お勧めに基き、御約束を致しました私の芸談といふ訳でありますが、まだハツキリと順序も立てゝをりませんし、長い間の芸能生活、其中には前にも申上げたやうに、全然他方面の仕事にたづさはつてをりましたり又た長く東京、横浜の間にをりました関係上、文楽中心に、歴史的にお話する事も出来ません。
唯だ、痴遊雑誌に連載して下さるといふ私の、たしない芸談の、劈頭に、第一に申上げておかねばならぬ事は、現在車京に、鶴沢勝鳳と豊沢松太郎といふ二先輩が、歴然と、今尚ほ太棹の撥を抛たず、後進の薫陶養成に努められてゐるという事を、僭越ながら、特筆さして頂きたいとおもひます。
勝鳳さんは、安政三年生れですから、本年八十歳の高齢になられます。鶴沢清四の門に入つて幼名を清次郎といひ、後、五代目野沢吉兵衛師に師事して、明治十七年、五代目勝鳳を襲がれ、文楽ではハラ〳〵屋の呂太夫、それから今の津太夫の文太夫時代、綾太夫、重太夫などを弾いてゐられました。
鶴沢派の絃として、例のカケ声の少ない、手数を省く、此の点では、松太郎さんとは、およそ正反対の名手であり、又た二段目弾きとしては、恐らく独歩といふてもよい人だとおもひます。
とにかく、今、文楽に全然無い古い珍本、稀曲を蔵してゐられるのは、この二先輩で、現に此間も、私は、勝鳳さんから『大蛇退治』や『鉢の木』や『瓢箪町』などゝいふ、古い物の朱章本を拝借して、文楽へ貸してやりましたが、向うでは、早速写し取つて送り返して来たやうな訳で、松太郎さんの方にも、無論、今日の太夫、三味線弾の知らない稀らしい古曲の朱章を沢山に蔵してゐられる事とおもひます。
斯ういふ風に、若い人達は熱心に研究すれば、故人の残された名曲をいくらでも研究する事の出来る世の中になり、名人達も決して、昔のやうに、秘曲と称して出し惜しみもなさるまいとおもうが、さてどうも、習ひには来ぬらしい。古靱君なども東京へ来る度に、何かしら、松太郎さんの処で覚えて行くやうですが、精々勉強が肝要な事とおもひます。
松太郎さんは安政四年生れ、勝鳳さんの一つ下で、七十九歳、一昨年豊沢会で盛んな喜寿の祝賀を催され尚ほ今日に於ても、一日でも三味線を離された事はないといふ努力家です。そして、私は松太郎さんの人格には昔から敬服してをる一人で、又たおよそ、義太夫の三味線で、いはゆる『地イロ』を弾かせては、稀れなる名人といつてよい人とおもひます。
嘗て、もう何十年も昔の事ですが、太郎助橋でとほつてゐた盲人の住太夫さんが、巡業中でも朝から晩まで、三味線に親しんでゐる松太郎さんを見て『実に、感心な男ぢや、あれは時代物は何だけれど、世話時代を弾かしては、これだけサラリト弾く者は無い』と激賞された事を聴きました。
三代目豊沢浜右衛門といふ人の手ほどきで、それから五代目の友次郎師(建仁寺)や名人団平師などの教へを受けられ、高木松太郎の本名を其侭芸名にして、今日に至るまで、遂に改名しないのも、芸界稀れに見る処です。
私が八兵衛時代、よく松太郎さんと旅へ出ました、ハラ〳〵呂太夫を古団九(団翁になつた団七の兄弟)仮名太夫--松太郎。和佐太夫(後の先代津賀太夫)--私。といふ顔触で、初日に和佐太夫の『百度平』で奥の両先輩を喰つてしまつた事を覚えてゐます。其折の二の替に和佐太夫が佐倉の宗五郎牢屋の段を出す事になつたが、私がこの上るりを知らなかつたのです。
旅興行ですから、芝居がハネてから皆、町へ遊びに行きます、松太郎さんを誘ひますと例の『私しは行きません』と宿屋へ一人残つて三味線です。その佐倉の牢屋は松太郎さんが覚えてゐるので、教へて貰へと言はれたので其晩、遅く帰つて来ますと、松太郎さんはもう床の中です。皆夫れ〳〵布団へもぐり込みまして、恰ど松太郎さんの隣りへ寝ましたので、好い折とばかり、床の中で『牢屋を弾かんならんのですが、一つ教へて頂きたい』と申しますと、『いや、知りまへん覚えてまへん』といふ答へです。ハテナと思ひながら翌日、仮名太夫に斯う〳〵と申しますと『そりやお前、寝そべうて聞いたのやらう可かん。改めて今日頼みに行つて見ろ』と言はれます。生意気盛りの私でしたが、ハツと気がついて、ヱライ失礼な事をした、と改めて松太郎さんに懇願して、漸く教へて貰ひ、幸うじて、次の替り目に牢屋を弾く事が出来ました。実に何とも申やうの無い、私の一生涯の失敗談です。芸界にこんな乱暴な者の教はり方は無い筈です。今思ひ出しても赤面します。これは確か和歌山へ行つた時と思ひます。
四五年前に、松太郎さんが、朝太夫さんと久し振りに、文楽へはいられた時の地位などに就ても、私達には異存が大ありでした。とにかく、今、友次郎君が三味線の紋下になつてゐますし、新左衛門君にしたとて、もと松吉といつて松太郎さんの門下です。せめて、松太郎さんを「庵」の待遇にしなければならなかつた事とおもひます。尤もほんの僅かで、両人とも東京に引上げて来られたのでしたが……言はゞ、仕打の松竹の方にも文句がある位なものです。
前に申しました勝鳳さんのカケ声の少ない事、松太郎さんがこれと正反対に、カケ声の多い事、それは忌弾なく申しますと、太夫が意苦地が無いことに基くものであります。ツマリ太夫が独り歩きが出来ない為めカケ声で気合をかけるのです、声を引出すのです、イキを合はすのです。今の多くの三味線弾が矢鱈にカケ声を出すのは訳分らずにやつてゐるのであるといふを憚りません。
先づ今日の文楽の現役では、何といつても道八といふ人が一等でせう。その道八君が、今の大隅太夫を弾いて、盛んにカケ声を連発する。吉兵衛君などはドタイ、オクリからカケ声をはじめる。どうも私には面白くない。此間も大隅太夫に会つた時『君の上るりに、アヽ道八君がカケ声をかけるのは、君が持ち切れぬからだとおもふ、しツかり考へて勉強しなさい』と面と向つて私はヅケ〳〵と言うてやりました。その席には杉山先生もをられて、ニヤ〳〵と笑つてお出でした。
友次郎君はヱライ出世です、チト出世過ぎる位でせう。先達て、ラヂオで涼み台とか何とか芸談の放送でしたが、その節、建仁寺の友次郎師の弟子だといふやうに聞きましたが、今の友次郎君の師匠は、通称『田村歌』でとほつてゐた小庄から豊吉になり後、鶴沢三二と名乗つた人です、割合に若死をしました。放送の時話された長尾太夫といふのは、東京で豊島太夫といつた人で、初めて大阪へ来た時に、新町の高島座で「五人切」を出したのを覚えてゐます。
今回は、私の芸談の緒言のやうなつもりで、これだけにしておきますが、とにかく、大阪の三味線の人々は、売名的宣伝も、必要かは知らぬが、私は、放送のやうな機会があつたら東京に勝鳳、松太郎といふ両先輩が健在であるといふ事を話して貰いたいと、斯道の為めに希望するものであります。
本月は伊藤さんとの御約束もあり、十日の話術倶楽部例会で、私が「沼津』を語つてお聴かせする事になりましたが、御承知の通り、この沼津の段は、唐木政右衛門(荒木又右衛門)の、彼の日本三大仇討の一つ伊賀越で、近松半二と近松加作の合作になる『道中双六』の六段目になつてゐまして、俗に『小あげ』と申してをります。冒頭の
〽東路に爰も名高き沼津の里、富士見白酒名物を、一つ召せ召せ駕籠に召せ、おかごやろかい参らうか、おかごおかごと稲叢の、蔭に巣を張り待ちかける、蜘蛛のならひと知られたり。浮世渡りは様々に、草の種かや人目には,荷物もしやんと供廻り、泊りを急ぐ二人連れ……
と、重兵衛と荷持安兵衛の出になりますところのツレ引を入れた風景、これを書下ろしに語られたのは、男徳斎といふ人で、稽古本にもチヤンと記入してある通り、こゝは三下りで賑やかに、東海道五十三次の、気散じの道中を先づ聴かせる所です。そして平作が出てヤツとまかせ、になり、生爪を剥がして金瘡の妙薬ですぐに癒るといふ、此の物語りの伏線があつて、お米が菊の折枝を持つて出て来る。まづ宅へ来てお休み遊ばせ、と『昔の残り風俗も、お羽打枯れし』で八文字といふこゝろもちの、お米が以前江戸の吉原で全盛の花魁であつた事を利かせてある。そこへ根が生えて重兵衛が宿り込み『いとしんしんと聞えける』までが、此の浄るりの第一段ともいふべきで、随分イキな文句などもあつて、この一節は、極くサラリと語るべきものです。
