人形浄瑠璃 平成廿八年四月公演(2日・16日所見)  

通し狂言『妹背山婦女庭訓』

 気が付けば、三大狂言よりも上演頻度が高くなっていたという、現代日本で一番人気の外題である。一方、かつて独参湯と呼ばれていた『仮名手本忠臣蔵』の頻度が三大狂言中最も低いというのも、現代日本を象徴しているように思われる。それはさておき、人気の理由を考えてみると、初段、二段目の地味さは三大狂言とは比較にならないほどであるから、両床の三段目とそれ以上に道行以降のお三輪をヒロインとする四段目の魅力によるものであろう。今回の印象もそして成果も、やはりそこに集中していた。

第一部
「小松原」
  前半の主役である悲劇の男女、久我之助と雛鳥が出会う場面で、とりわけ雛鳥にとっては、次の登場がメインの「山」であるから、ここでの印象付けが重要な意味を持つ。その雛鳥、人形も立女形クラスが持つが、黒衣であることもあり、この場は若手に預けることも多い。床はと言うと、掛合で相応のクラスが勤めるから、上記印象付けが成功するかどうかは、むしろおぼつかないことの方が多い。逆に言えば、中堅若手が頭角を現し認められるチャンスでもある。では、今回どうであったか。残念ながら至らなかったと言わざるを得ない。太夫は南都で、声色など作らぬ大音嬌声で一杯に語るのは正攻法であるが、「派手を揃へる風俗の中に際立つ武家育ち」の詞章がしっくり来ない。人形は簑紫郎と配役にあり、蓮っ葉さはもちろんくだけた感じはないもののモッサリとした印象があるのは、武家育ちを重厚不動ととらえたためであろうし、以下久我之助とのやりとりの場も、恥じらいが初々しさではなくもたついた感が先に来る。清楚な気品をその出でまず感じさせておくべきだったのであろうが、中々に難しいことである。無論、批判するなら実際に人形を持って遣ってみろ、などと言われれば二の句も継げない。三味線の喜一朗も、その弾き方のみで上記詞章が伝わるかと言えば無理な話である。すなわち、文字通り三位一体で仕上げなければならないのであるが、三業それぞれの頑張りは確かなものであったとはいえ、それだけではまだまだ道遠しというのが、人形浄瑠璃文楽という芸の深遠さをも示す結果となった。一方の久我之助、こちらは幕切れまで出番があり、性根を印象付けるチャンスは雛鳥よりも多い。とはいえ、失敗すればそのダメージは倍増どころではない。今回、初日はぬるいところもあったが、中日過ぎて客席に着いた際は、まず、マクラの三輪が三味線との不即不離をよく心得、かつ締めた語りで、「美男」よりも狩戻りの凜々しい姿を感じさせる。人形も端麗な所作を見せた。雛鳥が行き過ぎ振り返っての視線の交換、久我之助にその用意が十分で、なるほど電撃的一目惚れとはこのようなものであるなと納得させた。同じ床几に腰掛けての濡れ初めは、腰元ならずとも観客までがまともに見ては顔を赤くするほどであってほしいが、そこまでには至らず。例によって腰元の所作で笑いを取るのみに終わったのは残念であった。太宰の娘と知っても取り乱さないのはよく性根を心得ており、采女の件になると、傅役としての職責を担う若者たる力量も感じられた。ただ、幕切れの憂いには不足の感を抱いた。その采女、出奔がただ彷徨い出でて来たかのような、切迫感にも欠け、性根に天然成分が見えてしまったのは、鷹揚さの表現間違いと思われる。前記憂いが効かなかったのも、この采女に責が帰せられよう。とはいえ、基本的な語りや遣い方のレベルは問題ない亘と一輔ではある。腰元二人は、活躍が小菊に集中してしまうのだが、何から何まですべての差配は、当座の機転の利かせ方捌き方まで、すべて腰元の力量次第という古典世界の常識を、眼前鮮やかに示したことで、合格点が与えられる。靖と紋臣・紋秀である。残る玄蕃は、語り(文字栄)が崩れそうになるのを三味線がよく支えたこともあり、人形も腰元との絡み故に面白く捌けたと言えよう。この玄蕃、当たり前のことであるが、次段端場と四段目立端場に出る玄蕃と同一人物なのであるが、そこに至ってこの場を思い返すことがまるでない。幸助が遣っていたということも、黒衣のこの場では印象にない。要するに、この場の玄蕃があまりにも軽薄過ぎるのである。上記二場では主人入鹿の御前であるため緊張していることもあるが、弥藤次とうまくバランスが取れていたことを思うと、やはりこの場に性根の読み込みと工夫が足りなかったということになろうか。ただし、人形は羽目を外しているようには感じず、語りも一本調子ではあったが、カシラと詞章から間抜けな小悪党という一面を強調する結果になってしまったのであろう。もちろん逆に言えば、上記二場での玄蕃が、この初段「小松原」での性根をもう少し反映すべきであったということにもなるのである。とりわけ、太夫(三味線)は同一人物を全段にわたって担当することなど出来るはずもないから、そこに統一感を生みださなければならないということもまた、人形浄瑠璃の厄介なところと言うべきだろう。何度も丸本を通して読まなければならない、それが真実である理由もここにはあるのだ。

