平成廿三年一月公演(5日・15日所見)  

第一部

「寿式三番叟」
 なぜ劇評を書くのか。自己顕示のためというのはわかりやすいが、これは表現者たるもの多少でも有しているのだから置いておくとして、やはりそれは対話を求めるからである。すばらしい舞台を見聞きしたい、それが実現していればその感動を綴ればよいのだが、たいていはそれを体験したいがために苦言を呈するという形を取る。もちろん技芸員が一顧だにしないというのであれば、空谷に向かって吼える虎のようなものになるのを、膨大なエネルギーを消費して書き続けているのには、耳と目とを鍛えるべく努めてきたという思いがあるからだ。そして、再び劇場の椅子に満ち溢れた期待をもって座りたいと念願するのである。しかし、斯芸は三百年の伝統を背負いその中で磨き上げられてきたもの、安易な印象批評によってその実現が図られるものではないこともまた確かなのである。
 さて、三番叟である。正月公演はもちろんのこと、慶事にもよく出されるから、新鮮味はない。それを、言祝ぎという神事の格によって示すことが可能であるかどうか。今回は寛治師の三味線によってそれが現前化された。まず、ソナエから三味線の間の大きさに圧倒される。他の誰が弾いても絶対に保ちきれまい。鈴の段は往々にして激しく早く弾かれ、それが高揚感をもたらすのでもあるが、寛治師のシンは鷹揚として迫らず、神さびとはまさしく此の謂いであろうと思わせた。これもまた他の三味線弾きでは単調と弛緩としか聞こえてこないものであった。太夫陣は予想以上に良く、各中堅若手のクセが抑制されていたのは、やはり寛治師の指導によるものであろう。もちろん「寿」「式」の格をわきまえさせたからである。人形は正直なところほとんど感興をもたらさなかった。翁の和生は余分なものを排除したと捉えればよいのだろうが、象徴的とも超然とも感じることなくするすると進んだから、自然派という評言を与えておく。千歳の勘弥は神事だから慎重というよりも恐る恐る遣っているように見えた。若男を遣うことが増えたが、派手な動きがないこともあり色気が出せないと無個性で終わることになるだろう。三番叟の検非違使はきっちり隅々まで行き届いて遣うのが当然で、その通り幸助が遣うからホープと見なされるわけだ。又平の方はどうなのだろう、まったりしているとでも評すべきなのか。前受けがいいとは言わないが、これも個性が見えてこなかった。玉志には検非違使の方が映るということだろう。それは悪いことではない。彼の個性は確かに故師の一面を継承しているのであるから。