これを、今の綱造氏が津太夫の合三味線になつて文楽入りをした時に、二上りで弾いたのには、驚きもし、呆れもし、果ては私は怒つたものです。神戸にゐる先輩の喜左衛門氏なども非常に怒つてゐました。先代の得意のもので、津太夫君も唯一の語り物にしてゐる人だけに『君は二上りに弾きたいかも知れぬが、アレは古名人から残された通り三下りで……』と綱造氏に言へぬ筈はないと思ひます。以ての外、飛んでもない事だと思ひます。
『およねは一人物思ひ』から染太夫場といひ、やゝ時代めかして、さはりになり、それから『瀬川につゝく池添も』の三重までは、今度は『捨て』語ります。これが第二段で、次の松原の腹切りが又た一段になり初、中、後の三段に語り方を更へなければ、飽きて来て、中々ジツクリと聴いてゐられない訳のもので、以前は、前の小アゲを必らず別の太夫が語つたものです。義太夫の巧い拙いは別ですが私は、これを本格的にお聴かせして見やうとおもふのです。
さて本文に入りますが、私は文楽の三味線に、最も惜しいとおもう人は、今引退してゐる鶴沢寛次郎です。先代の南部太夫の合三味線として、長く鳴らしてゐたし、南部と共に摂津大椽さんの教へを受けて、四段目物は勿論、世話物でも何でも非常に心得たものです。とにかく、先代の南部太夫が名古屋から出て来たのを自分の宅に置いて、摂津さんの所へ連れてゆき、遂にアレ丈けの大物に仕上げた男です。其他、今の団六や勝市なども仕立てた人です。団平さん、広助さん亡き後に、摂津さんの芸を最もよく知つてゐる人は、今では寛次郎氏だと私は信じてゐます。
一しきり、伊藤さんが、会うたびに、私に、何故三味線を捨てるかといはれてゐたもので、私はもう久しく素人になつて、覚えてゐる浄瑠璃を稀に語つて楽んでゐたのですが、一昨年、昭和八年の二月に、先師、五代目鶴沢寛治の五十年の法事を、今いふ寛次郎氏(五代目の養子)が、序でに初代から石碑の散在してゐたのを、苦心して調べ上げて、阿部野の墓地へ合葬して、盛んなる法要を営まれたのに参会した。その時、ふと私の心に浮かんだ、師匠に対して追福の為めにも今一度三味線を持て見たい、持たねばならぬ。と思つたのが、近頃素人衆のお稽古などを始めた動機となつたのです。
此の法要に就ても、寛次郎氏の人格--美談がある寛次郎といふ人は、頗る物堅い人で、ま、それを見込まれて、先師も養子にされたのでもあらうが、最初は、かなり生活も苦しかつたものですが、無駄遣ひなど決してせず、貯蓄して出来た金を、投出してその時の盛んなる法事を営み、どなたにも一切迷惑をかけぬといふその心持は、寔に涙ぐましいものでした。その節我々門弟一同も、勿論黙つてはゐられず、金一千円といふものを醵集して、さし出した所、寛次郎氏は、その侭、これを寺へ、永代の墓掃除費として納付められたものです。
そして、自分は、毎朝五時に起きて、烈しい風雨の日は別として、夏冬なしに北の新地から阿部野の墓地へ、一番電車で通ひ、自身箒を取つて、墓の掃除をするのです。その運動の為めか、年来の痔持ちが、いつの間にか、奇蹟的に全癒したといふ事である。今日尚ほ引続いてその墓掃除を励行してゐる。今日の世の中に私はこの美くしい心がけは、涙のこぼれるほど、難有いものだとおもひます。
墓掃除をしまつて、朝八時に帰つて来て朝飯です。そして、九時には北浜の店へ出る株式の山ウさんといふ旦那が、必らずお稽古に来る。この山ウさんも、八時にキチンと来て、一稽古汗をかいて、九時に店へ出ると、実に頭脳がはツきりして、好い心地だと、殆んど、一日も欠かさずにお稽古に来られるといふ。それから北の新地の義太夫芸者の稽古があるぎり、他の稽古はあまり仕ないで、生活は先づ安全に、寧ろ気楽に暮らしてゐる。私は、斯道の為めに、斯うした人格も芸も立派な人を、埋れ木のやうにしておかずと、少し引ツ張り出して、皆なに教へてやるやうにしたら、と常に思つてゐるのです。
先師の遺産ともいふべき、貴重な朱章のはいつた本を、小さな図書館ほど所蔵してゐる。私が、今、老後の楽しみに、古い丸本を調べてゐる。その参考書など、時折、寛次郎君の所から借覧して、大に益を得てゐるのです。
寛次郎氏の義の堅い一例は、今の南部太夫を文楽に出す時に、仕打の方から、一つ引立てるつもりで弾いてくれと頼まれた時、寛次郎氏は、今の吉弥が弥太夫の歿後、その侭引込んでゐるのを引上げて南部の合三味線にする事にしたのなぞも、美談であつて、私は、心から敬服してゐる。私は容易に、人にあたまを下げる事が嫌ひな男だが、此の寛次郎にだけは、早くから敬服してゐる。
元来、今の友次郎氏より一枚上の顔であつた人であるが、松葉屋の広助さんが、どういふものか友次郎氏を可愛がつてゐた所から、寛次郎の上に据ゑられたのであるが、これ等も文楽の弊害の一つといへばいはれるのであらう。
私と寛次郎との縁故をいへば、少年時代には年も少し違つて、私は五代目寛治の高弟であつたが、師匠が歿くなつてから、二人連れ立つて六代目の野沢吉弥師の預り弟子になり、吉弥師の歿後、今度は五代目吉兵衛師の預り弟子になつたのも二人一緒であつた。
さういふ縁故から言へば今度、寛次郎氏と、今の吉弥(八代目)吉兵衛(七代目)両氏が主となつて、六代目吉弥、五代目、六代目の吉兵衛師追福の法要が、十月四日に営まれる事になり「野沢のながれ」と題する記念冊子を印行して、関係者へ配付され、その法要に私も当然参列せねばならぬ訳であつたが、恰度報知新聞主催の『東西素義競演大会』に私共香伯会の社中から数名の選手を出したので、その為めの猛練習で、寸隙なく、寔に相済まぬ次第と存じながら失礼する旨を寛次郎君には謝まつたやうな次第です。
この記念冊子『野沢のながれ』は巻頭に、墨禅、堂野前種松先生に御依頼した題字と、序文がコロタイプで載せられ、先師等の小照、略歴、古番付、三代目吉兵衛氏の自筆入章にかゝる『ふし名よせ』といふ珍稀な文献があり、それから明治十年五月出版の三府浄瑠璃三業因組合見立番付を載せてある。その番付には、今の松太郎さんと勝鳳(当時清次郎)さんが、二段目の処に小さく見える。三段目の虫眼鏡でなければ見えない所に『小寛』時代の私(十四歳)がのつてゐる。此の番付にある人で、現存者は、実に五六人しか無いとおもふ。私もまことに長生きを致した一人です。(煙亭筆記)
▲訂正 前号「一夕話」中、松太郎さんが、教へを受けた人々の中、松葉屋広助氏を脱し又た友次郎師は道行物の教を乞はれたもの、次に、松太郎さんと旅へ出た時の香伯翁の芸名を八兵衛時代としたのは「文吾時代」の誤り、其他文責は記者にあるものと御承知下さい。(煙生記)
ツレ引 野沢越道
浄曲一夕話(三) 痴遊雑誌1(7)54-58 1935.11.15
梅本香伯
浄瑠璃秘曲抄
浄瑠璃の語り物にも流行[はやり]不流行[すたり]といふものが中々あります。其中でも例の『太功記十段目』などは、今日でも最も多く語られるものになつてゐますが、この浄瑠璃は、御承知の通り、初代麓太夫といふ方が、始めてイタにかけられたもので語り出しの『残る蕾の花一つ』の「のこる」でギンへ移る、此の道でいはゆる麓場と称してゐるのなぞは、やかましい処で、摂津大椽さんなども随分やかましく教へられたものです。それで、歿くなつた三代目の越路太夫など、最も得意の語り物にしてゐました。また全くあの越路太夫の太十くらゐ結構な太十は、ちよつと近来ないといつてもよろしいとおもひます。