「蝦夷子館」
  口のマクラ、「冷さ堪へ主命の重き役目と宮越玄蕃」この詞章など、前場での立ち居振る舞いから鑑みると、実にうまく性根を描いてあるのだが、これを手摺や床で表現するのは至難の業だろう。これを書いているのも、実際劇場の椅子でそう感じたのではなく、あらためて詞章を読み直して気付いたことであるから。やはり本読み百回とはよく言ったもので、作者の筆が実に念入りに運ばれているということを認識させられるのである。さて、この端場の主役は久我之助である。床の小住・清公も人形の勘十郎もそのことは十二分に心得ている。が、心得すぎたばかりに、初日は隨分大仰で偉そうな鼻持ちならない感じにまでなっていた(語りが端場の格をわきまえていないと感じられるほど)。詞章「武気備はる」「厳めしく礼服を着飾って」からそうなったものであろうが、若男カシラの性根を逸脱してはならない。「中に優美の」「礼儀正しく」とある、凜とした端麗さが本質なのであり、礼服もその心は「君と敬ふ」ためである。加えて、武芸の試みをされたのも、前場で雛鳥との恋模様を見せた甘いマスクの色男ゆえなのである。しかしそれも、二度目来場の際には改善されており(床も引き締まった)、加えて、飛石を持ち上げたところで、積もった雪が落ち散るという演出は、理に適った工夫であり、この場の主役久我之助を引き立て、その性根を鮮やかに視覚化するという意味からも、歎息せざるを得ない業である。こういうところの気配りが、勘十郎の勘十郎たる所以である。太夫も、初日の勇み足を積極性と捉えれば、今後浄瑠璃義太夫節の全体構造を着実に身に付けていくにつれ、この大音強声かつ折り目正しい正攻法な語りは、最終的に三段目切場語りとして座頭の位置に付くところまでも、見通せるものとなろう。期待したい。
  序切がいかに重要な位置を占めるかについては、多くの評論家が述べているところであるからくどくど書かないが、とにかく面白いという一語によっても表すことができる。時代物浄瑠璃五段構成の発端に当たり、「ええっ!?これからどうなるの?!」と客席を惹きつける場所である。節付けも、アッサリした中に山場と急展開を踏まえた聞き所のあるものとなっているから、下手な二三四段目切場を聞かされてひたすら長ったらしく欠伸も出ようかと感じられるよりは、適格な序切の方が数倍楽しめるのである。今回で言うと、前半部はめどの方の愁嘆、とりわけ夫入鹿を思って舅蝦夷子を諫める衷心衷情の哀切が主眼となる。そこに大胆不敵な蝦夷子による天下簒奪の企てと、意外な形で水泡に帰する過程とが、巧みに組み合わされている。後半部は入鹿の独壇場で、舅はもちろん、ためらうことなく妻や父も犠牲にして天下を手中にする、これこそが真骨頂で、墨染衣に弓矢を持つ姿の文七カシラも異形であるし、着替えては口開き文七カシラの天子同然の姿に畏怖威厳を感じさせる。事件発端を提示する序切として、これほど鮮やかなものはそうない。
  この序切を、松香と清友という味のある床が勤める。老巧かつ熟練の域に達する両者であるが、どうも今回は面白くてたまらないというところまでには至らなかった。どちらかというと、サラサラと進んだという感を持った。したがって、実力者揃いの人形の方も、不足なところがあるというわけはないものの、際立つというところにまでは至っていなかったように感じられた。やはり、めどの方の愁嘆部を中心に大幅なカットがあっては、継ぎ接ぎ感は明瞭で、深い所まで語り弾き遣うことは難しくなるという証左である。それでも、蝦夷子の老獪さを玉志が、それを消し飛ばす超絶者的入鹿を玉輝が、悪事を諫め夫一筋のめどの方を文昇が、深謀遠慮を表には見せぬ大判事を玉男が、それぞれに描出し、中納言たる権威を見せた清五郎、蘇我家の臣として主の両翼を支える幸助と玉佳の中堅陣もきっちりと勤めたから、納得のいく序切となった。通し狂言はこの序切が付くだけでも儲け物なのである。

「猿沢池」
  二段目の口がここに付くのは、序切の後だから当然である、とは言えない。今回の通しは、初段―三段目、二段目―四段目という二部制になっているから、筋を通せば第二部の冒頭に来るべきものである。しかも、五段構成の語り口(風)から言えば、ここだけが初段と三段目の間に挟まれているという、はなはだ不自然で違和感を抱かざるを得ない建て方なのである。しかしここには最重要な事項が抜け落ちている。すなわち、上演時間の都合である。第二部は五時間を超えており、それでも「井戸替」や大団円「入鹿誅伐」を欠くという建て方となっている。そこに「猿沢池」を頭に付けることなどできるはずもなく、第一部に回ってもらうより他はないのである。
  さて、マクラは最愛の采女を失いかつ盲目となった今上帝の嘆きから始まる。とはいえ、序切の入鹿とは異なる正真正銘万乗の君の出である。何かしらそのことを感じさせるべきであろうが、三種の神器の威力を失い、中でも日の御子の象徴たる御鏡の汚れにより盲目となっているから、「世の憂さは尊きも卑きも」と詞章にある通り、先に書いた嘆きが応えればよいということになる。なるほど、この描き方は不敬であるとして戦前この二段目が丸々カットで上演されなかったというのも理解できよう。そうなると、この場の主役は淡海ということになる。勅勘赦免の願いは切実というよりも返答に否応ない申し出であり、ただちに入鹿謀反への対応を差配するところにも、源太カシラの性根がよく描出されている。人形の清十郎はよくこれを体現し、帝の勘寿も名脇役として不変の芸を見せてくれた。床は津国と団吾だったが、二度目聞いた時にマクラの哀感と幕切れ「空定めなき」の不安感が描出されていて、納得の仕上がりとなっていた。

