平成十八年一月公演(前半:5日、後半:14日)  

第一部

『寿式三番叟』
 二年に一度。いよいよもって劇評も書きようがなくなる。しかも三業ともに取り立てて技芸を言うこともない演目。ならば、初春を言祝ぎ目出度く晴れやかかというとそうでもない。初めて見る人にはマンネリではない、という人もいるがそうでもない。精彩がないとマンネリに見えるし聞こえる。舞踊だから。こういうものは一種の神聖さが必要なのだが、そうでもない。とはいえ、それは三業側に責任があるかというわけでもなく、ルネッサンスとはまるで逆の人間主義に覆われている時空間にいる以上、どうしようもないことなのだ。多くの現代人も当然そのレベルで納得しているだろう。ちなみに、「三番叟」の省略部分を記しておく。神と人とのつながり。かつての日本そして地方でも大合併以前は当然であった詞章である。「三社の神の。舞楽より。国常闇もほがらかに。人の面もしろじろと。面(おもて)白やの詞を始め。今人の世の俳優(わざおぎ)に。神といふ字のへんを取り。申楽と申すこそ。実(げ)に恐れ有り神遊び。四海浪風納りて。高砂の松の葉もちりやたらりは真言秘密。狂言綺語(ぎよ)の道直ぐに。三仏衆(じやう)の因縁謂(いわれ)。ワキ能しゆら〔修羅〕事かつら〔鬘〕事。」
 太夫と富助、力強く重みも感じられる。あとは上から注いでくるようなもの、「宣ル」とでも言うべき超越性がほしい。古靱・道八のSPが残っているが、今聞くとあらためてとんでもないものだとわかる(現在、HP『輝ける義太夫の星』の特集でその一部を聞くことができる。実に有難き哉。「荘重」とはどういうものか、是非お聞きいただきたい)。文雀師が遣うといえども、面を着けなければならぬ、それが翁の神性である。ワキは若男だが千歳、三輪宗助が清新に意あって勤める。が、人形がよくない。のしのし歩く、舞が堅い、一つの動きと次の動きとのつなぎがぞんざい。アラモノ遣いの方が合っているのか。三番叟は津国と新で元気あり。白尉は玉女で実に立派なもの。黒尉は玉也だが期待したほどではなかった。又平カシラの実直さを見たと言えば聞こえはよいが、白との対照が浮かび上がらなければ意味がない。チャリで始末を付けられないのは当然だが、性根を動きで遣ってみせることはできるはずだ。もちろん頑張っているのだが、勘十郎と玉女の三番叟を見ている以上、どうしてもそれが基準になってしまう。今回の千歳となら釣り合うかもしれないが、白尉に圧倒され格下に見えてしまった(ただ、左は白尉よりも上か)。今年の「三番叟」、白尉の振る鈴の下ならば、頭を垂れてその寿の種を受けようと思った次第である。
 
『太平記忠臣講釈』
「七条河原」
 鹿踊りで始まる。立端場ではよくあることだが、この旋律を聞くと寂しくはならず陽気な賑わいが感じられる。ここも「立君の憂き勤め」とあるものの、「夕暮れごとに打連れて〜十文づつの揚屋なり」とある人間臭い生活感が重要であり、非日常も常態化すれば日常になるということでもある。その後のお百とお君との会話がそれを物語っている。ただし、おりゑにとってはそうではない。「帯を解かぬが私が潔白」。そうなると、この場所が「薬師寺次郎右衛門が七条の一構へ」であるということが、おりゑの宿命を記号的に決定付けているということになるのだ。敵の場所で命を繋ぐということが「潔白」であるはずもない(「渇しても盗泉の水を飲まず」がストンとこないのは武士ではない)。いやそれだけではない。「厚化粧」の白、「白壁」の白、「雪」の白、そしておりゑの出は「なりと所体は黒白」であった。作者の仕掛けは実に巧妙なのである。もちろん惣嫁たちにとっては何ら関係のないことだ。記号ではなく実体だけが問題であるのだから。「後は笑ひになりにけり」そこにはまた“下層社会”などという見下した意地悪い用語ではとうてい表現できない、強さと厚みをもった全肯定的な大きさが感じられるのである。これを下品と称する現代日本人がいるならば、それこそ全世界の貧困を踏み台にした虚栄を自らの才能の結果だと誤認して気付かない、愚かな生命体以外の何物でもないだろう。少なくともその存在を“人”と呼ぶことはできまい。「人でなし」とは何とも奥深い言葉である。
 千歳清治はこの事情を活写する。お百はもちろんのこと、お君に様々な男客もうまいものである。そして対極にあるおりゑと侍客、浮橋も見事である。あとは「涙の袖は〜身とならん」の落シに収斂する兄嫁と義妹の情愛が、聞く者の胸に涙を湛えさせることができるかである。それが出来て段切の急展開に柝頭、切場へと繋がれば最上であったのだが、今一歩及ばなかったか。それにはまた、段切あるいは公演終盤へ声が保ちきれないという千歳の発声に関する課題が重なる。力を温存せず毎日全力投球するのは当然だが、それでもなお問題など感じさせない太夫こそ、切語りなのである。清治と組んでから一層の進歩を聞かせている千歳には、乗り越えられないものではあるまい。
 人形はどれも生き生きと遣って見せ、七条河原の人間模様をよく描いた。中堅若手の進歩の跡が見える舞台であった。中でもお百と侍客には感心した。主役級については切場で述べる。