で、この太十、殊に前半に於ては、母の皐月が中心になつてゐまして、所謂「近江源氏」の微妙「廿四孝」の越路と共に、三婆アさんと称せられる位の婆さんです。この婆さんをしつかり語らん事には、太十はゼロといふてよい位のものです何しろ、承知で突かれたその竹槍を、自分で『ゑぐり苦しむ気丈の手負』といふほどの皐月、十次郎が戦場から手傷を負うて帰つて来て、それが絶命しても、まだ死なずに、光秀を叱つてゐるほどの婆さんです。此間も、五十義会(東都素義の大会)で、私の教へた人の『太十』で、婆さんが強過ぎるといふ評を下した大家があつたとか聞きましたが、それは物を知らぬ人のいふ事です、少し考へてもらひたいものとおもひます。
文章、作意、ツマリ人物に就ての考察が必要で、その人物を如実に現はせばよいので、十次郎にしてからが、十八歳の若者であるといふて、可愛らしい子役のやうな声を出して語る必要はない、十次郎は年こそ若けれ、アレは陣立者といひまして、相当しつかり語つてよいのです。振袖は振袖詰め袖は詰め袖、場柄、人柄をあたまに置いて、魂をいれて語りたいものとおもひます。
我々の方では神様のやうにおもふてをります彼の名人団平さんが、妻女と御子息を亡くされた時、初めて『愁ひ』のツボが解つたといふ話がありましたが、全くそんなもので、若い修業時代、まだ、丑之助といつた時代、伊勢の桑名に引込まれた四代目の寛治さんから、テンといふ三の音の一撥を教へられて、七年間、これに苦しんで、始めて、再び寛治さんに聴いて貰つて、賞められたといふ話も残つてをります。唯の一撥でも実に容易ならぬ名人の苦心はあるものです。
丑之助から団平になつた清本町(通称)は、猿糸から広助になつた松葉屋と、轡を並べて進境を見せ、遂に二人ながら浄瑠璃三絃の名人となられたお方ですが、二人共、其頃、素人ながら名人といはれた芸の持主、亀之助、炭小太といふ人に稽古をして貰つたものでした。其頃は実に、素人の旦那衆に豪い人がありまして先づ、この炭小太、それから十三[とざん]、一了軒、尼文、又たチヤリ語りではあつたが切りを語る名人の花富などといふ人々があつて、摂津大椽さんなども、稽古に行かれたものでした。
私の師匠の、五代目鶴沢寛治さんなども、この炭小太さんには稽古をして貰つたと聞いてゐますが、寛治師匠の話しにも、団平さんと広助さんが、炭小太さんの処へ、こしらへ物に行かれた時分、炭小太さんが、やつぱり丑之助の方が猿糸よりは一枚上だな、といふて居られたと聞いてゐます。
寛治師匠は、春太夫さん(摂津大椽の師匠)と団平さんの世話で、五代目を襲名した人ですが、寛治になつて、初めて文楽へ出ました時(芸題は確か日吉丸の駒木山城中でした)師の四代目、文吾寛治、又は鬼寛治といはれた人が、楽屋で聴いてをられて『あゝえらい人に名を譲つてしまつた、情けないなア』と嘆いたといふ事を聞きました。昔しの師匠などいふものは中々堅い、むつかしいものでございます。
浄瑠璃といふものは、作ツたら可かんものであります。作れば堕落します。もう、その時代には大に堕落してゐるといはれたものです。夫れに就て今、私の手許にある『浄瑠璃秘曲抄』※のはしがきをちよツと見ませう。それには斯うあります。(句点記者)
浄瑠利は元、仁義孝貞忠信の道を和らげ、愚俗に能く通じ禁[いまし]めとする芸なり。故に古へは貴人も用ゐ玉ひて、人に依て受領を賜はりしなり。義太夫節は、謡を和解て、実意専らと語る故、人情に能く通じ、世上大に流行す、謡には家元あり、義太夫節は家元なき故、やりたい侭に語るとも、誰か咎むる者もなく、心ある人は忍びて笑ひ、譏るばかり也。万人の称より一人の笑ひを恥るとは諸芸の禁めなり。諸芸とも都べて昔に衰ると雖も、義太夫節ほど衰ひしはあるべからず。中古名ある太夫故人となりて、年数遠からざるに、義太夫節の風義大きに替り、東西花実の別ちもなく、銘々気侭流義となり、古人をおもふは諸道の道なり。古人に便り、少しなりとも古法を聞き求め、風義正しくありたき事なり。
此の「秘曲抄」は竹本播磨椽の撰で、竹本大和椽の校、同錦太夫、同政太夫両師の評であつて、古名人の苦心の存する処を見るに足るべく、此の時代に於てすら、既に、義太夫節の衰微を嘆いてをられるのである此の時代といふのは、初代義太夫さんが、井上播磨から伝へられ筑後椽を受領して、後の播磨(即ち撰者竹本播磨椽)に伝へられた秘伝であれば、当流上代のものであります。従て斯道に遊ぶものゝ、経典であり、守本尊でもあるのであります。
其中から、更らに三味線に関する一項をあげて、如何に、その当時から、早くも今日の、否な、浄曲末世の徒を誡められたかを示すのよすがと致しませう。
三味線の弁
義太夫の三味線は、音色厚く、好当なるを古風とす。当時は重き駒を掛け音色細く、さはりは蝉の鳴音にひとしく、端手を専一とする。尤も風儀に寄ると雖も、時代の堅き場などは、乗移り悪く、左も浅間しく聞え、自然と浄瑠璃の実意を妨げ情を失ひ、カケ声にも程あり、太夫より大きなる声を出し、おめき叫び、手の廻るに任せて、引倒し、かけ撥、すくひ撥のちやらくらにて紛らかし、引にくひ事は引きよき様に拵へ直し、端手を専らとするは、素人だましと言ふものにて、音色能く手も能く廻るは数多あれど、義太夫を能く弾くは少なし。時代の中に世話あり、世話の中に時代あり、一行一句の間に、気転虚実の心得あり、十分を八分に用る事、助役の法也、都て芸人は他人の能き事も、悪敷事も知つては居れど、我が芸の未熟より、負惜み出で、横道に行くと、気性の上下智慧の二つにある事なり端手を嫌ひ、正道なる芸を好み、聞く人もあるぞかし。人及ばざれば、情を以て恕すべしといふ、芸道に真実なくては、饅頭の皮斗り喰ふが如し。
今の芸道を必ずしも、饅頭の皮ばかり喰ふとは言ひませんが、此の秘曲抄の出来た時より、此の嘆声があつたので、それより末世となり、更らに、大正、昭和となつて、故杉山其日庵先生の晩年文楽堕落の叫声嘆声も、至極御尤とおもはざるを得ないのであります。茲に、私は旧記※によつて義太夫道祖先の略記を持出して、更に回を改め、太夫、三味線の諸般の芸談に移らうとおもひます。
井上播磨掾並清水理兵衛之事
寛文年中大阪に井上市兵衛といふ人あり。生得音声たくましく、古流の節譜に心を付け浄瑠璃の道小工夫をこらし、風与江戸万歳の音に心を付けて体となし、自然と珍らしき一流を語り出し、終に、芝居を興行し、程なく受領して井上播磨椽藤原要栄と号し名誉を顕はし、世に播磨流と称美せり。音声を色々に遣ひ分け節をあみ出されし故、今の世に伝はり、竹本、豊竹共に此の流を用ゐ、其の流れを汲む太夫井上氏の節事を稽古せずといふ事なし。貞享二年丑五月十九日死去す。
法名 夏目了音日弘
行年五十四歳播磨椽死去後、門人多き中に清水理兵衛といひし人は、大阪安居天神の辺りに住居せる料理屋なりしが、此道に執心深く、声柄よく、功者に能く語り、井上氏の奥儀を呑込し故、播磨椽死後に花香失せず諸人今播磨と持はやしける。後に剃髪して伴西と号せり。
竹本筑後椽並同播磨椽之事
摂州東成郡天王寺村に、五郎兵衛といへる農夫あり、生得浄瑠璃を好み、然も、声柄大音にしてさはやかに、甲乙地合、自然と兼備せし大丈夫の生質なり。井上氏存命の間、浄るりを学び、清水理兵衛に彼の流の奥儀を習ひ、又其頃京都に名誉を顕はされし達人宇治加賀椽に立入つて、音節の秘術を受て修行し、古風を仰きて、心の師とし、肺肝を砕き、鍛錬を尽し、終に一流を語り出し、名を改め、竹本義太夫と号し、貞享二乙丑年道頓堀芝居を興行し、鞠挟の内に、篠の丸を付けたる櫓幕の紋所、これ竹本氏出世の始まり、其上近松門左衛門、新作を編出し、追々面白き趣向といひ、義太夫の語り盛り、見聞く人、此の太夫ならではともてはやしぬ。殊更竹本筑後椽と受領を申受、繁栄の誉に輝けり。元禄年中の末、竹田出雲椽、竹本氏の座元となり、人形操道具建に至るまで美を尽せしにより、益々繁栄して、流義弘まりぬ。併し定命限りありて、正徳四年午九月十日、行年六十四歳を一期とし終に死去。
法名 釈道喜(天王寺念仏堂の向に石塔あり)