「太宰舘」
  配役が発表され、靖に対する内外からの期待の大きさと、着実に力を付けていることとが明確となった。前々公演前公演での出来に対する褒美の意味もあろう。したがって三味線は錦糸。若手有望株最右翼として三段目立端場を勤める、しかも住大夫師の相三味線であった大先輩に弾いてもらうわけであるから、緊張しないはずはなく、ガチガチの語りになるところであるが、結果として見事なものであった。期待に応え、また実力を伸ばし、太夫陣の看板の一人として注目され続けることも確定した。全体を通しての印象は、教科書通りに折り目正しく勤め果せたというところ。これはすなわち三味線錦糸の指導にきちんと応えたことを示すもので、このクラスとしては最高の讃辞である。
  この一段の主眼とは。切場「妹山背山」へ筋を繋げるなどというのは、ただストーリーを追いかけているだけで、それならば床本集を読めば済むことである。もちろん、ここは立端場であり次が切場であるから、切場が最大の山(もちろん洒落ではない)になるようにしなければならない。先走りするが、切場の悲劇を封建的醜悪さの権化として忌避する向きも多い。別に死ぬことはないではないか。この主張は、例えばこれを現代版テレビドラマに変換し、ライバル子会社の争いかと思われていたものが、ともに親会社から無理難題を吹っ掛けられ、唯々諾々と従うか倒産無職の自死に追い込まれるかの物語にして見せたら、直ちに撤回されるものとなろう。泣き寝入りなどという語は、現代の辞書からは消去されるべきである、という主張をするわけはないのだ。むしろその主張を理想的空論とし、現実を知らないと嘲笑うに違いない。ではなぜ、「妹山背山」においてはその逆が起こるのか。それは、入鹿という巨悪の存在と、両家の対立とが絶対化されていないからである。回避するという語が意味を持つのは、被支配から脱する領域が存在することを前提としている。例えば、大気汚染で呼吸困難になった場合、その状況を回避出来るとすれば、汚染の元を無くすか、清浄地帯へ移動するかである。地上の大気全体が汚染されており、かつ汚染元が人智の及ばざる所にあると、現実として認識することなどできるものではない。もっとも、観客の前で展開されているのは現実ではなく芝居である。芝居だから非現実と受け止められてしまうと、前述した封建的の一言で片付けられてしまうが、立端場までで芝居の世界に入り込んでいたら、その恐れはなくなる。これが、立端場(まで)の果たすべき役割の第一。芝居という非現実の、しかしながらそこに入り込んだ故に、眼前に巻き起こる現実として受け入れられる時、いよいよ前述の巨悪と対立が絶対的なものとして前提条件となれば、切場は文字通り『妹背山』のヤマ場となることができる。これが、立端場(まで)の果たすべき役割の第二である。したがって、この「太宰館」の主眼とは、象徴的な「落花微塵」に収斂する入鹿の巨悪と、「張り詰めし気の弛みなく」退出するに至る両家の対立とが、劇場内に絶対的なものとして描出されるかどうかということにある。
  では、実際にどうであったのか。まず、第二の対立から。二の音がしっかりしないこの若さで大判事と定高が映るというのは無理なことであり、似せようとしても逆効果(声色)に陥るばかりである。しかしそれでも描出は可能であり、そのためには浄瑠璃義太夫節の構造と表現方法が血肉化していなければならない。靖はこの点が若手中あるいは同門の兄弟子と比較してもよくものにしており、地−色−詞にフシ・地色・カカリ、そこに足取りと間の変化が加わり、語り分けられるのである。もちろん声の高低も重要な要素であるが。今回は定高の方に面白みがあって、「詞の非太刀打ち掛け捌き」とある絶妙な詞章を納得させるところまで来ていた。大判事は「言ひ捨てて」「空嘯き」の不敵さには至らず。それにしても、「互いに折れぬ」「老木」「柳」この単独なら容易に描出も可能な三者を、一括りにして観客の胸に応えさせなければいけないところに、この一段の困難さがある。やはり、切場語り手前の中堅か、横綱にはなれない三役格のベテランが勤めてこそ、ピタリと嵌まるのであろう。その意味からも、靖は敢闘賞というところなのである。次に第一の巨悪の表現はどうか。「金巾子の冠を着すれば天子同然」とは『菅原』時平の言であるが、入鹿もまた「万乗の位に即く麿」と宣って憚らない。この両者に共通する困難は、暴虐非道の破壊者ではなく、天子然とした虚偽の威厳をそれらしく表現しなければならないところである。もちろん発声も高いところからとなるから、語りが非力の場合はまるで貴人そのものとなってしまい、前述した絶対的巨悪ゆえの悲劇が吹っ飛んでしまうことになる。野太い声で怒鳴り散らすのなら容易なのであるが。ではどうすればよいか。もちろん、途中にある大笑いで掴んでしまうのも一つ(靖は中笑い程度であった。「ハハ」よりも「ムム」の難しさを再認識した)、しかし定高も大判事も形式的な空威張りで屈するものではない。どうすることもできない、絶望さえも抱かせる絶対的距離感、それが実感させられることが必須となる。実は詞章にも「上段の褥より遥かに見下し」と明示されているもの、その描出である。これはもちろん物理的距離感であるが、そのまま王位(天智帝が真の表の白の善とするなら、入鹿は偽の裏の黒の悪、しかし絶対値を取れば数値として同じとなる)と人臣との位階・身分差でもあり、精神的・心理的距離感ともなるものである。靖の語る入鹿の詞にはこれが表現されており、それ故に驚きもした。この若さにしてというのがまた大したもので、こちらは技能賞である(殊勲賞は切場を勤めるか、切場を喰うほどの出来が必要)。
  人形陣、その入鹿は玉輝が近年の持ち役としている。大きさがあり、また前述の偽物感も滲み出て、納得のいく遣い方。馬上からの睨みなど確かに震撼させるものであった。ただ、真っ向勝負かつ器用ではないところが弱点としてもあり、「ひらりと打ち乗る」は二度目見ても困難を極めていて、乗馬の姿勢も「大地狭しと馬上の勢い」の詞章とは乖離し、残念な結果に終わっていた。いや、これは逆に言うべきだったかも知れない。故玉男の鮮烈な馬上ひらりこそが神業なのであったと。今になって思えば、名人芸を当たり前のように見ていたことは何とまあ贅沢な日々であったのだ。もう一箇所、「欄にはつしと打ち折り落花微塵」の遣い方である。冒頭から詞章を辿ってくると、「上段の褥より遥かに見下し」とあるように、舞台としては「鱶七上使」「金殿」と同じ装置となる(もちろん、臣下の太宰館との差は歴然としてあるが)。褥を降りて「辺りなる生け置く桜のひと枝押つ取り」欄干に叩き付け、その花弁が階下に落ち散るわけで、視覚的にも入鹿との落差が歴然となる。しかし、四段目奥との差を設けるためもあってか、明治の大新道具帳も現行と同じで、詞章通りの描出は不可能である。そこで、工夫されたのが、官女に左右の桜枝を持たせ眼前に笏を以て叩くというものである。人形の技としてはこの方が数倍難しい。動きが少ないからである。座位と立位との差で見せつけることもできない。かつ、交差した桜枝の交点を叩いて桜花を見事に散らす見せ場であるから、遣う方も神経が自然と集中する。ところが、意識しすぎると、官女が差し出した時から意識がそこへ行き、叩くぞ叩くぞといかにも作り込まれたものになってしまうのである。「はつしと打ち折り」の瞬間に巨悪が黒い光を放って爆発するようでなければ、「親々の心も共に散乱せり」とはならない。今回もやはりその描出は難しかったように見えた(かつて、作十郎そして文吾で見た時にはその理想型に近いものがあったように記憶している)。定高の和生と大判事の玉男、それぞれの格は確かなものがあり、文雀師の引退を見事に引き取り、故玉男師の衣鉢を継ぐという、立派な人形遣いである。ただ、人形浄瑠璃は太夫が主体であるから、太夫の語り相応に見えてしまったことは仕方あるまい。両家の争いがこの両人に象徴され、骨の髄から=精神の深奥から決して譲らぬものと決めてかかっている(領地争いはそれほど厳しいもの)という、そこまでにはまだ至っていなかったと感じた。両人の真骨頂はもちろん切場で見ることになる。