「喜内住家」
 端場を文字久清志郎で、ここのところ定番の二人である。まず、疱瘡除けの赤尽しが一級品の民俗資料、ここを活写。おりゑおむつの女二人は想像以上の出来。そして「堅く閉ぢたる障子のうち」でガラリと変化して喜内の出、母は驚きから、喜内の孫自慢に至るのだが、三日目は例によって感心しなかった。ところが中日過ぎに聞いてみると、すべてが改善されていて別人のごとし。立派なもので、これでこそ師匠の端場である。文字大夫を襲名しての立端場語りも現実味を帯びてきた。山城の近代心理主義が行き着いた一つの結果である住大夫の「情を語る」わかりやすい義太夫の後継者は、文字久を措いて他ないのである。清志郎が若手有望株であるのは言うまでもない。
 切場、この現代日本人からすれば陰々滅々たるところを好んで得意としたのが山城少掾である。綱弥七も聞いたが、いずれにしても侍の一字、武士の二字が魂となって背骨を貫いていた。喜内は当然だが重太郎もきっぱりと厳しかった。「重太郎出かした」この賛辞が何故「わつとばかりに咽返る」との詞章にスエテでずっしりと一の音に落ちなければならないのか。真実大落シとして聞く者の胸にビシリと決まらなければ、この一段は封建時代の忌むべき不幸の典型としてしか受け取られないであろう。子を殺し、妻を自害させ、病父を見捨て、老母を残して敵討ちの名声とは笑止なり。そうなってはどうしようもないのだ。もちろん現代日本人の多くがそうとらえる危険性ははなはだ大きい。階層社会の現出は表面上「平らに成」った時代に紛れ、「いま・ここ」の薄っぺらな自由が謳歌されているこの国である。そういえば、『ローマ人の物語』も次回いよいよ完結とか。流れに乗った観客動員だけを目指していれば、とりあえずは何とかなる。しかしその行き着く先は…、言うまでもないだろう。その点において、この時代の正月公演に「喜内住家」をもってきたことは、その意図がどこにあれ、大きな意味を持つものであったのだ。ただ結果としてどうだったかは別である。
 住大夫錦糸の芸は卓越しており、抒情味も十分である。が、やはり時代物というサムライ・もののふの世界を正面から厳しく鋭く描ききらなければ、少しでも弱くなると本作などはどうにもならないのだ。思えば、秋の「勘助住家」あるいは「山科閑居」も立派なものであったが、何かこうとてつもなく大きな世界がその外に広がっており、そこに到達すべく、綱も山城も、そして『素人講釈』での大隅も摂津大掾も、苦しんでいたのではなかったか。三味線にしても例えば『道八芸談』の記事が突拍子もないと感じられ、それに附した武智鉄二の注がまた大言壮語と感じられてしまう「いま・ここ」。時代が違う、そう、演者の責任ではない。が、それならば有無を言わさず納得させてしまうのが芸というものだろう。住師ももちろん情を語ってその域に達している。しかし、「重太郎出かした」に意は十分あったとはいえ、「さてもさても武士の義理ほど辛いものはなし」「死しての後の名こそ惜しけれ」など、やはり弱かったと言わざるをえない。時代物の場合、「慄然とする叙事性」とでも言うべき巨大な歯車が、その背後に聳え立ってなければならない。故津大夫が、最後の時代物語り(少なくとも現時点においては)であったと感じられる理由も、そこにあるのだろう。その叙事性を認識して生きる人間は、もはや「狂」となるよりほかはあるまい。「必死」という語も、そこにおいてこそ真実の姿を見せるのである。段切の詞章「その吉左右とは愛し子が命を捨てに行く旅路」「冥途の案内は嫁と孫三途の川を急ぐらん」とは老父母の悲嘆であるが、語り手の強烈なメッセージでもある。究極は「しをれ勇んで出て行く」と、「しをれ」を通奏低音ではなく前面に押し出していることで、こうなると、まったく(全一音上がってはいるものの)陰々滅々たる終結も当然のように見える。しかし、それこそ「武士道」という大看板を背負っていることが明々白々たる証拠であるのだ。光の輝きが広く強いほどに、その影の部分を同等に忘れてはならないからである。光なき「忠臣講釈」は全くの闇となる。立端場から暗示されていた白黒の記号的対立、この白を浮き立たせるだけの強烈な力と精神性がなければ、勤められる一段ではなかった。死は生を輝かせる、その白の捨て石が最後の最後に効きましたな、大きな碁盤全体を見通し掴んでいなければ、その石を解釈することなどできるはずもないのである。
 となれば、人形もまたよく健闘しているが物足りないのは仕方ないところか。喜内の文吾は病中の鬼一カシラを活写しているが、物凄さには至っていない。これは、病だから強くはなれぬという芸談レベルを突き抜けた力のことである。重太郎の紋寿はマユを遣い過ぎる。これほど心中が揺れては敵討ちも覚束ない。もっとも大変わかりやすいことはわかりやすいのだが。おりゑは難しい。真実を知っての後に芸が出来るならよいが、その時は書き置きがあるばかりである。立端場と端場とは遣えている、が「胸に痞」を持ったままの切場は解答が出ず仕舞いであった。とはいえ今回はやむを得ない和生である。女房の紋豊は興醒めて悪態を付くところに強さがほしいが、素直な生活感に味はあった。おむつの玉英はよい。無論屈折した心理は必要ないからだが、本当によくなった。あのモタモタは何だったのだろう。芸が化けるという一典型だろう。

