平成十八年七・八月公演(8/7のみ)  

第一部

『増補大江山』「戻り橋」
 今回は子ども向けではなく、そのまま。しかし、それが過去から学んだ結果ではなく、どうやらネタ切れによるもののようだ。とはいえ、客席の子どもたちが案外にまじめだったのは、小学校から日本伝統音楽に触れたり、「にほんごであそぼ」などTV等による好影響が出ているのかもしれない。つまらない新作物はもはや不要だろう。
 勘十郎の綱が素敵だ。若菜を妖魔と見破って極まるところ、子どもたちから「カッチョイイ」と声が挙がっていた。若菜の紋寿はもっと大胆に動いていい。シテは自分なのだから。扇面を借り受けての舞も地味だ。扇の舞によって宮仕えを許されたほどの力量と詞章にあるからは尚更だろう。それと、この後のクドキで動けるところがあって、それが二番煎じに受け取られてしまう結果となった。扇を見事に使って客席から嘆声と拍手が来るほどでなければ、この若菜は不十分だと言わざるをえない。衣装の打返りもタイミングが悪く目立たず、カシラを回す迫力も乏しかった。それから、綱との立ち回り、最後揉み合う内に腕を切り落とされるのだが、これが判然としない。気が付くと綱が腕を掲げているというお粗末。両者引き分けでなく、腕を切り落とした綱の勝利が重要なのだから、きっちり見せておく工夫が必要だ。次回までに改善を強く望む。右源太左源太は溌剌としてよい(とくに前者)。
 床は寛治師の三味線、冒頭の不気味さが、「春雨もいつしか」からパッと転ずる鮮やかさ。もちろん音の豊かさや巾は言うまでもない。二枚目の清志郎は安定感が出てきた。三枚目代役清丈も強く大きい。八雲もまずまず。太夫陣、津駒は声が楽日まで保たないのか、それとまだ線が細い。ゆえに美声にうっとりとはいかない。文字久にもはや不安はなく大音強声も頼もしいが、如何せん面白くないのが事実。「折節さつと」からの変化も三味線は出来ているのに。津国は相子と番えでは失礼だが、相子はそれによく応えた。
 全体として、鑑賞ガイドの言う「大スペクタクル」には至らず、ただ勘十郎は繰り返しになるが素晴らしかった。
 

『解説』
 一輔は面白い。会話のツボをよく心得ているし、間が絶妙にいい。天地会で太夫をやっても上手いだろう。 

『恋女房染分手綱』
「道中双六」
 いつもそうだが、千歳はマクラに感心して聞き進んでいくと、途中で乱れて汚くなり声も保たず、結局満足して終わることがない。家老本田の詞も出来ているのだが、残念というか何というか。彼ももう五十になるのだろう。いつまでも華の三役格ではいられないのに。清治にはご苦労だが、何としても五代目を継げるまでに引き上げていただきたい。ツレの睦、お陰でこの一段が用意ならざるものであるとよくわかった。「馬方が片肌脱いで」「あいと言ふより慮外をも」以下が不安定で聞いていられない。もちろん上手く聞かせるなどは論外の三吉で、そこは真っ直ぐ大きく語っているのだが、音遣いの難しさを改めて認識されられた。となると、かつて千歳や呂勢が語ったときの力量とは画然たる差を感じざるを得なかったということになる。