「妹山背山」
  全段通しての見せ場である。幕が切って落とされての嘆声は、まず他狂言のいかなる段をも凌駕する。そして両床。聞かせ所でもあることは論を俟たない。今回は床の方に注目いや注視いや聞耳を立てなければならない。久我之助の文字久以外はすべて初役である。次代には聞くことになろうと予想はしていたが、まさか当代においてとは予想もしなかった。染太夫風と春太夫風との掛合というとんでもない一段でもある。今回、背山も妹山も三味線が引っ張る構図は同じで、厳しく引き締まりながらも雄渾豊潤な藤蔵から、華やかにして流麗な清介への受け渡しなど、すばらしいの一語に尽きる。その逆の受け渡しもまた然り。この一段は、大きく言うと西風と東風との聞き分けの場にもなるのである。両者の掛合は「心ばかりがいだき合ひ」で最高潮に達し、そこから「詮方涙先立てり」に移るところなど、聞いているこちら側がその魅力的な響きに涙ぐむというものであった。もちろん、文字久と雛鳥を勤めた咲甫の健闘もある。
  清治師と富助が主導する定高の呂勢と大判事の千歳に変わってからは、鮮やかな東西対比は裏に回り、胸に一物ある大人の掛合となる。当然、大落シで最高潮となるが、中日過ぎの時点では手が来るまであと一歩という感じであった。太夫は両床とも風を心得て大車輪で勤め、決して悪くはなく、大判事なら「削るが如き」「茨道」等、定高なら「立派に言ひは放し」「義理の柵せき留め」等々、立老役と立女形に相応しい語りを心がけそれを実現できてもいた。実力がここまで来ているとは、想像を上回るものであった。とはいえ、感動を覚えるまでには至らなかったというのもまた事実である。もちろん、目が潤んだことは確かで、久我之助覚悟の切腹に至るとさすがに応えた。が、それがその後に涙で滲むまでとはならなかった。その原因は、父子母娘の衷心衷情が描出し切れなかったところにある。当然のことだが、安易に「情を語る」などと言ってはならないし、「情」は音曲から滲み出てくるものでなければならない。スクリーンから出れば映画であり、文字列からならば小説である。「情」だけを取り出すのは人形浄瑠璃という表現形式を放棄するに等しいのであるから。その意味からすると、千歳も呂勢も正しい語りをしているのである。しかしながら、雛流しの美しい旋律があそこに置かれている以上、涙の色は絶対に必要となる。そのためには、定高なら「胸は真紅の塞がる箱」「恋も情けも弁へて」等、大判事なら「ややうち潤む目を開き」「子の可愛うない者が凡そ生ある者にあらうか」等々で、観客の胸に情愛の楔が打ち込まれなければならない。究極的には、背山での「ワッとひれ伏す親子の誠」に続き、妹山での「ヤ、アイ、ヤ、アイ」で観客が完全に親子の情愛に呑み込まれることである。両床「悔やむも泣くも一時に」に至っては、もはや平常心を保つことは客席もまた不可能なのである。その後の定高の述懐の詞は涙の川へのノリとクドキであり、そのまま雛流しとなる。節付けの美しさは琴の響き(今回上手であった)と相俟って極上であるが、底に哀切と儚さが流れていなければならない。美しいが故に涙を禁じ得ないとなるのが真の極上なのである。その次がいよいよ大落シになるが、ここで肝心なのは大判事と定高との対話において、「隔つる心」「積る思ひの山々」が完全に「解けて流れて」いなければならないことで、そうでなければ「介錯し後れ面目ない」が不自然な軽妙さに堕してしまう。何より、この和解が一人息子と娘を失っての結果という、涙の川が「漲るばかり」という詞章が真実とならず、大落シそのものが空虚な大音強声を響かせるだけに終わってしまう。無論、段切「花を見捨てて」がカタルシスとなることもなく、観客は疲労感を抱いて追い出されることになるのである。
  このようにくどくどと書いたのは、この段を聞き終えて(聞きながら)珍しく冷静になれたからである。言い方を変えれば、一段に取り込まれるのはどこがポイントなのかを、これまでの経験(名録音の聴取を含む)から、詞章と付き合わせて考えて見ようと思い至ったのである。こう書いてみると、この一段は実によく出来ているものと感心する。両床が必然的であることもよくわかる。染太夫と春太夫の風の個性が際立って有効に作用していることも明瞭である。前半の恋模様に、後半は入鹿の暴虐にも屈せぬ純愛が貫かれ、命と引き替えに両家が和解して大団円入鹿誅伐の基ともなり、そこに究極の親子の情愛が描かれているのである。そこにはまた、人間の生々しい姿、「命二つあるならば」と反実仮想をせざるを得ず、内裏雛を「恨めしげに打ち守り」、娘の首を切る極限状態に「ハアさうぢや」と西日に西方浄土を招くより外なく、武士が取り乱して「刀からりと落ち」等々が、真実としてある。そこに、作者近松半二の筆の力を見ることもできよう。まこと、大作にして傑作である。
  今回の布陣は、現状の太夫陣としては健闘。文字久は唯一の経験者とはいえ、前回よりも数段の進捗を見せ、次回は大判事を勤めさせてよいはずだ。千歳はその個性なり容量からして久我之助の方がしっくり来よう。とりわけ、マクラなど風に留意して立派なものを聞かせるに違いない。咲甫も前半は良かったが、後半は収まりがつかなかったという感じ。そして呂勢は切迫とか迫真とかいうところへ行けるかどうかが今後にも渡る課題であろう。太夫が泣いてもどうにもならず、観客を泣かせなければならないのは承知の上で、この太夫の目に涙の色が光る時こそが、本物の浄瑠璃義太夫節が語れた証左となろう。
  人形陣では、語りと比例する形でもあるが、前半の簑助師の雛鳥と久我之助の勘十郎の掛合が絶品で、とりわけ雛鳥は、久我之助への思いが文字通りあこがれとなって(あくがるとは元ある場所から離れてしまうこと)対岸へ向かうから、心身の分離ゆえに身体が精神と一体化しようとして、川へ落ちそうになるという、人間業とは思われない状況が現出したのである。久我之助も顰みに倣う西施の男版のようなもので、胸中の鬱屈が考える人同様の哲学的美となり、一層端麗さに磨きが掛かるという、これまた空前絶後の姿であった。この両者により、「心ばかりがいだき合ひ」となるのであるから、満開の桜とともに劇場空間には一面に、純愛無比の恋心が満ちあふれたのである。定高の和生と大判事の玉男はもう少し複雑というか二重構造の心理が感じ取られてもと思われたが、今回のように、主役が実は久我之助と雛鳥で文字通り古典日本版ロミジュリに他ならない、との見方が納得させられたというのも、両親の姿が地となって子女の図を浮かび上がらせたからともいえよう。腰元の二人はそれぞれカシラの性根を踏まえ適切に遣えていたが、何よりも、簑助師と和生の遣う人形をその目にしっかりと焼き付けておくことにより、次の芸への飛躍とならんことを期待する。