『卅三間堂棟由来』「平太郎住家より木遣り音頭」
 うってかわって東風の伸びやかさ。端場が呂勢で、この人は義太夫浄瑠璃という音曲から、情を自然に紡ぎ出してくる。南部、呂そして嶋大夫と学んできた賜物でもあろう。今回もお柳の表現ならびに平太郎との会話に情愛が感じられた。あとは深みとコクそして切り込み方だろう。三味線代役弥三郎、そうすると淡泊だが、弾き殺さないのもこの人のいいところである。ただもう一段の欲を出してもらいたい。
 切場、嶋大夫清介で極まる。「風が持来る斧の音」凄さが感じられ「身内の苦しみ」がひしと伝わってくる。お柳のみどり丸と平太郎への述懐が、それぞれの思いとして際立てばなおよかったろう。とはいえ、「葛の葉」ほどの厄介さはなく、その分東風の伸びやかさに乗せていけばよいとも言えよう。草木の精である分淡泊な表現か。もちろん情愛に隔てのあるはずもないけれど。木遣り音頭はみどり丸の悲哀が底に漂って好ましかったが、正月公演の追い出しでもあり、心地よい晴れやかさがもっと残ってもと感じられた。全体として佳品というべきだろう。
 人形は、文雀師のお柳が持ち役、平太郎を勘十郎が常にワキで支えに回り、夫婦の情愛を描出。蔵人は孔明カシラだが、捌き役として玉輝がきっちり遣う。母は無難。ちなみに時代物とはいえ、これは母の横死をそのまま出してもどうなるものではなく、この出し方でよかろうと思う。その結果全体が童話的な印象でもよしとすべきだろう。ここもまた「葛の葉」とは大きく異なるところである。
 