「将監閑居」(『傾城反魂香』)
 端場は大抜擢と言ってよい。切場が津寛治なら伊達路団六なのだから。それでも好成績が続く相子と清馗なら納得がいく。しかし作品の高さがそれを阻んだ。マクラも力無く全体に平板、ただ将監だけは性根を掴んでいたのが不思議だったが、この人は公演後半に良くなるのが今回も例外ではなくきっちりまともになっていた。ただし面白みには至らずで、これはやはり改作でも近松物という壁が存在することを示す結果である。ちなみに、かつては端場の出来が悪いとぶん廻しの後ろに控えている切場太夫が襖をコツコツと叩いた、と芸談などに記載されているが、今回それが聞こえたように感じたのは空耳であったろうか。住師ならその見識はあって然るべきであるし。
 切場。この「吃又」はあまり好まれない。近松原作はその近松の名が前面に出てこないと(近松物表示があるとそれだけで有り難がられる)、詞章も節付も人形浄瑠璃全盛期に比して質実であり厳しいから、耳にも目にも派手に迫らず前受けしないのである。しかも、主役たる又平は名に拘って妻にも同輩にも当たり散らし師匠からも屈辱を受ける人物で、それが吃音という身体的障害(敢えてこう表記する)に基づいていることもあり、観客としては笑い飛ばすこともできず気分が解放されることはない。名は実を伴う、それがわからない主人公というのは共感よりも不快感をもたらすし、現象と本質でいえば前者に振り回されているくせに後者こそ正しいとする現代日本人には、どうにもイヤな男に感じられるのだ。それを切り裂くのは、「名こそ惜しけれ」が芸術家魂であるということ、土佐の名字を許されるとはいわば武士の本懐であるということ、そしてその「名」への執着は狂そのものであり、「姿は苔に朽ちるとも名は石魂に止まれ」との筆勢は、身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂たる二十一回猛士の志と通底するものであるということ以外にはない。一言で言えば、世話物でなく時代物であると理解されたかということであり、それらが強烈に観客の心を抉るとき、本作の今日までの存在理由が真実の輝きを発する。それはまた、この曲が「風」を伝承するものであることとも直接関係してくるのであるが、「風」については以下に鴻池幸武の文章を引用することを以て記しておく。
 ―明治時代では、先代大隅太夫と故組太夫の二人が「吃又」の名人といわれて居り、二人とも清水町団平の直伝であると聞いている。従って面白い事には、明治時代に於ては、「吃又」の浄瑠璃が殆んど彦六座許りに出て居る事で、文楽座の方では僅かに先々代呂太夫位が一回語ったのみである。彦六座は右の二人は勿論度々出して居るが、堀江の弥太夫も稲荷座で語って居る。弥太夫のは吃の技巧の点では優秀なものであったらしいが、浄瑠璃の「風」という点では大分崩れていたと推定される。―(原文は旧字旧仮名)
 これらの条件を満たした床を近年において探すと、近い所では伊達団六のものになるけれど、やはり究極は津大夫寛治のそれに行き着くのであり、このことに関しては、補完計画で詳細に検討したからそちらを参照されたい。
 本作が、最後めでたしめでたしで終わり又平首のチャリも効き、しかも一時間で完結するから、正月ミドリ建て公演に最適との理由で命脈を保たされているのなら、その段切の柝頭を聞いた後に残るものは、決して「名」ではないだろう。いや人間国宝を聞いたし見たということであれば、それも「名」には違いないことになるということか。予定調和的でも声が掛けられたのは、バーゲンセール中だからという理由ばかりでもなさそうだ。それにしても、近松原作の跡はありありと残っている本作に関し、こんなことをつらつら書き記したのも、その「名」のなせるわざかと思わせられたのである。
 さて、今回住師が錦糸の三味線で語り、簑助師がおとくを遣うのだから絶品になるのは当然のことで、女房の細やか(濃やか)な愛情ぶりは鮮やかに浮かび上がり、又平(玉女)夫婦の喜びは将監(文司)夫婦の慶びとなり、観客もまた悦びとして共有したことは、成功の二字で表現されよう。なお、襲名した文昇について記すのは今後を見てということにさせていただく。

『染模様妹背門松』
「油店」
 お染久松物ってこんなに面白かった?とは後ろの女性客の口から思わず出た言葉であるが、今回の上演を如実に物語っているとも言えよう。端場の咲甫と喜一朗は、何と言ってもまず師匠の家の芸とでも言うべきこの一段がどういうものかわかっているし、薫陶により大分浄瑠璃が動くようになってきたので、マクラから安心して聞いていられる。人物とそれに伴う詞章の語り分けが自然にできれば大したものだが、お染とお糸の差などやはり中堅でまだまだこれからだと思わせた。
 切場。もちろん伝説の綱弥七も予習して臨んだが、5日に聞いて超絶の一語に尽きると驚嘆した。入れ事も洒落が効いていたが、全体として引き締まった構成の中に各人物の個性が際立ち、細部まで神経が行き届いて、これを聴かずして年は明けたと言われまいと感じた。咲大夫と燕三による完成型の一つと言ってよい。かつて南座での京都公演のために用意した一寸聞所を読み返しても、まさにこの通りという、亡父の継承者たるに何の依存もない語りであった。
200407kyoto.txt
 中日過ぎるともはや自家薬籠中のものとなっていたので、善六と源右衛門のチャリなども更に大受けであったが、山家屋清兵衛が去る時に拍手がなかったのは、人形の所為ではなく脂が乗りすぎたためであろう。しかしこれは、浄瑠璃義太夫節とはまさにライヴであり一期一会そのものであることの証拠なのである。
 人形陣。善六の勘十郎は悪ノリせず自然にこの私利私欲に固まった小人物を描いてみせる。立役でないときは、人形が床をリードするという印象を持たないのだが、そのことがまた勘十郎の遣い方が正攻法である証明にもなっている。それを源右衛門の勘緑が目前で見ながら相手役を勤めるのであるが、息もピッタリで性根をわきまえて遣うという見事なものであった。この二人を捌いて懲らしめる山家屋清兵衛の玉也は、動くべきところで動いて存在感を示す分別ある大人の男を見せた。おかつは実はこの一段の心棒となる役割を与えられているのだが、ベテラン勘寿ならではの安定した遣い方で求心力もあった。お染は清十郎で大店の娘として美しく映るが、端場での久松との色模様がもう少し強くてもと感じたのは、これほどの清兵衛でも嫁入りを嫌う、恋は思案の外とはまったくその通りだと思わせるものが欲しかった。久松の遣い方は若男がよく映っていたものの、やはりお染と共通する思いを抱かざるを得なかった。多三郎とお糸はこの中にあってはとりたてて言うほどのことはない役回りだが、それでも個性を感じさせられれば大したものだがということになろう。下女りんは遣い方でその性根が異なって見えるから面白く、前半の若手は長年の奉公で世慣れした様子、後半の若手は田舎出のもっさり感の中に好感が持てるものになっていた。