「重の井子別れ」
 「家族の絆、母としての愛情の大切さをお子様と共に感じていただける」上演、などと鑑賞ガイドに書いてある。とても信じられない、というよりも、この浄瑠璃の勘所をまるで解していない。これがまあ例のA紙芸能記者のトンデモ記事なら仕方ないにしても、劇場の制作担当者がこんな世迷い言を現実化しているのだから、愕然とするより他はない。実際、観客にアンケートでも取ればはっきりする、いやこの客席の様子雰囲気をモニター室から見ていれば一目瞭然だったろう。その意図がまったく外れていたという厳然たる事実を。この一段は、重の井の「コレ物をよう合点しや」から始まる長い述懐が胸にしっかりと応えなければ、何のことはない、母が世間体を気にして子を拒絶する話としてしか感じ取られない。まあ、三吉は自立した少年だと好印象を持たれるだろうが。加えてこの一段は大和風を代表的する名品である(今更言うまでもないことだが、担当者には言ってもわからないだろう)。これについては、聞所で詳しく述べたのでそちらを参照されたい。つまり、重の井のコトバがそのまま詞として平易に伝えられるものではないということでもある。風を切り捨て筋書きだけで事足れりと考えた制作側だが、物の見事に失敗に終わったということである。これは当然の結果で、火を見るよりも明らかであったのだが、大火事になっても予測できませんでしたからと平然と言ってのける(しかもそれが、白を切っているのではなく、心底そう思っているのだからどうしようもない)役所体制・役人体質が図らずも現れてしまったというところか。あるいは、ひょっとすると今回は親子劇場だから、最初から全うに考えてはいなかったのかもしれない。なぜなら、白湯汲みも付いていなかったのだから。しかし、番付には切の字が付いている…。それにしても、こういう形で、またしても当の劇場側から、風のポイ捨てが行われたということに、この国の終焉がここにも一つあったと、あらためて確認したのであった。もう諦めるしかないのだろうな。
 ということで、床も人形もそれなりに勤める。手は抜いていない、真剣勝負である。ただ、制作側の姿勢と客席の雰囲気はそのまま三業に伝わる、という意味でのそれなりである。床は、四段目切場ゆえ富助ということで納得がいく。幕見席から声も掛かっていたし、相応に満足のいく出来であった。とはいえ、風といい「くわ」音といい、越路喜左衛門とは隔世の感がある。人形は文雀師重の井の貫禄は他に無し、これでこそお乳の人である。三吉(紋臣)はこましゃくれより愛らしく表現。家老本田の文司は純朴に味を出した(ただしこの遣い方だと床の浄瑠璃とは齟齬がある。千歳は矍鑠とした田夫に扱っていた)。
 この切場は一時間にも満たない。そこに上記の詞章と大和風である。今回の親子劇場で、本当に親子の情愛を伝えようとするのであれば、このような難物(見かけ上は平易だが)ではなく、「葛の葉」か「狐別れ」にすべきだったろう。もちろん風は存在するし、容易でもない。しかし、動物の情愛と絡んでいる方が、現代日本の親子関係にあっては、よほど胸に響くはずだ。その辺りのリサーチは、新聞の文化欄や家庭欄を読むだけでもわかるだろう。「重の井子別れ」の真実が再び感じられるためには、あと半世紀は必要だろう。あるいは、もう永遠に望めないか、どちらかである。
 

第二部

『夏祭浪花鑑』
「住吉鳥居前」
 端場をつばさと清丈。両者ともに浄瑠璃が身に付いていて結構。足取りとか間とか、そういう難しいところは体感できないとどうしようもないのだが、そこがまず掴めているというのが頼もしい、有望である。が、今は上手くよりも一杯に、遠く前へである。
 奥は松香と清友。面白く聞けた。作品の良さをもきっちり聞かせた。が、最後いささか退屈に感じられたのは、徳兵衛と団七の男伊達にあと一歩描出力が及ばなかったということだろう。これができれば切語りなのだが。
 

「内本町道具屋」
 端場は南都に団吾、お似合いである。マクラが大きいのはいいがこれでは大時代に過ぎる。ここはあくまでも町家である。そのせいで、次の「花を飾るは」からの変化がまるでなってない。あと伝八の人物像が不明。とはいえ、端場をまず語れるようになったことは認められる。
 奥を咲燕三、期待していたよりはサラサラと進む。もちろん各人物は際立っているのだが、もう一段鮮やかに聞こえてもと感じた。華の時期から実のある芸へ、というところかもしれないが。
 

「釣船三婦内」
 この端場は千歳で聞いて初めて開眼できたところ。「見世を揚屋の祭見に」以下の詞章通り、磯之丞と琴浦の恋模様の面白さに、三婦女房おつぎの粋な差配が楽しい。新と清志郎はこれを見事に仕上げ、前二組の端場とは数段上の実力を感じさせた(新調の見台に相応しい)。新の浄瑠璃にはいい味がすでにあり、清志郎の三味線は清治後継者の第一であることを示した。
 切場は住師に錦糸で余人無し。錦糸は「自然に感じられる三味線を」と語っているが、今やそれはまず達成されたといってよい。ヴィルトゥオーソが自然に聞こえるようになるほど空恐ろしいことはない。住師の語りについては、5年前の評に枯れた滋味が加わり、究極の浄瑠璃となった。
 ただし、劇場制作側には大いに注文がある。なぜ『伊勢音頭恋寝刃』「古市油屋」を出さなかったのか。これこそ十年来耳にしていない、住師幻の絶品である。もしこのまま再演ならずということにでもなれば、ファンの前に茨の鞭を背負って正座せねばなるまい。東京では玉男師の忠度という重罪を既に負っているというのに、前車の轍は後車も転覆という情けない事態になるのだろうか。
 跡が始龍爾、地が安定してきた。詞は器用ではないが、口真似とせず確実に語る姿勢に好感が持てる。三味線も強く大きく音が前に出ていてよし。ここにも一組有望な若手がいる。