第二部
「鹿殺し」
  二段目展開の重要なファクターである事実を観客に知らしめるための場。牝鹿が実物に準じた作りで、下手にデフォルメしていないのがよい。昨今はゆるキャラブームもあって着ぐるみが溢れているから、可愛いと思わしめたが最後、射殺を酷い可哀想と受け止められ、余計な感情を作り出してしまうのだ。獲物を仕留めた後の芝六の所作を見ておくと、『忠臣蔵』「二つ玉」で勘平が定九郎に行う所作の意味を理解するのにも有効となる。亘と錦吾は初日に比して中日直後の方がよくこなれており、間と足取りへの留意も奏演に現出されていた。何と言ってもこれからの二人だが、印象は悪くない。

「掛乞」
  チャリ場である。殿上と地下という決定的な落差が、同一平面上にあるというおかしみと、借金取りの悪じゃれが主眼。まず、この場では媒体(切場では主役)となる芝六(玉男)とお雉(簑二郎)の取り捌きが自然体である。その上で、大納言(文司…この一役のみというのは腑に落ちないが)の鷹揚さと、米屋(勘市)の粗忽な浅知恵が際立つ。床も、三味線の龍爾に存在感があり、太夫の始も耳に付く(高音や強声部分、聞き辛いとまでは行かないが)箇所もないではないが、天皇還御のマクラにも気を配り、大納言に忠臣の心を感じさせるなど、チャリで儲ければよいという姿勢ではなかったことに、好感を抱いた。

「万歳」
  一聴にしてガラリと雰囲気が変わる。染太夫場であり「風」の存在を如実に示す重要な場である。ただ、中身は詞章がずいぶんカットされているせいで、文字通り万歳を視聴し、それに伴う勅諚の迷惑さに淡海の困惑、芝六の巧みな対処のみが浮き彫りになる。それならば、ここを染太夫が勤める必要はなかったわけで、その風が意味を持つのは、完全な詞章によってなのである(参照)。それでも、帝の述懐と入御「徳なうして〜民を憐れむ御詞。各々顔を〜涙の天が下」の部分と、淡海と芝六の謀議「玄上太カ利綱〜土に生ひても穢れなき」の箇所が掴めていれば、切り刻まれたこの場も息を吹き返すことができる。床の睦と清馗は、この場がこのようにただものではないことを意識しており、二の音の魅力的な響きと鋭い三味線も、相応しいものとなっている。しかし、前述の箇所を含め、全体として間と足取りそして変化が凡庸で、いわゆる象が泥濘を歩くという具合になろうかという危ういものであった。一応、若手から中堅へのトップランナー的位置にある二人であるから、この場が前場とまるで違うと感じさせたことは評価するが、感心するというところへは到底行かない。道遠けれども日は暮れず、いつかこの両人で面白いまた感嘆する浄瑠璃義太夫節が聞けることを信じて、今回の評はこれでとどめておく。人形は切場で述べる。

「芝六忠義」
  地味の一語に尽きる段だが、滋味ある一段ともなる。しかし、ここも前半に夥しいカットがあり、子供ながら有心の三作と子供故に無心の杉松とのやりとりが不明で、ただ訴人の段取りとして登場する形とされてしまっている。確かに、筋を通すだけなら前述の「万歳」ともども別に構わないということになる。加えて、今回のように通す形だと、この両者のカットがないと、時間的にとても収まりきらない。尊い犠牲というところであろう。もちろんそれは、勤める床に対しても当てはまる。このいわば損な役回りを、英と宗助が受け持つ。蓋し、最善の策であろう。まさに、地味にして滋味のある床なのであるから。その実力は、鹿殺しの罪を自ら背負う三作の述懐とお雉の悲歎に顕著であり、涙を催させるほどであった。夫婦それぞれ胸中の思いに応じて響く明け六つの鐘、「嬉しいも六つ〜無量の物思ひ」も三味線主導で切迫感が伝わり、縁起を語る「仰せは今に〜哀れ残りける」が、太夫による気高さと悲哀の表現により、見事切場の格を収めるものとして現出した。ちなみに、この縁起の三味線は続いての鎌足の詞の後に音が上がるので、その準備としてコマを軽いものに取り替え(直前鎌足の詞の間に行う)てあるから、どうしても音が浮いてしまう。仕方のないことだが、この重要な縁起の、しかも段切直前の、二段目主眼が情愛とともに収束するところであるから、何としても克服してもらいたいところである。これが出来れば、今回の三味線は完璧であり、切場格としてもはや申し分の無いものとなるであろう。もちろん、出来なくとも切場を弾いて問題ないレベルに達しているのだけれど。太夫は、この鎌足の詞から段切までの勢いと晴れやかさと威厳とが不足していて、「涙の露に濡れ」以下はよかったものの、これでは天智帝の御目が開くという趣向、そして遠い先の入鹿誅伐への光明が見えたという印象は、ともに胸にとどまるに至らなかった。とはいえ、この床でなかったらおそらく途中退屈して睡魔に襲われていただろうと考えると、切場語りとしての実力は十分にあると断言できるのである。
  人形陣。三段目切場同様、ここにおいても床(太夫)とパラレルな視点で見えたのは、致し方ないところであり、また、床に関わらずその存在感を示す、人形の遣い方によって床が修正されて聞こえるという、いわゆる名人の域に達している人形はまだないということにもなる。したがって、段切に鎌足が三度までネムリ目となり、お雉が泣き崩れて幕という遣い方は、十三鐘の哀れは確かに感じさせたが、それが帝の目を開かせ入鹿誅伐の基となり、古跡として今にとどまるという、「いま・ここ」を超越した、時代物(王朝物)の大きなスケールは表現するに至らなかったということになる。「天照神と天皇の御対面」を取り仕切り、「天より地中に落ち給ふこれぞ希なる天智帝」と諡号どころかシャレとなし、「我が藤原の氏の寺」へ臨幸させる権威権力を宣言する、これでこそベラボウ眉の孔明カシラの真骨頂となるのだから、鎌足の遣い方として和生は物足りなかったと言わざるを得ない。その股肱の臣たる玄上太カとしての玉男も同断で、猟師芝六としての遣い方には納得できたのだが。ちなみに、三作(玉翔)は上下姿も端正で、鎌足二代の忠臣の片鱗が見えていた。天智帝は始終受身で「万歳」の省略もあり評しようもないが、絢爛たる小忌衣がしっくり来ていたのは、名脇役勘寿の為せる業である。采女の一輔も特段言うこともないのだが、綱弥七の演奏を聴くと、「ノウ懐かしの帝様〜床しき物語」に良い節が付いていて、詞章通りうっとりする艶やかな魅力が浮かび出、帝に寵愛されるほどの美しさと、その情愛の濃やかさも匂い立つようにわかるのである。こう語られていたら、今回の遣い方では不十分だと書いたに違いない。淡海の清十郎、これも割を食った一人で、「様子立ち聞く」からの急迫、お雉の嘆願を聞いての述懐(ここにも良い節が付いている)に、再び厳しく構える一連の所作は、強く印象に残るところであるが、際立つには至っていなかった。なお、鹿役人(亀次)と興福寺衆徒(文哉)は、権力と権威を以てずかずかと詮索する遠慮の無さが明瞭で、納得いくものであった。