一生涯の内、其名高く、死後に至りては、名誉を四方に顕はし、義太夫節と称美し、諸国一円に此流を学ひ、繁昌せり。又竹本政太夫といふは、大坂の産、中紅屋長四郎とて未だ前髪立の頃より、浄瑠璃を好み、竹本豊竹の流義に執心厚く、まんまと芸に仕負せ若竹政太夫と号し、始めて豊竹座を二年勤め、節謡に心を付けて工夫を凝し、浄瑠璃に実のり、三年目に、竹本に帰り、立物となり、筑後椽の跡がはりを勤めらるゝ、兼て心掛の深き故と、衆人の称美浅からず、夫より次第に立身ありて、竹本義太夫と変名し、相続して播磨少椽藤原喜教と受領せられしが、不幸にして延享二年乙丑七月廿五日、行年五十四歳にて死去。
法名 不聞院乾外孤雲居士(国恩寺に埋葬)
又竹本大和太夫といひ云し人、大音の名人あり、若年の砌より、竹本座を勤め、故政太夫と肩を並べし大立物なりしが惜哉、芸盛りに此の世を去りぬ。此外、陸奥茂太夫、多川源太夫、竹本頼母、幾世太夫内匠理太夫、和泉太夫、河内太夫、其余上手分の語り手数多ありし。
豊竹越前椽並江戸肥前椽の事
豊竹氏は大阪南船場の産、若年の頃より、井上竹本の流義を学び、家業を打捨て、浄瑠璃に心を籠めて工夫をこらし終に達人の名を世上に顕し、世に冠たる器量の験しにや、音声天然と格別に秀でし上、器量備り、十八歳の頃より、竹本采女と号して、芝居を勤められ、程なく、豊竹若太夫と変名し、暫時は、竹本氏と一所に勤められしかども、壮若の時より、別に芝居を興行して立身あり、豊竹上野椽より再転して、越前少椽藤原重泰と受領し、益々名誉を輝かし、晩年に至り、功成名遂げて隠居せし後も、芝居の繁栄町中の贔屓増り、年齢八十歳に近けれど、長寿の上、堅固なり。斯く入納の連続したる果報人は、当道に於て、古来例なし。
江戸肥前椽は、元来大阪の出生也、若年のより此道に立入、昼夜の修行怠たらず、越前椽に随従し、新太夫と号して勤め居りしが、享保年中、江戸に立越え、芝居を勤め、次第々々に贔屓強く、豊竹肥前椽と受領し、剰へ、自立にて芝居まで求めしは、大なる立身なり、猶又、定芝居の薩摩座、辰松座は、休みの時もありぬれど、豊竹座ばかりは絶せぬ繁昌にて、相続せしは高運と謂ふべし。三ケ津に、古来より名人の太夫数多ありしなれど、芝居主と座元と、太夫との三つを兼備せしは、京都に宇治加賀椽、大阪に豊竹越前椽、江戸に豊竹肥前椽、此の三人ばかりなり。
以上、浄曲祖先の伝記略抄でありますが、江戸に於ても、肥前椽といふお方の盛んだつた時代があり、現在の東京の斯道衰頽に考へ及ぶ時には、実に何とも申やうのない情けない気が致します。更らに序ながら、秘曲抄の中の間拍子の条に次のやうな一項があります
三つ五つ七つ、と心得べし。たとへば、瀧の水の落る如くなり、三つでも一尺、五つでも一尺、七つでも一尺、古拍子なくては、雨だれ拍子にて退屈するものなり。そこを程よく引立てゝ、気のつきぬ様に語るを名人といふなり。播摩々々と、一体を忘れぬ様に義太夫節といふものは『表加太夫裏播磨』と、合はしたるものなり。能々工夫あるべし
表加太夫といふのは、前記の宇治加賀椽で、初代義太夫は、この加賀と、播磨とを合せて工夫鍛錬されたもの、といふ事であります。(煙亭筆記)
▲訂正 前号「一夕話」二頁二段目中ほど『とにかく先代の南部太夫が』とあるは『今の南部太夫』の誤り。沼津を聴く
加久丸
待望の沼津!当夜は惜しくも奥までやられず、尤も、梅本さんは神経痛との事で、なれどアノ声量、七十二歳の高齢とは思はれず。
梅本さんを役者にしたら、とフト想つた。仁左の平作は、余りに枯淡すび、歌六の平作は余りにギクシヤクにすぎ、過ぎたるは及ばざるとか、梅本さんを、平作に、そして舞台で、と思つてみると、仁左と歌六の故人等に友右衛門をぶちこんだ、カクテル、が出来上がるのでは有まいか。是れは串談でなく、ほんどうにそう思ふ。梅本さんの至芸に対して、批評がましき事など、勿体なくつて云へぬ、只々感に打たれるのみ、早く御健康になられ、話術研究会主催の度毎に、とは申上げぬが、時折おきかせ願ひたいと思ふ者は、恐らく全員の希望と思ふ。
浄曲一夕話 痴遊雑誌 3(2)60-64 1937.2.18
梅本香伯 談
嘗ても申述べたやうに、東西を通じて、私の先輩が二人ゐる。一人は豊沢松太郎氏、他は鶴沢勝鳳氏で、共も東京にあつて尚ほ健在です。今の文楽は皆私の後輩でもありますが、云はなければならぬところは遠慮なくドシ〳〵一般のために御披露致します。私の意見は「述而不作、信而好古」であつて今の若い人は往々にして述て作する方であります。私はそれは大まちがひであると思ひます、今日の浄瑠璃あるは古の大先輩の力によつたものでありますから、大先輩の教訓に従つて御話したいと思ひますが、しかしそれには第一この歴史を知らねばなりません。
○
寛文年中大阪に上市郎兵衛と云ふ人がありました。生れつき音声がよく古流の節を謡ふ心に浄瑠璃の道に工夫をこらし当時流行した江戸万歳の音をとり入れてこれを体としてめづらしき一流を語り出し、芝居を興行しましたが程なく井上播磨椽藤原要栄といふ号を受領されました。この人は音声をいろ〳〵につかひわけて節をあみだされましたので、今の浄瑠璃の起源となつたのであります。
○
竹本豊竹共にこの流を用ひ、その流れを汲んだもので太夫井上氏の節事によつたものでありませうが、この方は貞享二年丑五月十九日五十四歳で死去されました。その後門人が非常に沢山ありましたが中に清水理兵衛といふ人がをられました。この人は大阪安居天神のほとりに住居して御商売が料理屋であつたと伝はつて居りますが、むかしは素人の方でこの道の達人が出られたのであります。
○
この方は声柄はよく井上氏の奥儀をのみこみ、播磨椽死後諸人に今播磨ともてはやされましたが、後に何か考ふるところあつて伴西と号して僧侶となりました。
○
さて次に竹本、豊竹両氏初代のお話を一寸致しませう、竹本氏は摂州東成郡天王寺村五郎兵衛と云ふ農夫でありました。生れつき浄瑠璃を好んで声柄大音にして大丈夫の性質を持つてゐたと云ふことです。井上氏が存命の間浄瑠璃を学び、後清水理兵衛に奥義を習ひ、且つ又当時京都に名声をはせた達人宇治加賀椽に音節の秘術の教をうけ彼の一流を語り出したのです。
後、名を改めて竹本義太夫と云ひ、貞享二乙丑年道頓堀で芝居を興行して居ります。これが竹本義太夫の出世の始まりとなつたと云ふことです。近松門左衛門が新作をあみ出したがその義太夫の語りにはこの人なくてはと、もてはやされ、竹本筑後椽博教を受領されてゐます。元禄の末頃には竹田出雲椽竹本氏の座元となり人形操道具を作るなど善美を尽したので益々この流義は弘まつたと云ふことです。しかし定命には限りがあつて正徳四年午九月十日齢六十四で死去しました。
○
又その後竹本政太夫といふ人が出ました、その人は大阪の生れで前髪立ちの頃から浄瑠璃を好んで、竹本豊竹の流義を汲み、後若竹政太夫と云ひ豊竹座を二年つとめ、三年目に竹本へ帰り立物となつて筑後椽の後がはりを勤めましたが衆人に称讃され、つひに竹本義太夫を相続し、播磨少椽藤原喜教を受領されましたが、不幸にして延享二年丑七月廿五日五十四歳で歿して居ります。法名「不聞院乾外孤雲居士」として国忍寺に埋葬されてゐます。
又竹本大和太夫と云ふ名人が出て居ります。故政太夫と肩を並べた程の大立物であつたと云ふことです、このほか陸奥茂太夫、多川源太夫、竹本頼母幾世太夫、内匠理太夫、和泉太夫、河内太夫その他上手な語り手が多く出ました。
○
次に豊竹氏は大阪南船場の生れで若い時から井上竹本の流儀を汲み達人の名を世上に輝かした名人ですが、この人十八歳の頃から竹本采女と云つて芝居を勤め後、豊竹若太夫と改名しました。これが豊竹氏の始まりです。間もなく上野椽より変転して越前少椽、藤原重泰を受領されてゐます。
古書によりますと、当時浄瑠璃芝居は全盛を極め豊竹氏の贔屓はたいしたもので入納即ち金品を蓄へ、彼程の果報人は古今例なし……と記されて居ります。それから見ても豊竹氏の人気か想像出来ます。江戸肥前椽は元来大阪の生れで新太夫と号して贔屓を得て、豊竹肥前椽を受領されてゐます。
○