「長町裏」
 恥ずかしながら、語り出すのを聞くまで、団七が英で綱大夫が義平次に回って切り込む、という次代を見据えた大所高所からの配慮に、拍手喝采を惜しまぬつもりでいた。それが、逆ではないか。またしても劇場制作側の頓珍漢な工作に嵌められてしまった。もちろんこのご両人だから、悪かろうはずはない。はずはないが、何の意味がそこにあるのだろうか。人形を活かす語り、そんなことは当然の床だ。綱大夫清二郎そして英には正直なところ同情を禁じ得ない。早稲田の方がよほど彼らの真価を知っている。「竹中砦」「壬生村」そして「童子対面」(これはラジオ放送されてはいるが)、早く一般に頒布されんことを、心底から望む今年の夏である。
 それでは、人形陣の総評を。
 とにもかくにも玉女の団七。ついに立役肚というものを感じた。大きさ強さは言うまでもなく、深みと巾が出ていることに驚嘆した。極まり型の美しいことはもちろんだ。玉女の遣う文七カシラに、客席からこれほど自然に拍手が寄せられ喝采が起こったことはかつてなかったろう。髪結床から出るや「おおおっ」、泥場で極まるや「いいわぁ」。こちらも久しぶりでゾクゾクさせられた。この上に男の色気が加われば、世の文楽ファンは黙っていないだろう。登場するや拍手の嵐となるのも時間の問題だ。これで次代人形陣の龍虎は揃った。もっとも、今回の団七をしっくりと自然にでは…云々と評する向きもあろうが、それは酷というものだ。もしそれが実現していたならば、本公演が二代玉男襲名披露狂言となるのだから。三婦の文吾はかつての侠客をまざまざと感じさせる遣い方がよい。「わいら蝗のやうに思ふわい」の言葉通り、「鳥居前」と「三婦内」での捌き方は、これまた「美しいので気味悪く」の詞章そのまま、鮮やかで素敵であった。その分枯れ具合が…とも感じたが、それは住師の語りで十分だろう。お梶の紋豊は「鳥居前」での捌きがすべてだが、もっと存在感があってもと思われた。おつぎの和生、これは端場で若い二人を窘めるのが為所、三婦に叱られてからもよかった。全体にもう少し俗であってもよかろう。義平次は玉也、嫌みな役所でふてぶてしさもあり、金がすべてで婿の衷心衷情など全く意に介さず、泥場での立ち回り、文字通り泥まみれの凄惨さは、観る者をして思わず目を背けさすほど。これで強烈な体臭まで伝わってくれば、大舅カシラにも手が届こう。磯之丞の清之助、これがまたよかった。源太カシラの色気は玉男師を置いて他無いのだが、今回金と力はなかりける色男を如実に描き出た「鳥居前」、また玉島家御曹司という武士の意地と、それが若さと短気となって現れ出る「道具屋」、そして子どものように拗ねては強がる「三婦内」と、師の跡を襲うべき地位が見えたと言ってもよいだろう。徳兵衛の玉輝も好演、精気が感じられた。より団七との差を目立たせてもよい。伝八の文司は相応、お中の玉英はかつてのぎこちなさが消えて結構、亀次の孫右衛門も相応、勘弥の琴浦はもっと色気を、傾城である。弥市の清五郎、佐賀右衛門の玉佳ともに嫌らしいが小心のケチな野郎と感じさせてよし。蝗の二人(簑一郎・一輔)も出来ていた。
 なお、簑助師のお辰については贅言を避ける。万人がすべてその色気と侠気という魅力に圧倒されたことは間違いないのだから。
 

『連獅子』
 第一部から通しで見ると、景事は「戻り橋」で済んでいるし、第三部は遠慮したいから、これを休憩入りで待てといわれても困惑する。この人形陣にこの太夫陣、そして道八作曲ではあるが、謹んで辞退申し上げた。
 なお、鑑賞ガイドの分量が減ったのは有り難い。あの自己満足とも取れる勝手な解釈の山には辟易していたところでもあるから。
 

『夫婦善哉』
 力が入っている、劇場側も制作側も。「演出のことば」(竹本浩三)を読んで、その力み(とそれによる空振りも)を感じ取っていただきたい。「大衆の新作待望の要求」という錯誤は時代を感じさせるが、「貴重な人形劇」との認識は、なるほどなあと感じた。ただ「現代若者に敬遠されがちな文楽」というのなら、「夫婦善哉」という今となっては大阪幻想台本にこそ「革新の大鉈を振る」ってほしかった。が、「オダサクと石濱恒夫」という題を掲げている以上はそうもいくまい。今回は、戦前戦中派の懐古という点で納得できるし、新人形劇ブンラクの試みも別段拒む理由はない。ただ、それらに付き合う気はなかったということである(団塊の世代にとっては格好の自慰対象となったかもしれぬ)。ちなみに私は、土曜の午後学校から帰ると、吉本新喜劇をTVで観るのを楽しみにしていた者であることを付言しておく。念のため。

 なお、今回失礼した埋め合わせは、九月東京『忠臣蔵』でさせていただく。とりわけ「七段目」、すでに胸の高まりを抑えかねている。