「杉酒屋」
  時間が無いから「井戸替」をカットするのはそれとして、咲太夫燕三であれば通して語って面白くできるのにと残念に思っていたところが、咲太夫の休演、大いに心配である。これで切語りが一人も居ない公演になってしまった。体調が思わしくないのは、前回前々回から感じていたが、実際かつてこの「杉酒屋」を越路師が勤めたこともあることから、魅力的な立端場を見事に語って聞かせることも大いなる楽しみとなるのである。今回はその夢も破れたが、無理をする必要はないので、何にしても養生第一に努めていただこう。代役は当然のことながら一番弟子の咲甫に回る。
  「井戸替」の喧噪が収まった初秋の夕暮れ、まだ熱気の残る雰囲気の中、ヒロインお三輪が登場する。これでこの場の前半は決まる。子太カも阿呆であるが表裏なく、調子者でもませガキでもチャリでもない。お三輪の求馬に対するその時々の思いの中心は何処にあるか、求馬はおぼこ娘お三輪の心を知って引き寄せ絡め取る詞を連ねる。橘姫が入り込んでからが後半で、趣はガラリと変わる。恋を争う二人の女、それぞれ単独で求馬と寄り添う時の様子とはまるで異なり、本性が露わになるところが面白い(もちろんお三輪に関しては疑着の相の仕込み)が、求馬にしてみればこの鉢合わせは最悪で、あの頭脳明晰で冷静沈着かつ用意周到な男の周章狼狽振りは、これまた普段の日常ではかつて現れないものである。主の母が戻ってからのバタバタは、「井戸替」からの締め括りとしてチャリ化されている。
  以上、三味線の燕三とともに師匠の前で稽古を付けてもらった結果であろう、まずまず描出されていたように聞いた。とくに、中日直後二度目に聞いた時は、初日と比してこなれており面白いというレベルにまで達していた。橘姫など、初日はいったいどこの誰かというくらい性根が不明であったから、その改善は望ましいものであった。ただ、それでも「月の笑顔をぴんとすね」という極上の詞章を語り活かすには、橘姫のお三輪に対する上からの物言い、まったく相手にはしていないという格の違いを、イヤミにならないギリギリの線の詞にて表現できなければならない。しかし、全体として太夫の実力相応の場で、浄瑠璃義太夫節に身を任せられるのものであった。
  人形は、何と言ってもお三輪の勘十郎である。男を遣った時の鮮やかさはこれまでも際立っており、女を遣うと派手になると思いきや、むしろごく自然体の人形となる。それは、前述の詞章分析を踏まえた結果であり、いわゆる本読みがしっかりと出来ているからである。
  とはいえ、お三輪は詞章の読み取りが表面的では感情の機微が表現されないのである。例えば、「口に言はねど赤らむ顔」はおぼこ娘の羞恥心の現れだと簡単には済まされない。お三輪は求馬と既に男女の関係に至っているのであるから、当然のことながら、処女性を持ち出すことはできない。だからといって、遊女のように慣れ(馴れ・熟れ・狎れ)てもいない。一目惚れした男と結ばれるという、親にも秘めた至上の悦び、それを体験した(させた)男の登場に、顔を赤らめているのである。これはまた、「逢ふことさへもたまたまに」とあるように、常態化・日常化はしていないのであるから、非日常の逢瀬として心を昂ぶらせる状態なのである。もう一例、「思ひ詰めたるひと筋を言はうとすれば胸迫り」はどうか。これは「恨み言」であるから、あの「疑着の相」の萌芽に他ならない。これを、嫉妬心を表しては求馬に嫌われるのではないか、こんな嫉妬心を抱く自分が恥ずかしいなどと捉えては、南鵠北矢となるのは明らかである。「胸迫り」の詞章がまったく見えていない。「変はらぬ契り」であればこそ、上記の悦びが得られるわけで、「その約束が偽り」ではないかと思わざるを得ない状況、しかもそれを直接男へ問い掛けなければならず、かつ、それが事実だとすれば、あの契りとは一体何であったのか。この次々と襲う感情に「胸迫り」となるのであり、理屈以前に「涙先立つ」のである。ここに羞恥心の出る幕はない。
  では、具体的にお三輪を勘十郎がどう遣ったのか、この二例で見てみると、前者はその微妙な女の性を実にうまく描出していた。後者、初日は羞恥心に傾いているように見えたが、中日後二度目鑑賞時は疑着の相が微妙に現れ出ている様を遣えていたのが驚きであった。両方ともに神経の行き届いた遣い方である。
  橘姫を勘弥が遣うが、品の良さは流石である。ただ、上記のイヤミ寸前の姿に関しては物足りなかった。間に挟まれる求馬は清十郎で、淡海に比してとりわけここでは色男に焦点が当たるわけだが、女心を蕩けさすほどとは言えず、困惑するイケメンの表現も今少し面白くなる工夫もあるのではと感じた。子太郎の玉勢は上出来、性根をチャリと勘違いして動きすぎる若手も多い中で、好ましく微笑ましいキャラクターを造型していた点が評価出来る。母(簑一郎)は悪婆のカシラであるが、この場合は口やかましくがめついという押さえ方が正解であり、遣い方としては控え目であった。もっとも、「井戸替」カットでここだけ登場し存在感を示そうという前受け狙いの方がいただけない。