第二部

『桜鍔恨鮫鞘』「鰻谷」
 犠牲となった妻が書置で心情を吐露する。義妹が読むか、わが子に語らせるかの違いはあれ、正月公演昼夜の趣向の重なりは眉をひそめざるをえない。とはいえ、この「鰻谷」は実に面白く、詞章を追っては惨劇に目を覆うばかりであるのが、この上ない節付けの妙が聞く者に快感をもたらす。まさしく音楽芸術の極致である(それに比して鑑賞ガイドは相変わらず文学に偏しているが、「情を語る」第一人者の意をよく体しているとも言える)。また、三カ所に配された唄がその感を一層強めているが、この「鰻谷」では、それがよくある心情の「なぞらえ」にとどまらず、ハルフシの位置にあって主人公らをそのままに行動させている。したがって、この唄をいかに聞かせるかが、他の浄瑠璃以上に重要となってくるのである。「音曲の司」義太夫浄瑠璃を代表する曲であり、漱石の『猫』に登場するのもまた宜なるかな。大掾が語り、大隅はもとより得意曲としてSPにその至芸が残されてもいるのである。
 端場を松香と喜一朗。三日目は何ともつかみ所がなかったが、中日過ぎは見事にこの端場をモノにしていた。鹿踊りは島の内商家の賑わい、その「余所には見えぬ裏表」も語り分け、弥兵衛登場からの会話も軽妙で、中堅からベテランの域をうかがわせるもの。三味線も父の代役というよりも本役で、お妻の独白への移りはとりわけ見事、太夫が声柄でなかったのが惜しまれるが、切場への情感作りは出来たと評してよいだろう。
 切場、綱大夫清二郎。「音曲の司」体現にはこの両人しかない。母の出からは抜群で、八郎兵衛、弥兵衛、そして極めつけの銀八と、息もつかせず段切までぐいぐいと持っていった。もちろん「鰻谷」がいかに面白い浄瑠璃かを再認識させてくれたのもこの両人である。そこで、放置されていたと言っていい津大夫のビデオとSPの大隅清六をあらためて思い出してみると…、いやいやこの「鰻谷」とんでもない代物であったのだ。まず、八郎兵衛の狂気、元武士でありわきまえも十分な男の凶行、銀八の言うキチガイが文字通り迫ってきたかどうか。そして唱歌の味わいは十分伝わったか、お妻の心情吐露が琴線に響いたか、理性が司る言葉の内容を、音曲に乗せて運ぶことができたか。こうなると、流石のご両人も今一歩だったかもしれない。雑音の彼方から聞こえてきた大隅清六の浄瑠璃、まさに天才的名人芸である。これを記す『素人講釈』また『道八芸談』を信じられない人々には同情を禁じ得ない。自分の感覚(とそれに媚びる流行、また流行に擦り寄るそれ)をのみ絶対とする現代日本人の信仰とは哀れなものである。
 人形陣、お妻の紋寿、あと少しの切実感がほしい。八郎兵衛の和生は根の人格がよいことを感じさせたが、狂気となると至らない。玉男師ならでは…。母の玉英、いいだろう。底を割らずかつ卑しくなりすぎず。弥兵衛と十兵衛のコンビはよい。弥兵衛の照れを公演後半ではやめたが、照れるなら相応の嫌らしさが必要であるから無難だろう。銀八はここのところようやく玉男師の弟子だと納得させるように、今回も予想以上の出来であった。

『妹背山婦女庭訓』
 この中途半端な建て方は太夫のためでも三味線のためでもなく、簑助師の女形人形を一定の枠時間内で見せるため。もちろんそれは正しい。ならば、外題そのものの解釈は措くとして(「聞所」を参照されたい)、人形をはじめとする三業の成果に絞ってのみ述べる。
「道行恋苧環」
 お三輪はヒロインであることが、簑助師の遣う人形で一目瞭然。もちろん勝ち気な田舎娘であり、家は商家であることも明快だ。見事。橘姫の清之助がこれとは対照的に遣ってすばらしい。中の男郎花は影が薄くなるところだが、玉女は存在感を示したのが成長の証。太夫はしんの英は適役というよりも、このあたりは何でもしっかり勤められる実力を示す。ワキを南都が抜擢されて、これはまた想像以上の出来。当然の敢闘賞だが、南部や小松を聞いてきた者としては、身を任せられる域には達していない。求女は始と咲甫、ともに個性を感じさせながら道行をわきまえてよし。三味線はシンの団七は太夫と同断。ワキの団吾はおやと思わせる音を出せたのが進歩。三枚目の清馗は幅と厚みのある音色が好ましい。有望株はここでも上昇。