故人達の中で名人上手と云はれた人は陸奥茂太夫、多川源太夫、豊竹幾世太夫、竹本播磨少椽、竹本頼母大和太夫、和泉太夫、河内太夫それから豊竹駒太夫、竹本錦太夫、鐘太夫、麓太夫此太夫、島太夫、匠太夫、港太夫、ずツと新しくなつて染太夫、春太夫、咲太夫、それから近世になつて故人になられた染太夫、春太夫、古靱太夫、盲人の住太夫、摂津大椽、綱太夫、弥太夫、大隅太夫等が出て居りますが、筑後椽、越前椽の両元祖に及ぶ音声は一人もありません。この二人は三味線の鶴沢友次郎、人形の吉田文三郎等の神化の名人達と云はれた人でありますのでその人の教訓は立派な教科書であります。
○
古人の云つた言葉に「序破急」といふことがあります「序破急」と云ふのは気持ちのとりまはしのことでありますが、名人と云はれる人の仕出しの浄瑠璃は悪くこぢけて来る太夫はありがちですが、これは稽古修行の精が入らないためです。名人達は一体弟子にどんなことを教へたか、井上播磨椽清水理兵衛に示した教への中に浄瑠璃と云ふものは秋は人の心がしづむ時だから華やかに語らなければならないとあります、これは人の打ち沈む気を引立てん為めであります。春は人の気の浮きたつ時だから引き締めて語らなければ聞いてゐる人にぴつたり来ないと誡めて居ります。
○
宇治加賀椽が門弟に教訓したところによりますと浄瑠璃を稽古する人は一体、大声にして下手な人は引き締め、声のはつきりしない人はよく声の通るやうに心掛けて修行しなければその甲斐がないと、又如何様に上手な人でも我芸にうぬぼれの心をもつて語るのは聞き苦しい……といつてをります。
竹本筑後椽に陸奥茂太夫が初心の頃女の詞を如何に語つたら……と質したところ筑後椽曰く「傾城はよくそれをわきまへて語らなければいけませんたゞ傾城であるからと云つて、べとべとと語つては惰弱になつて聞くに下品となる、たゞ、なんとなくぼんやりと傾城のたましひを考へて語ること」…と云つてゐますが、芝居はセリフ、浄瑠璃は語りですからなか〳〵むづかしいところです。筑後椽は更に言葉を続けて「次に高位のお方の詞であるが、よく心を汲んで語らねばならない。貴人の詞であつても色々あるが余り位をとり過ぎて語つては聞き苦しくなるからよく心して稽古にあたつて工夫すること……」とその道をさとしてゐます。
○
豊竹越前椽が門弟和泉太夫、河内太夫等に注意した言葉の中に、「芸に精を入れると云ふことは自分の持ち役の時は床へ上つて心安らかな思ひで語ること、それには、一に稽古に精を入れてゐさへすれば自然心安らかになつて失趺はない、この心がなければ人形の操りにまで不合理を生ずることになる」と、又加賀椽の門人宇治甚太夫、伊太夫がより合つて、師匠の語らるゝ節は見物に賞讃されないといふことがないが、我々とても随分精を入れて大事に語つてゐますが見物衆がかけ声をかけてくれないがこれはどうしたワケだらう……と云へば加賀椽は答へて「人にほめられようと思つて語れば肝腎な場になつて声がいたみ聞き苦しくなるものだ、それでそんな俗心を去つてたゞなんとなく心安らかに語れば自然その語るものにも実が入るものである」と云つて居ります。
〇
三味線にも何々の型だとかいろ〳〵ありますが、三味線は浄瑠璃の次に生れて来たものでその元祖は竹沢権右衛門と云ふ方であります。次いで一世の名人と云はれた鶴沢友次郎や鶴沢平五郎、野沢喜八、野沢喜八郎、野沢藤四郎、鶴沢寛治といつたやうな人が出て居ります。
それから、ずツと近世になつて五代目鶴澤友二郎、鶴沢清七、鶴沢清六、豊沢大助、鶴沢清四、三代目野沢吉兵衛、初代豊沢団平、四代目豊沢広助らが聞えてをりますが、中でも団平広助の両人は当時東西の名人として未だに団平の型、広助の型として一つの型を伝へてゐます。それから私の師匠の鶴沢寛治、五代目野沢吉兵衛、大隅太夫、越路太夫に今の津太夫の師で二代目津太夫をあげることが出来ます。今では津太夫、土佐太夫、古靱太夫は文楽の三豪としてもてはやされてゐることは人のよく知るところです。
〇
三味線の話は後に譲つて浄瑠璃第一課の姿勢に入ります。浄瑠璃に於ては姿勢が最も大事です。この姿勢が出来なくて義太夫節の発声は出来ません。その正しい姿勢は尻にあてる台をあてゝ手は膝の上にしつかり置いて胸を張る。五体が全部統一されてゐるかうした姿勢で腹の底から出す声でなければなりません。
これをやつてゐると声帯が厚くなつて喉にバチダコの様なタコが出来て来ます。口は総てやはらかにもつて来るのであります。太夫さんも素人の方も口の出来てない人が多い。例へばイロハニホヘト……とありますと、イロハ……と字にさからはずに語つて貰ひたいものです。さうしますと声がよく前に通る様になります。
○
声には声曲と音曲の二タ通りがありますが浄瑠璃義太夫節は音曲であります。同じことを繰返す様ですが、今の流行の歌の「エエ…」とやつてゐるのは声曲であつて音曲ではありません。即ちナンでもさうですが力です、汗をかいて一生懸命にやると初めていゝ声ともなるのです。今語つてゐられる人は写実に流れすぎてゐますが、私は写意でならなければならないと思ひますこれは一寸話がそれますが、例をあげますと「太功記」の市村羽左衛門の十次郎ですが、羽左衛門の扮装がうまいだけを云ふのではない、彼の身体のこなしです、少しも動かない中にもしつくり情があらはれてゐます。こゝです私の云ふ写意といふのは……浄瑠璃でもこの意をのみこんで語らねばなりません。芝居ではきらびやかな舞台と白くぬつた俳優の扮装がありますが浄瑠璃は一人で演つてその情味を出すのですから一層修業をつまねばならぬ道理です。(つゞく)
浄曲一夕話(続き) 痴遊雑誌 3(3)76-79 1937.3.25
梅本香伯 談
○
浄瑠璃は心であつて三味線と人形は手足であります。手足の動きは心の動きによるものでありますから三味線も人形も語る人の心によつて憂ひは憂ひ喜びは喜びとしてつけなければならない。次に拍子に移りますが、間の拍子といふものは七五三に乗らなければならない、三でも一尺であれば五でも七でも一尺であります、右の拍子に乗らなくてはあまだれ拍手になります。そこをほどよくひき立てゝ声のつきないのを名人と云ふのであります。
播磨々々と一体を忘れない様に義太夫といふものは表加太夫裏播磨と合したものが義太夫節となつてゐるのでありますから、それをよくわきまへて語らなければなりません。これだけのことをよくのみ込んでから語り出しに入るのであります。
○
おくりは人の耳をすます様に落ちついて語り出さなければなりません。しかし聞く人の耳をひき入れるために、小さい声で語り出すこともあります。それもいゝけれどそれを好んではいけません。なんとなればそれはその語り出しの文章にもよりますから、語り出しは小音でハツキリした通る声で文章とその場所もよくわきまへて語るのが法則です。
語り出す文章は時代モノ、物語り、シラごと、位のあるもの、憂ひ、手負ひ、チヤリ、酒の酔、痴人、ドモリ、爺婆、娘、子供、敵役、ウキ合、掛合艶事、道行、カゲごと等々ありますが先づ最初「時代モノ」から申します。
○
時代モノはどんな具合で語るかと申しますと、これは余りのび過ぎると聞き苦しいものです、そこでゆつたりと節をつけて、ねばらぬ様にサラリ〳〵と語らねばなりません「モノ語り」は入りくんだことをむかしの言葉で語るのですから言葉もきつぱりしなければなりません「シラごと」此は余りせいて絶句したりしては聞く人にわかりませんから、心をしづめて早口で語る様にすること「位のあるもの」位にもいろ〳〵上下がありますし又その語る文章によつてよく語り分けねばなりません、例へば
大将を語るには威儀を正しくして豪勇寛仁の、味をもたせなければなりません「憂ひ」この場合には自分の事のやうに思つて慈愛のこもつた言葉で語らなければなりませんが、聞く人のあはれを誘ふために泣き落しの一手を用ひて声をころばすのはよくないことです。又自分自身の事のやうにワア〳〵といつたからとて語り手自身が泣いたのでは尚更聞く人には興味がない。この点に憂ひを包んだ語りは語る方で一層よく気をつけねばならない難しさがあるのです。