「道行恋苧環」
  道行と言えば、上演が途絶えていた近松物は除外して、第一に千本道行であるのは満場一致として、第二と言われると、やはりこの恋苧環であろう。聞き所あり見所ありで、『妹背山』中のお楽しみでもある。今回は、里の童も登場し、詞章と節付から見ると、橘姫と求馬の高貴な恋模様の中に、下々たる庶民の恋が描かれる場面である。もちろん、三味線のシンが寛治師であるがゆえの完全版なのである。この道行、艶やかな二上りから始まった後に「窶るる所体」以下、橘姫の節付が実に美しく魅力的で、ここまでで早くもうっとりと道行に引き込まれてしまう。それだからこそ、その後に挟まる俗謡的雰囲気が際立つのである。この構造を知り尽くしている寛治師が弾かければ、これを出せないのは必然と言えよう。三下りの踊り唄もすばらしく、幕切れの足取りも聞く者を巻き込んで先へ先へと進む(もちろんマクレたりはしない)感覚がたまらない。三枚目の寛太郎は良い音色で大きさや膨らみもあり、筋の良さを聞かせる。太夫は希であるが、配役としてはピタリであろう。節付も心得て丁寧に語るが、如何せん声量が乏しく、というより橘姫を意識するあまり劇場ではなく座敷芸、腹から声が前に出ていない。高音部も決して裏へ逃げてはならない。橘姫を捉えても、それが浄瑠璃義太夫節の格を備えていなければどうにもならないのである。三味線に負けていたのは、三味線が太夫を置いて弾き倒したからではなく、太夫側にその責は帰せられるものであった。二枚目の清馗は女二人ではなく男の求馬によく嵌まり、それは咲甫にもそのまま該当する評言。お三輪の津駒は朱塗りの見台に相応しく、この場の主役であるところを語り聞かせた。人形は三者三様に性根を描き出すが、中でもやはり際立つのは主役のお三輪で、足拍子がこれほどうまく踏めたことも稀であり、神経の行き届いた所作もあった。苧環の糸を針で裾に縫う所、これは詞章にあるように求馬が咄嗟の機転で仕掛けたものであり、お三輪はそれを見て仕掛けに気付き真似をするわけである。この一連の所作が理屈ではなく自然に表現されていて、この本読みと観察の深さ鋭さには脱帽であった。

「鱶七上使」
  ここの口をカットしたのは、他と比べても当然の処置である。マクラに続き奧に相当する部分から、文字久と清志郎が担当する。太夫は、ここのところ持ち役のようになっているが、正月の「獅子が城」を公演後半からブレイク(文字通り従来のもどかしさを破壊)しての今回、以前の長ったらしいとの感じは抱くことなく、鱶七に粗野な豪気(剛毅)さが出て、入鹿の業腹感とともに、聞いていて面白い浄瑠璃義太夫節になっていた。加えて、後半の音が上がってから官女の件で語りが動くようになり、本公演第一(久我之助と併せて)の出来と言ってよい。三味線が藤蔵ではなく格下の清志郎を引き(弾き)連れてであっただけに、その思いを強くした(もちろん、清志郎はこの場格に負けない納得の腕を聞かせた)。ただ、中日過ぎた時はいささか元に戻った感じで、もし公演中鱶七が豪放磊落の四字をそのまま当てはめられるものとなっていたら、いよいよ紋下(櫓下)格に至れるかとの期待まで抱いたであろう。とにかく、文字久は真面目で誠実、ケレンも衒いもない素直な語りは、不快の念を起こさせないものではあったが、人形の性根からすると、それでは表現できる範囲が狭くなり、平板と退屈に陥る。また、その経歴から詞には一日の長があったが、フシなり地なり地色なりカカリなり、音曲成分が多くなると、若手や中堅の初期に聞こえてくる、日本音階が血肉化していないゆえに(十年ほど前でも、東北の小学生に自由作曲をさせると、すべてヨナ抜き音階となる結果が出ていたし、昭和も五十年代までの生まれの場合、西洋音階で音痴な人物ほど、声明や浄瑠璃はうまくしっくり来るという報告もあった)、西洋的歌曲をカラオケでもしているかのような、不自然かつ耳障りなことが多かった。音遣いが出来ていない証拠であろう。それがようやく耳に付かなくなりつつある、すなわち音遣いが自然なものとなりつつある。彼には、体躯と声量という、押しも押されもせぬ太夫となるに有利な条件が備わっている。かつて、静太夫の大隅太夫くらいにはなるのではないかと予言しておいたが、現状を聞いて津大夫の域に迫るのではないかと改訂したい。無論、そのためには語るに際して、遠慮や配慮や分相応や規矩などというものを捨て去り、そんな無茶な、とんでもない、とまで思わせるほどの驚きを客席へ響かせてほしい。一般人としては常識人、しかし語るにおいては「狂」となってもらいたい。何せ、人形浄瑠璃の内容展開や登場人物、それを記した詞章自体が狂言綺語であり、非日常の世界なのであるから。その意味からも、時代物三段目切場が目指すべきゴールであるべきだ。劇場側も、そのつもりで役を振らないと、五月東京「尼ヶ崎」が前半であるなど、言語道断と言われて当然である。担当者には、耳垢と目脂の掃除をしてもらわなければなるまい。
  人形は、鱶七の玉也が大きくもあり面白くもあり、この個性的な人物をうまく描き出していた。入鹿との掛合、篠槍や毒酒への平然たる対処、官女の捌き方など、舞台に見入ることができた。ただ、どちらかというと、猟師鱶七に忠臣金輪五郎が透けて見えてしまう(実際そうなのだから当たり前だが、それゆえにこそ難しい)という、若干食い足りない印象は持ったが。入鹿の玉輝はここが最も合っており(「蝦夷子舘」「太宰舘」と比して)、史記の故事「沐猴にして冠す」がピタリと来る遣い方であった。となると、大舅を遣うと不安が残る気もするが、これは実際に見てみたいところである。玄蕃の幸助と弥藤次の玉佳は、ともにこの一役ではどう考えてももったいない。ただ、玄蕃に関しては序切で触れた通り、この玄蕃を見て、「小松原」の玄蕃と同一人物であると直ちに理解するのは困難であった。