「鱶七上使」
 端場、相子は「いざ白雲」と語ってしまっている。相生の家の芸、何としてでも伝えていただきたい。相生翁も忘れられない魅力があった。清丈は無難。睦、驚いた、すばらしい。若手勉強会などでぜひ立端場を聞かせてもらいたいものだ。語る姿勢も声量も声質も仕丁二人のコトバもよい。とにかく真っ直ぐに義太夫浄瑠璃をとらえている。聞いていて違和感もない。嶋大夫の弟子にして、呂勢からも学ぶことができる環境、生かせよ伸びよ。睦とは調和の意だが、その名をよく体現した語り、本公演の手柄第一と言ってよかろう。龍聿も悪くない。
 奥は伊達さんの持ち役で、今更どうのこうのと言うだけ野暮だが、今回もとりわけ中日過ぎに聞いたときに、面白く魅力的であった。実に味がある。鱶七も入鹿も自家薬籠中である。清友の三味線がまたよく合致し、鈍角の良さというと語弊があるが、千歳や錦糸が逆立ちしてもどうにもならない世界がある。豊かな多様性が存在する喜びを感じたい。その上、この持ち役は新たな興味を引き出してもくれた。四段目の端場(実質立端場)である以上、例えば前半と後半の官女が主体となる地の処理など、金襖物の特徴を引き出すことができるのではないか。別の魅力を探ってみたいものである。
 人形は、鱶七の玉女は大きいが野性味が不足。が、これからだ。入鹿の紋豊も横道な権力者には至らない。とはいえ、床がそれらしく遣わしてくれたので幸いと言えよう。

「姫戻り」
 ここは、公演記録で南部松之輔を聞いてしまっのがよかったのかわるかったのか。とても素敵な佳品であることがわかったのだが、ナマでそれを体現してもらったことがない。寛治師に津駒で期待が大きかった分、うーんというのが正直な感想である。橘姫の清潔感が描出されたと言うべきなのか、やはり太夫の線が細い。となると、寛治師はもとより弾き殺したりはしないから、幅も厚みもある音が浄瑠璃に十分は反映されなかったようだ。端場で参りましたという体験の再現など、高望みは後が辛いということとなった。
 人形は橘姫の清之助に尽きる。道行ではいささか緊張感から堅くなっていたが、ここでは理想的な令嬢であった。これで「月の笑顔をぴんと拗ね」(「杉酒屋」)などどう遣ったか、是非とも見てみたかった。なお、求馬代役の玉志には賞を呈したい。

「金殿」
 四段目で金襖物なら美声家の語り場、とはいえ、ここはかつて津寛治も勤めたことがあり、よく考えてみれば、ヒロインは「片鶉」であり、官女はいびり役、金輪五郎は前段の鱶七で、豆腐御用のチャリまでついているとは、むしろ異色な四段目の切場であろう。ここを咲と燕二郎が奥として勤めるが、立派な切場になっていた。 竹に雀がより哀感をもって美しく響いたならば絶妙であったろう。「横笛堂の因縁かくと哀れなり」の「哀れ」で美の極限に至ることが出来たなら、受領格の浄瑠璃であるのだ。つまり今回は、チャリは手の内で、官女の突っ張りが効き、お三輪の狂気も十分、金輪五郎の大胆な大きさも出、立派に切の字が許されるのである。三味線がこれまた立派で、この大きさと幅が感じられては、燕三襲名に異を唱える者は一人たりとも存在しないはずである。ちなみにカゲ打ちがまたこの立派な一段に触発されてか、しっかりと出来ていた。
  人形は、簑助師の華やかかつ的確な遣い方が目に焼き付く。あの脱力した姿は師が編み出した表現であり、人形遣いの工夫として長く伝えられるものである。このお三輪を見るために劇場へ足を運ぶ観客の存在が、補助椅子を用意させるのだ。いい意味でのスター制は必要であり、それがミドリ建てから通し狂言に及ぶことができた時、最盛期であると言えるのだ。東京国立の昭和40年代はそのことを象徴しているのである。さて、金輪五郎の玉女は型も極まってきたし、大きさもあるが、「勇み立つたるその骨柄」「鍛へに鍛へし」となると、粗野と表裏一体の勇猛果敢とは見えずおとなしかった。ここは勘十郎の方を見てみたいというのが本音だが、これは玉女の実力をいささかも貶めるものではない。立役の守備範囲は広いのであるし、玉女の真骨頂はまた別に目にすることになろうから。 ともかくも今回の「金殿」は、簑助師のお三輪を十分サポートして余りあるものであった。四月燕三襲名を控え、充実した内容に満足である。