○
「手負ひ」声みだれてハア〳〵騒がしく芝居の様に手負ひすることは下品になりますから控へねばなりません
「チヤリ」時の流行の言葉を用ひて人を笑はすことはよいけれども余りあくどくやるのはいけません、軽く語るのが第一の心得であります。
「酒の酔ひ」舌のまはらぬといふ、つまり呂律の廻らぬやうに語る場合には声の大小に気をつける必要があります
「痴人」阿呆じみて何となく締りなく調子を高くして余りそれがキツ過ぎるとしまひに可笑しくなつて来ます。
「ドモリ」云ひ出しがいひにくゝて話し出すとスラ〳〵出て来ます、ドモリにもツキドモとヒキドモの二通りありますが、ヒキドモはツキドモにくらべて非常に困難です。
「爺、婆」爺婆の語りであつてもやたらに歯ぬけの言葉をつかつてはいけません。
「子供」可愛らしくカン声で素直に語るのであつて声色に殊更やるのはよくないと心得べきです。
「敵役」言葉づかひではおしがきかないのでどことなく底意地悪くやらなければなりません。
「女」この言葉の語り分けは諸先輩の遺訓の竹本筑後椽が陸奥永太夫に語つたところで述べておきましたが、詳しく申し上げますと、ご婦人のなかにも娘、母親、遊女、といろ〳〵語りがちがつて参ります。
同じ娘でも上位の娘もあれば町娘もあるといつた具合ですが、ともかく娘を語るにはしほらしくおぼこい様に語らねばなりません。その語り分けになりますと「おやとおやとのいひなづけ……と音をまぜてネバ〳〵語ればお姫様らしく「モシトヽサン……とサラ〳〵運べば町娘となります、遊女でも女郎と呼ばれる梅川や吾妻と遊女阿古屋とは各々その品性を語り分けなければなりません。どの道遊女ですから色気を充分持たせるのは言はずと知れたことですが阿古屋には相当なくらゐをつけねばなりません。
次に母親ですが、難かしいとされてゐるのは野崎の久松の母親です、「そ」んなら久松もういきやるか……の一くだりのうちに子との別れを悲しむ盲の年老いた母の情を描き出さなければなりません。これは故人となられた大隅太夫が天下一品とされたものであります。
○
娘、遊女、母親の語りは前項で終りましたが、女は総じて情愛を持たせて語るのが第一であることを附け加へておきます。
「人物の年齢」この語りは実際に難しいものです。よくこの文章の人物は何歳ぐらゐでせうかと玄人の方からさへも聞かれることがありますが、この質問には一番困ります。年老いて若い声を有する人があるかと思へば又若い人でも老けて聞える人もあります。それはまち〳〵です。この人物は何歳ぐらゐかと年にもつて来るべきではないと思ひます。その語る文章をよくのみ込んで老人は老人、若い人は若い人と語り分ける明察が必要であると思ひます「ツメ合」男でも女でもつきあつて語る時は男は男の声と、女は女と、甲乙と分けて語られますが、男同士のことはその語り分けをはつきりさせないとどちらも同じ様に聞えて解りにくいものです。これは女同士の方でも同じことですが、それをよく語り分けて紛らはしく聞えないやうに語ること、又甲と乙が向ひあつて話をしてゐる時、相手の話を取る場合余りけたたましく語るのはいけません。そのとりあひを上品に気をつけて語る心得が大切であります。「掛合」これに出た人は皆よく知つてゐることでありますが、初歩の方のためにお話しますと、受けわたしは間をかぶせかけて一字ぐらゐ字にはこだはらず、かぶせかけて言ふといふのがこの法です。「艶事」麗しく咲きほこつた花に水を打つた様に、花が打ち水にうるんだ様に、華やかに語らねばなりません。しかし語る言葉が余りべたつくところは聞いて嫌味にならぬ様にさつぱり語らなければ下品になりますから、これを十分心懸けなければなりません。
「道行」ひときは華やかに沈まぬ様にサラ〳〵と語るのがよいと云はれてゐます。そのワキの語りは次の景事で申します。
「景事」随分節のこもつたことでありますから音の甲乙の語りの二三字の運びにも気をつけなければ、つれて語る時声が入りまじつてわからぬものがあります。ワキはシテの声にさはらぬ様に助けるのが役目であります。シテの言出しで後一字の次からついてゆくと云ふのです。又ワキはつけ節じりのひつぱりを残して、間のぬけぬ様に語らねばなりません。これは浄瑠璃ばかりではなく他の何流でも同様であります
○
今日私の耳に残つてゐる三味線の名人といはれた豊沢団平、四代豊沢広助の両人、これにづゞく名人は沢山ありますが、それは差しおいて本場の文楽の三味線を聞くとどうも一手販売になつてゐます、どの三味線弾きを聞いても同じです。所謂今日では豊沢流の三味線ばかりになつてしまつてゐます。私等の子供時代には、三味線は鶴沢家野沢家、竹沢家として沢山あつて、その三味線弾がそれ〴〵皆ちがつてゐたものです。
舞台に出て「デン」とひくのも皆それ〴〵独りづゝちがつたものです。それほど三味線全部の芸風がもてはやされた時代だつたのですが、今日浄瑠璃が行詰つたナンのと云はれるのは三味線が皆同じであることと、又太夫の語りも同じ様な形になつてしまつたからです。(つゞく)
浄曲一夕話(続き) 痴遊雑誌 3(4)57-58 1937.4.18
梅本香伯談
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三味線は智仁勇にかたどつて胸にはひきて手にひくなよ心すなほに……といふ教訓があります「ツンテン……」とありますが「チン」と一つひくにしても情をもつてひくのが三味線弾きの役目なんです。その心持を三味線に現さなければなりません。三味線はガチヤ〳〵ひいてはいけませ。太夫より大きい声で「ウウ……」と唸つてゐるのをよく見受けますがあれはいけない
浄瑠璃の言葉は三味線の調子が四でも五でも六でも調子の一段高い言葉で語るべきであります。高く語ると苦しいから低く語るといふことをやりがちですが、心得ねばならぬところです。肝腎の大夫を助けて文章をひく三味線弾きは今では数あるまいと思ひます。
今の心をもつて三味線弾きは文章を皆けつてゐる。太夫の方でも心の中では思つてゐるが、かうやつてくれと云はず遠慮がちであります。そんな点がどうもぴつたり来ない理由なんではないでせうか。
○
「ナマリ」これは浄瑠璃では大阪言葉でなければいけないと云つてゐますが今の大阪の文楽を脊負つて立つてゐるところの津太夫は福岡、土佐太夫は四国の土佐、古靱太夫は本京に生れてゐます。これから見ると本場の生れの人は一人も居りません。勿論これ等の人々は子供のうちから大阪にゐたから、その国のナマリがなくなつてしまつてゐます。
ナマリにも節ナマリと地ナマリの二つがあります、そのほか国の手形があります。それで本場の大阪にはナマリがないかといふと大ありです。これを太鼓で云ひますと真中をたゝけば「ドーウーン」と云ひ端の方をたゝけば「トン」と云ふ、即ちその太鼓の「ドーウーン」と云ふところが浄瑠璃で云へば中心で、これが大和言葉となつて浄瑠璃ではこれではならないと云はれてゐます。しかしナマリをやかましく云へば文章でもわからぬところが沢山あります。
水の流れる「川」と獣の「皮」もどちらもカワと云ひ、又渡る「橋」と物の「端」と云ふ様にそれらを挙げれば限りがありませんが浄瑠璃に於ては、なるべくその中心の語韻に近いものがよいのであります。
〇
三味線も今は豊沢流だけになつてしまひましたが昔は東は東、西は西と東西二派に対立してゐたものです。太夫も亦さうですがそれが今はなくなつてしまつた。清元とか長唄とか常磐津の様に家元だとか宗家だとかといつたものが確然としてゐない。これについて面白い逸話があります。
名人といはれた摂津大椽に、門弟が「先生が宗家になられては」といふと師の摂津大椽は門弟をかへり見て曰く「浄瑠璃においてはそれを作るべきものでもなければ、又自分はその柄でもない」