「蔵前」
 ここは、切場で追い出すことはできないために付けられたものである。「質店」が出ないし正月公演でもあるし、改作で行くより他はないこともわかるけれども、今更善六のチャリを見せられても戸惑うばかりである。いやいや、お染久松の情愛そして親太郎兵衛の愛情が主眼であると言われるだろうが、こう切り貼りされていてはどうしようもあるまい。以下に正当な詞章をリンクしておくので、是非とも目を通していただきたい。
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon/somemoyou.html#name4
 床は団七の肩衣揃で一段の格を示すが、追い出しの掛合は所詮掛合であるし、お染の詞も白骨の御文章も省略されているとあっては何とも。英の語りは格の違いが明らかであったが、善六の松香はあの切場の後では損な役回りとしか言いようがなかった。人形もここで初めて出る父親の玉輝が同断。

第二部

「雪責」(『ひばり山姫捨松』)
 前半を千歳と清介。ヲクリとマクラから一段の風も明瞭で、工夫はあるし性根も語り分けられて見事。これで、「桜の色と梅の香と」がうっとりできれば至高となったであろう。端場扱いとしてならまったく文句はない。
 切場の後半、嶋大夫の持ち役となった感がある。三味線の清友は後半病休で燕三となったが、燕三のこの昼夜切場二段は戦後まもなくの弥七を彷彿とさせる、大したものである。心配なのは清友で、二月も引き続き休演の上に四月には名前がない…。さて、説教の哀切から雪責の無惨は被虐美もあり、加えて父娘の情も通じており段切に向かって間と足取りが面白く力もあって絶品の仕上がり。人形は文雀師の「きれいでかわいそうなお姫様とお客様に思っていただけるように」との言葉通りで、有言実行は流石に人間国宝なのであった。岩根の玉也も気合は入りながら格を失わず新境地を見せたが、公演後半の去り際に姫へ疑いの視線を送ったのはどうだったか。解釈が行き届いていたというより、岩根の性根を複雑にしてわかりにくくし、「王子の館へ走り行く」とある簡明な詞章が無効となり、その後「猫又婆」の罵りでの痛快さを奪い去る結果となってしまった。勇み足だったと総括しておく。豊成は勘寿で問題ないが、人形だけで慈愛が描出できたかとなると、孔明首の難しさが浮き彫りになった。浮舟と桐の谷は後者の方が人物像も明快で動きもあり簑二郎に合う、前者は姫君救出のシナリオを自ら書いて敵方に潜入するという奥行きがある分難しく、清五郎の落ち着きは買うが深みは描出に至っていなかった。広嗣は陀羅助首程度だとわきまえられていてよい。なお、今回久しぶりに段切柝頭のタイミングと音がすばらしく、本読みと耳が良くできていると感心した。もちろんこれが当たり前だとならなければ。