「姫戻り」
  四段目切場に直接繋がる端場で、ここからが初演春太夫の持ち場であったろうことは、その節付からも聞き取れる。ヲクリとマクラからして、前場とはガラリと変わり、「道行」からそのままの流れにも感じられる。もちろん、そうすると大詰「入鹿誅伐」が成り立たず、音曲的には変化に乏しくなるから、「鱶七上使」は必須なのである。さて、ここの急所は「恋なればこそ」これに尽きる。「杉酒屋」での拗ね方、「道行」での探り合い、ここへ来て初めて橘姫は、その恋心を客席へも全開するのである。そこには三つの展開があり、前半の官女たち続いて淡海そして最後に自己自身となる。この、魅力的な端場を芳穂と清丈が勤めるが、この配役はズバリ的を射ている。実際、聞かせ所の第一「二つの道に絡まれし」が、やあやあと声を掛けても良いほどの出来で、これだけでもう合格点が付くのである。とはいえ、前半は騒いでいる感じは出ているが、足取りと間が面白いというものではなかったこと、続いての淡海にも、入鹿誅伐という一大事を成就するためなら如何なる犠牲も厭わぬという、切れ者の幹部候補生若手官僚らしい冷徹さの片鱗が感じられなかったこと、最後に恋と恩とに挟まれた橘姫の苦悩、恋のために親も自身も命を捨てる究極の覚悟と、それゆえに美しさが哀切となるところも物足りなかった。とはいえ、芳穂は四段目切場がゴールだと見えているから、その意味で鷹揚かつ豊潤な行き方は間違っていないし、それらを潰してはいけない。清丈も道八を師とする清介門下らしい響きと具合の良さを持っているから、やはり四段目切場がピッタリ来るように精進してもらいたい。いずれ「奥庭狐火」や「大井川」などが回ってくるであろうから、まずはそれらを楽しみにして待つことにしたい。
  人形は、橘姫の勘弥が貴族の姫らしく、それ故に恋心を燃え上がらせるのではなく抑え気味に出しての好演。淡海の清十郎もまた、求馬ではなく上記若手官僚として一本筋の通った遣い方がよく映った。

「金殿」
  津駒団七、想像以上。まず、悋気が表面化した在所娘の登場が出来た。続いてはお楽しみのチャリ=豆腐の御用(勘寿)であるが、声調がキンキンしすぎたのと、ノリ間にもう一つ面白さが足りない。官女が登場して、これも声調に難があるが、お三輪の詞で一段の主眼たる「疑着の相」の本質を見事掴んだから、それらの些事はどうでもよかったと感じさせたのが大したものである。「アノお上には〜」パッと変化して、疑着の相を覗かせながら切実な恋心が苦しみの中で露出するという、お三輪の深層を見事に語って聞かせた(とりわけ中日過ぎの二度目に聞いた際)のは、団七の指導もあってよく修業した結果と感心した。続く官女によるイジメとお三輪の悲哀から疑着の相が前面に出ての恨みまでは普通の出来であったものの、最期の「苧環塚と今の世迄、鳴り響きたる横笛堂の因縁かくと哀れなり」が、涙を催させるほどの絶品で、お三輪の哀切はもちろん縁起の格調高さは特筆すべきである。浄瑠璃義太夫節の構造をよく理解している証拠でもある。これで、金輪五郎がお三輪を刺して「さも忌まわしきその有様」に収まるまでの、残酷ゆえに尋常でない言動と心理が現出する場面に、観客が身震いするほどのものがあったならば、切場語り昇格も先に見えたことであろう。なお、金輪五郎の詞ノリは、三味線が四段目切場を心得た間と足取りで、ともすれば間が狭くなるところを、さすがの経験と芸格とで弾いて見せるというのが、ベテランを決して侮ってはならぬ証左ともなっていた。これを脱帽と言う。津駒もそのお陰で大曲一段を薄っぺらにも縮めたりもすることなく、勤め果せることができた。
  人形は一にも二にもお三輪の勘十郎で、疑着の相を露わにしての乱れ様が物凄く、そのきっかけとなる階下での変化の表現に、髪飾りが吹っ飛ぶという見せ方にも感心した。さらに、馬子唄を拒絶する理由が、歌詞の卑俗猥雑さにあるばかりでなく、「序でに振りも立つてしや」が決定的であるとして、年頃の娘が股を開いてノシノシと野卑な馬子の振りをする様子を活写したことに、感心では収まらず驚愕したのであった。もちろん息絶えるまでの哀切は言語に尽くしがたく、実際にその遣う人形を見てもらうより他はない。公演チラシの一枚がここでのお三輪のアップであるのも、現金掛け値なし正真正銘の金看板たるが故である。金輪五郎は玉也で、鱶七とは変わって、胸に一物ある不敵さと、詞ノリで真意を語り聞かす解放感、そしてお三輪への情けが滲み出る等々、押さえるべきところを確かな力量で遣って見せ、大切りに相応しい人形立役であった。なお、花四天は歌舞伎で実の人間がやるから目を驚かす趣向なわけで、人形への移入は大したことでもなく、むしろ歌舞伎優位を印象付けるものとなった嫌いがある。官女四人は一々若手人形遣いの名を記さないが、悪乗りしないイジメ方で、「姫様の悋気の名代」に加え、「辛気辛気で暮らそより」この女を嬲っての憂さ晴らしという状況が、きっちり表現されていたと評価できよう。