小春をよく語り描いたのも、今度のこの人の手柄だ。
  最後に津太夫と古靱との浄るりの語り口の相違を示しておくと、治兵衛が小春を罵るところで「家尻切め貧乏神の親玉め」とある、この「親玉」を津太夫は、大きな声で語つてゐる。が古靱は小さな声で、沈めて語つてゐる。この両人の浄るりの風が、これでよく分ると思ふ一例だと私は思つた。
 
 

 石割さんにも、せめて「日本操史」が完成して、学位を得られるまで生きてゐて欲しかつたと思ひます。それに、いま生きてゐられたら、私の浄瑠璃をどう批評なさるか、それが聞きたいもんだと思ひますよ。【山城少掾聞書 (その九) 幕間 3巻4号 (1948.4.5) pp.43】