「新口村」(『傾城恋飛脚』)
 公演前半の御簾内にはハッとさせられた。声もよく出てよく通り三味線もこなれている。
後半もよかったが、コトバの足取りが問題。前回もそうだったからこの太夫にとって当面の課題となろう。
 切場の前半、清治師と呂勢は番付発表から注目していた(四月は掛合と理解に苦しむが、源大夫襲名のご馳走役としての特例だろう)。近松原作ではそっけないから節付がとりわけ肝要な改作である、その始まりのハルフシがこれほど美しいとは、まずこれで虜となった。今回の花菱紋は故師南部大夫のもの。南部は越路すなわち摂津大掾に繋がる美声家の称となったが、なるほどとそこまで納得させるマクラであった。「凍える手先」からがまた筆舌に尽くし難い。男の忠兵衛は先へ先へと気が急いている、女の梅川は覚悟しているとはいえ後ろ髪を引かれいざようところがある、その足取りなり運びなり変化なり、そこから自然と情が映ってくるものだなあと聴き入っていた。「ハア雪が降るそふな」の表現にもハッとさせられ、公演後半には孫右衛門を見出してからの情感にも長足の進歩があった。それもこれも、清治師の三味線一撥一撥に情感なり模様なりが含まれているからで、その指導をよく体現できている呂勢がまたすばらしい。「景勝下駄」の後でも声を潰すことなく、今回もまた作風に合わせてうっとりと聞かせたのはただごとではなく、清治師にはこのまま切語りまで大成させていただきたいものである。「新口村」が人気曲として伝承されてきた理由、それが如実に感じられたことは、作品を語り活かし弾き活かしてきた伝統を受け継ぐ者として、第一人者たる資格を有していることに他ならない。詞章は語らず床をして語らしむ、だから太夫が語るわけで何を今更当然のことをというのではない。詞章すなわち作品とそれに付せられた節付の真意を体現することが、床に課せられた使命であるという意味である。これが当たり前のことだと言い切れない現状、問題の根は深いところにある。
 切場の後半は綱師の孫右衛門に尽きる。清二郎の三味線がまた手本となる弾き方。四月の源大夫藤蔵の襲名は、この世界において伝承がいかに重要であるかの証拠でもある。この名跡を懐かしいと思う世代が残っているのは幸いだった。
 人形は、梅川の紋寿が匂い立つ色気を内に秘め、忠兵衛と孫右衛門を立てながらリードするという巧みな遣い方。忠兵衛の和生はそれによく和しながら若さも描出できた。孫右衛門の玉女は確かに老足であり意見も応えるが、最後の見せ場での立ち姿の解釈は独自のものであった。風雪強く傘を傾け見ていられないから傘を閉じる、これならすっくりと胸に入ってきたのだが、どうなのだろう。
 ちなみに、今回も観客が舞台世界と共振していないことが明らかになった。意見に堪らなくなった忠兵衛を「今ぢやない今ぢやない」と孫右衛門が抑えるところ。ここで笑いが来るとは思いもよらなかった。涙が滲むはずであるのに。どうやら、局所反応状態が一般化しているのではと考えざるを得ない。人形浄瑠璃の世界に入らないのか入れないのか、いずれにしても、これではマクラも段切もない、構造も流れもない。なるほど、ワゴン上を掴み取りのバーゲンであればこそ掛け声も大安売りとなるわけである。津や越路がいた頃、ジワが来ることはごく稀でも確実にあった。いくら活性化しても、それがカンフル注射であれば体力は弱るばかりである。春は来ねども花咲かす浄瑠璃義太夫節が、春は来れども花咲かずと、立春過ぎて書かねばならぬようでは、馴鮨は永遠に出来上がらないであろう。いや、現代には回転寿司があるから問題ない、そう言われればもはや口を閉じるしかあるまい。

「小鍛冶」
 景事は一度でいいだろうと、後半の昼夜入替後に視聴することにした。寒夜でもあるし。ところがこの舞台はどうだと、一度目を逃した愚を悔やむことになってしまった。ワキの清十郎も凛としていたが、それ以上にシテの勘十郎の存在感が群を抜いていた。前シテは神の威厳が背骨に通っている老人、後ジテは稲荷明神だから使いは狐なのだと明快、富助以下が力感をもって奏演し、太夫陣も健闘したことと相まって、心地よく劇場を後にすることができた。唱歌に「村の鍛冶屋」あり、ウィーンに「鍛冶屋のポルカ」あり、ここに道八作曲ありであった。そのために、相槌を打つのが曲のリズムに合うようになっているのだが、相槌がそれを合わせに行くのでなく、その音が自然に合っているように聞こえれば、それこそ三位一体の奇跡が現出するのであろう。あと、孔明首は何もないようでいてここでもやはり難しいものであったと記しておく。