つまりこの道のことは古い先生に習ふよりほかないのであります。浄瑠璃と云へば文楽を直ぐ聯想します。勿論今のところこれ以上のものがないのですからこれを貶すのはどうかと思ひますが、何を苦しんで長唄や清元、常磐津の真似をして新作などを出してゐるか…と私は敢て云ひます。そんな新作に手を下さなくとも古いものでまだ世に発表してないものが沢山あります。
先年歌舞伎座に文楽が来た時に歌舞伎座の廊下で今は亡くなられた杉山茂丸先生にバツタリ会つて先生の曰く「俺も随分斯道に力を入れたがもう長くはないたらう、だが今の浄瑠璃界を見ると死にきれぬ、なんとか昔の隆昌に導きたいものだ」と云つてをられました。亡くなったのはそれから間もなくのことでしたが……杉山先生は子供の時から浄瑠璃をやつてをられた方ではなかつたのですから所謂旦那芸ですが斯道の為には随分お骨折りになつたものです。
今日この様に浄瑠璃界がなつたのも一つは昔の様な名人が出ないのと、一般人間においても智的の方だけ働いて実際に芸道の方が伴はないからであります。国家でも支那の様に広ければ治め難いのと同様に現在の浄瑠璃界にも亦さういつた憾みが多分にあります。この方はなるべく古い方に教へを乞ふのが賢明です。芸道に精進するには酒の好きな人は酒を慎しまねばなりません。酒が一番禁物です酒は折角の声をつぶしてしまひますから。
以上の教訓は、百五十年前の秘曲で井上播磨より筑後へ、筑後より後の播磨へと伝へられた音声の秘曲を竹本播磨椽撰、竹本大和椽、錦太夫、政太夫等によつて一巻にをさめられた「秘曲抄」で、昔は師が沢山ゐる門弟のうちより、たゞ一人に伝へた秘曲抄なのです。この古書は大阪の文楽に持つてゐる人がある位でせう。しかし今日ではこんなものを私すべきではないと思ひこゝに公開したわけです。(此稿終り)
浄曲界の恩人杉山茂丸先生 痴遊雑誌 1(4)297-298 1935.8.15
梅本香伯
其日庵杉山先生が歿くなられた。私は先生ほどの人物は、又と今後生れて来ない人であるといふを憚りません。我が義太夫の為めに、殆ど何もかも忘れて熱心に尽された先生は、実に斯道の大恩人、斯界の大御所であるとおもひます。とにかく浄曲に関しては、よくあらゆる事を調べて、覚えてゐられたことは驚くばかりでありました。
先生の、政治界其他の方面に終始蔭の人として心を致されたことは、説くに別に其人がありませう、私は唯だ、私達の芸術の恩人として、権威者としての先生を欽慕する外なきより、今回の御別れに、在りし日のさま〴〵の事が想ひ出されます。
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先生は私の事を、常に八兵衛々々々と呼んでゐられました。それは私が以前文楽で先代の相生太夫を弾いてをりました時の芸名なのです。先生が時折御褒美や盆暮れに羽織を下さる人に、文楽の道八、古靱、叶大隅などがあり、東京では後援者となつて、もり立てゝをられた素女、それから新橋の小松屋などでした。そして先頃、私に紋付の羽織を贈られて、着て呉れといふ事でしたが、私は其時『先生、私は今殆んど廃めてゐますが、私を芸人として此の羽織を下さるのですか』と申しますと『そうまア理屈を言ふな、俺はお前の三味せんが好きなのだから、俺だけはお前をやつぱり昔の八兵衛とおもつてゐる』といはれましたので、私は『では先生だけには芸人としてお羽織も頂きませうが、お仲間の福島さんや副島さんには芸人とおもはれたくありません、先生お一人です』とキツパリ断はつたやうな訳でした。そのお羽織はまだ一度も手を透さずに仕舞つてあります。
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東京の杉山、大阪の加藤といはれる耳鼻咽喉のお医者で加藤亨といふ義太夫に対する権威者がありますが、此人が今の綱造の絃で『和田合戦』の市若初陣を、東京の大内旅館で語つた事がありました。この大内旅館の旦那は阿能といふ人で曩頃関西へ行つた時汽車の中で何者にか惨殺されたが今以てその犯人は判らない、その阿能さんは杉山先生に知られてゐた人で、その関係から、この加藤さんが大西旅館の女将を通じて、一度綱造に会つてやつて下さいと申込みました時、先生は『何だ綱造?まだ子僧ツ子ぢやないか、そんなのが東京へ来て法螺を吹いたとて俺は合手にはせん、東京には日本一の法螺丸がをるぞ』と言はれ、後に新橋の小松家が先生にお目にかゝつた時、かう〳〵いふ話だ『この話を八兵衛に聴かしてやつたら嘸ぞ喜ぶだらう』といふ言伝がありました。
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昨年私か、先師鶴沢寛治の墓碑を大阪に建てまして、その折先生に篆額の揮毫を願つたお礼に、司好、寛三郎などゝお宅へ伺つた時、先生は『恰度好い処だ、今、俺が自分で買って来たかしわがある』といつて鳥の御馳走になり、席上、義太夫の話に花が咲いた時、先生は『実に今の文楽のザマは何だ、斯うも義太夫を崩して悪くしてしまつては、俺れは泣くにも泣けんぞ』としみ〴〵痛憤された事でした。
その後、去年の暮でした、文楽が歌舞伎座へ来て、大隅太夫や叶が伺がつた時も、先生は『俺も年はとるし、近来のやうに血圧が高くなつたりしてゐるが、死んでも死に切れぬ』と申されるので『何でゝござります』といふと『何で、と聞くことがあるかい、今日の上るりのザマを見ては、俺は今日まで、此の道の為めに擲うつたこの、杉山の精神が惜い、残念でたまらぬ』と痛憤されたといふ事です。
この七月、明治座へ文楽が来た二日目に私が見物に行きました時、大隅太夫に廊下で会ひましたが、悄気返つて『近頃は松竹は勿論、全部が旦那(先生)をしくじつてゐて困ります、古靭さんや私がお宅へ伺へばいろ〳〵と話をして下さいますが、とにかく文楽は見限られた形です、何とかして貰へますまいか』と言つてゐました。それでも十五日の日には見物に行かれて、呂太夫の長局をお聴きになつて大層気に入られ、十七日には呂太夫と叶がお宅へ伺がつて、いろ〳〵お話がある中に『気分が悪くなつたからお前達は帰れ』といはれ、下へ降りて奥様を二階へ上げたそれツきり、ドツと重態に陥られたといふ事ですから、呂太夫と叶が先生の最後のお話を伺がつた事になつたのでした。
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先頃死んだ三代目の越路は先生が大層贔負にされてゐましたが、その越路が、あの朝太夫の悪口を言つたとかで、先生は越路太夫に『好い気になつて馬鹿な事をいふな、松太郎とアノ二人が東京でズーツと三十年もアノ人気を持続けたのは何としても豪いものぢや、お前達は三十年といふものを一ツ処でやり続けられるものぢやない』と叱られた事がありました。それから女で最後まで贔屓にされた素女が、近頃病気になつたのを殊の外心配されて、お医者をやつて、早く癒して呉れと幾度も、又た本人にも必らず死ぬなと見舞はれる度毎に言はれたと聞いてゐます。
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先生も以前は随分義太夫を語られました。近頃はあまり高座へは出られませんでしたが、大阪に居られた時分、初代の呂太夫、ハラ〳〵屋の呂太夫といはれた人に就て忠臣蔵の六段目を稽古して、それを摂津大掾に聴かせた事があります。その時、深編笠の侍二人の出に『原郷右衛門、千崎弥五郎』と門口の名乗を別々の声、ツマリ二人別々に言ふ調子で語つたのを大掾は聞咎めてそれは郷右衛門が千崎の名も一緒に言ふのが本当で、歌舞伎とは違ひます、と言つたので、成る程と先生は呂太夫に対しヨタを教へて、俺に恥をかゝせた散々怒鳴られたといふ逸話が残つてをります。これが先生の最後に、今の呂太夫か贔負にされる事になつたのは因縁といへばいへるかもしれません。
それから数年前、司好さんの三味線で「忠臣講釈」の喜内住家を端場から丸一段聴かされた事がありましたが『おい八兵衛、俺のチンバ上るり、悪い処を言ふてくれ』といふお話『いや、よく覚えてゐられます、結構でしたが、一ケ所申上げたい事がありますが……』と言ひ渋りますと『為めになることがあつたら何でも言ふてくれ』とあつたので、子役の「這ひ下りて」といふ地合を先生は子役の詞の調子で語られましたが違ひませう、と申上げたら『うーむさうだつたな』と解られて喜ばれた事があります。
先づ此の辺に致しておきます。
伊藤さんと私 痴遊雑誌1(4) 281-283 1935.8.15
香伯 梅本和三郎
伊藤さんと私、随分古い交遊です。
明治何年ですか、伊藤さんが、双木舎痴遊と名乗って、新講談を始められた頃私が三十間堀に居たもので近所の長谷川ばん亀といふ人の寿亭へ聴きに入つたのが最初で、どうも其の態度なり気質なりが、実におもしろい--壮士で新講談をやる、その講談たるや、ありの侭を作らず飾らず、それでゐて惹付けられる--とにかく私は伊藤さんに惚れ込んだのでした。そしてその寄席へ私はビラを貼りました。ビラなどゝいふものは今流行りませんが、その頃は贔屓の芸人には、皆な景気付けに、場内にいろ〳〵の形式でビラを贈つたものでした。
それから銀座亭?の昼席今の貞山が其の時分空板を叩いてゐました。私は毎日伊藤さんの講談を聴きにつめたもので、所謂定連になつていつとなく心安く馴染になつてしまつたのです。
私は其頃、烏森の五代目吉兵衛に可愛がられて、今の相生の先代相生太夫を弾いて八兵衛といつてゐました。二十六か七だつたとおぼえます。その中、相生太夫と共に大阪の文楽に帰りまして、第一回に『野崎』※をだしました。その頃の給料が、一日一円といふのでした。若い者にしては好い方だつたのでせう。元来相生太夫は呉竹といつた素人だつたので、其時京都の先代友次郎師の処へ行つて『野崎』を聴いて貰つたのですが、相生テンデ声も出ず、語れない始末、友次郎さんは『あんた、やつぱり呉竹さんでやつときなはれ』と言はれた事があります。
※文楽座 1890.4
第二回が『明がらす』※大阪の木谷蓬吟氏のお父さんの弥太夫さんに習ふて、アノ新内節と間違へるやうな事を言はずに語つたので、評判を取りました、第三回が『御所桜』※その時、弁慶の人形を使つたのが、例の名人吉田玉蔵(今の富崎大検校のお爺さん)で、初日に、舞台を下りると楽屋へ呼付られて『あんな丁稚小僧のやうな弁慶では人形が使はれへん』と大カスを喰つた事を覚えてゐます。その時分の事はまだいろ〳〵話もありますが今は略しますが、生意気になつた私は、大阪でゴクドウを始めて始末のつかぬ暴れ方をして東京へ舞戻つたのですが、その後、相生太夫は先代の綱造、豊沢小団二などが弾き松太郎さんも勝鳳さんも、又た今の吉兵衛さんが吉三郎時代に弾いてゐたのです。
文楽座 1890.5, 1890.6
それからずつと東京移住となつて、伊藤さんに又た会うやうになりました。其時は、日頃贔屓になってゐた大村屋--此処には当時政界でもチヤキ〳〵の鳩山和夫さん、杉山茂丸さん、司法次官をしてゐられた山田喜之助さんなどが遊びに来られた--その大村屋の『大』の字と、綾瀬太夫を弾いてゐた豊造の『造』の字を貰つて、私は鶴沢大造と名乗つてゐました。
それから或る年、私が仙台へ興行に出ました時、それは全く偶然、伊藤さんが痴遊でなく仁太郎で政談演説に来られ、仙台の旅の空で奇遇を懐かしがり、二人で記念の写真を撮つたりして、いよ〳〵兄弟分となり親友の交誼を約束したものでした。
河野広中さんの弟さんの広体さんや何か静岡事件と加波山事件で下獄した人達の出て来た時、伊藤さんの主催で神田明神の開花楼に祝賀会を催され、誘はれて行つた事があり、爾後伊藤さんの立候補には及ばずながら応援し、落選又落選の憂き目を見て、幾度泣いたかわかりません。私は義太夫の三味線弾で育つたものの、どうも、政治家にならうか、相場師にならうかといふ、野心ですか、非望ですか、道楽ですか、普通の芸人根性になれない男で、常に芸人の堕落を憤慨してゐたもの、ある時など、例の大村屋に宴会があつて、私も聘かれたのですが、芸者や幇間と一緒に、祝儀袋が下げられると私は其場で『余興でも何でも芸を勤めて後に報酬を頂くなら格別芸妓や幇間と一緒に、お座敷で御祝儀など、断じて頂かれません』と突返した事がありました。山田喜之助さんが『ふーむ、イヤ中々逞ましい、お腹の据つてゐる男だ』と言はれた事がありました。そんな訳で、自然、その方々とも御懇意を願ふやうになりました。
その後、私は横浜で仲買人になつて、生来好きな博奕を楽んでゐましたが、一時ちよつとくさつてしまひ東京に舞戻り、少々悄気てゐた時、伊藤さんは私に『再び三味線を持て』と強意見の上、いろ〳〵心配して人形町の寄席で、私の為めに演芸会を催ほして呉れましたが、その日に私は競馬に張つた山が当つたので、伊藤さんの処へ金包を携へてもう演芸会には及ばないといつて行くと恐ろしく怒られた事を覚えてゐます。
それから或る時、私が三味線弾でなく若太夫といふ太夫となつて、京都へ興行に行きました。確か春子太夫が病気で出られなくなつた時の代り役だつたと思ひますが、其時、伊藤君も京都方面へ来てゐられて、黙つて立派な花輪を『親友伊藤仁太郎』として飾つて呉れました。其時の演し物は『沼津』と『忠六』※でした。此の沼津は大層な評判を得まして、伊藤さんが常に人に語られる文楽の連中が『梅本さんの三味線は已むを得ないが、語りだけは遠慮して貰ひたい』とこぼしたといふのがその時でした。
※竹豊座 1920.10.24-, 1920.11.14-
英雄色を好むといふやつですか、彼ア見えても伊藤さんも若い時分には、相当艶聞もあつたものでした。私が八官町に居た頃でした伊藤さんが獄中から手紙をよこして『どこそこの二階にアレが居るから頼む』といつて来た事もありました。脱線的で、この話はまア此の位にしておきませう、敵討に私の旧悪を素ッ破抜かれても困りますから……
とにかく、伊藤さんは私が三味線を持てば喜んで呉れるやうですが、とかく、色々な方面に手を拡げて伊藤さんに抗らつては怒られてゐます。それで話術研究会でも二三度演らせて貰ひましたが、また此の秋には、久し振りに、例の問題の『沼津』を一つ語つてお聴かせしゃうと思つてゐます。(写真、左の和服が伊藤会長二十八歳、右の洋服が梅本香伯三十一歳)
略歴 太棹137:24-25 1942.7.25
本名梅本和三郎、元治元年十月二日大阪市此花区上福島に生る。十一歳にして五代目鶴沢寛治に入門し小寛の名にて文楽座に入座。師が竹本重太夫を弾いて上京の際随伴して口語り竹本光太夫を弾く、此時十五歳。十八歳の時鶴沢文吾と称して地方巡業に出づ。寛治師亡き後六代目野沢吉弥の預り弟子となり野沢和三郎と称す、此時廿歳。吉弥師亡き後は五代目野沢吉兵衛に師事し、竹本谷太夫後の染太夫(九代目)を弾く。廿六歳の時二代目竹本相生太夫の招聘に依り上京、此時野沢八兵衛と名乗る。それよリ相生太夫と共に下阪して文楽座に戻り相生太夫を弾き又六代目豊竹時太夫をも弾きしが、後に法善寺の津太夫を弾いて「堀川」と「引窓」の二タ芝居を勤めし事あり。それより又々上京して鶴沢大造と名乗り相生太夫を弾きしも四五年にして斯界を隠退し実業界に入り、傍ら梅本香伯の素義名を以て三味線に親しむ。大正八年竹本若太夫の名の下に京都竹豊座に出勤後再び東京に戻り寛治師五十年忌を機として三味線を取り、七十五歳にして二代目鶴沢観西翁を襲名せしが、今回五十余年振りにて文楽座に出勤する事になたのである。
なほ昔は太夫の数を弾かぬと修業にならぬと言へ、それに太夫の意気を知る為めに随分沢山の太夫を弾いたものである。前記略歴の外に初代源太夫、初代七五三太夫、先代津賀太夫、路太夫、二代目南部太夫、初代千駒太夫、東京に亡くなった駒太夫等、等、思ひ出せぬ数にのぼつてゐるさうである。